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三十二 青年は家に帰る
駅員に路線図を用いて説明して貰った事によると、いや、現在地の住所を聞いて知ったことだが、俺は日本の秘境にいたのではなく神奈川県にいるという事がわかった。
そうだよ。
深く考えなくともあのパトカーは神奈川県警だった。
俺は世田谷で誘拐されて、神奈川県に運ばれていたという事か。
確かに、車で一時間ぐらいの行き先だ。
俺は甲斐からお金を借りずとも普通に家にまで千円かからずに帰れていたと知り、二千円しか持っていない甲斐がガソリン代が足りなくてエンストしたら顔を向けられないと申し訳なく思った。
警察なんだったら公共料金ぐらい知っていてよ!
いや、知らないのだったら、このまま黙っていよう。
さて、帰れると判って俺は落ち着いたからか、飯島に電話しようとガラホを取り出した。
――俺じゃなくて飯島に縋れよ。
俺はガラホをズボンのポケットに戻し、とりあえず電車に乗るためにホームへと歩いた。
「別に、あんたの言葉に反発したわけでもないし。そう、今電話したら、きっと比呂は俺を迎えに来ようと余計に動いちゃうからってだけだ。心配するだろうし」
そう、飯島は絶対に俺が知らない場所にいるなんて言ったら、絶対に迎えに来てしまうだろう。なぜだか知らないが、飯島は俺に対して妙に過保護なのである。
それが俺には煩いどころか自然に受け入れてしまうのは、俺が母や姉に甘々に育てられた三文安な子供だからだろうか?
一緒に暮らし始めてほんの数日だが、俺は飯島がいる空間がすんなりと受け入れられて、母と一緒に暮らしているような感じでもあるのだ。
彼は母よりもずっと美人だが。
困るのが、俺が子供の頃の事を話すと泣いてしまう所だ。
父親が出て行ってから彼の話がタブーの家だった反動か、それに今俺は母や姉の事を口にしたら泣いてしまうからか、つい、余り覚えていない親父の事を語ってしまうのだ。
「水族館が好きな人だった。懐中電灯を持って夜の水族館に連れて行ったの」
「とても静かな人だった。俺は彼の膝で絵本を読んで、彼は小説を読んでいた」
そして飯島が泣いてしまう。
この間は飯島を泣かせてしまったのが店内で、客が引けた後にサロンでみんなで出前したピザを食べていた時だった。
「父さんのピザは最高だったよ。生地から作るんだ。また食べたいな」
俺の思わずの言葉に、やはり飯島が泣き出した。ほろほろと。
「カッチー、お前はさ、親父の事を覚えているようで覚えていないよな。顔とかは思い出せないのか?」
松井が俺の代わりに飯島にティッシュを渡しながら、いかにも不思議だという風に俺に尋ねた。
「顔は知っているよ。姉さんと通夜に出たから。でもなんか、遺影を見ても俺の記憶の父さんじゃない感じで、違うんだ。どうしてだろう」
「え、お前の中では死んじゃってたの?」
松井ではなく仙波が驚いた声をあげた。
「うん。母さんと離婚した翌年かな。交通事故で亡くなったって連絡が来て、俺達は通夜だけで帰った。姉があの人はもう自分の家族じゃないから、向こうの祖父母もどうでも良いって。通夜に出たのは義理だけだからって、果たしたから帰ろうって言い出して」
「お前の姉さんって、子供のくせに良い性格していたんだな」
仙波の声はかなりの称賛というか感嘆を帯びているものだった。
「うん、性格は悪かったよ。それで、俺もなんか思い出と違うから良いかなって。なんかね、思い出の父さんってもっと細身で柔らかいシルエットなんだよね。俺は子供だったから変な風に記憶違いしているのかな。父さんが大好きだったと言う割りに、酷い子供だよね、俺って」
その日は飯島が本格的に泣き出したために、予約をキャンセルまでして店は昼でクローズにするしかなかった。
だけど、どうして父の思い出があやふやなのだろう。
俺は両親が離婚した時には、五歳になっていたはずなのに。
俺が滔々と思い出している間に電車は目的の駅に着き、俺は乗り換え用のホームに問題なく立つ事が出来、そして無事に乗り込めた。
「これで、乗っているだけで、三茶に帰れる」
ホッとした俺は、子供が親に帰宅を知らせるかのように飯島に電話をしていた。
あ、まあいい! 甲斐なんか知った事か!
「大丈夫? 怪我は無い?」
凄く心配してくれる飯島の声に迎えられ、俺はその声に人心地が付いたようで、やはり子供のように乗った電車の大体の到着時間を彼に伝えていた。
「駅まで迎えに行くよ」
「もう! 子供じゃないから大丈夫だって、父さん」
俺は自分の口から自然に出てしまった言葉に呆然として、そして、そのまま崩れ落ちた。
「お父さん、お父さん、ご免なさい、忘れていてご免なさい」
電話口の向こうも泣いているのがわかった。
飯島は大きく息を吸った音を電話に響かせて、何か喋ろうとして息しか吐き出せないでいるのがわかった。俺もそうだったからだ。二十歳と三十代後半の男が、ハフハフと口パクを延々としているだけの状況に、そのうち自然に笑いがどちらかからか沸き起こり、二人して本格的に笑い出した。
すると、ようやく声が出た。
「ごめん、いままでちゃんと覚えていなくて」
「いいよ。帰ったらゆっくり話そう。なにかあったら迎えに行くから、すぐ電話するんだよ。着いたら電話してね。本当に大丈夫かい?」
母親よりも母親のような過保護ぶりに苦笑しつつ、俺は幼稚園に迎えに来る父親の姿を完全に思い出した。
アルバイトのカフェ帰りだと白いシャツに黒のスラックス姿の若い比呂は美しく、誰よりも格好良かった、俺の大好きだった父だ。
「じゃあね」
「気をつけるんだよ」
座席に座らずにしゃがんだまま電話を掛けていた事に気づいた俺は立ち上がり、座席に座りなおした。
変な風にガクガクしている足をマッサージしながら、俺は何ヶ月ぶりかに気持ちが楽になっていた事に気がついた。
「父さんが、俺にはまだお父さんがいたんだよ。一人じゃない。一人じゃない」
その三十分後ぐらいの、ようやく三軒茶屋駅に降り立った時に俺の携帯が鳴り、俺は飯島だと番号も見ずに耳に当てた。
「克哉?」
聞き覚えのある声に、俺は電撃を受けたように立ち竦むしかなかった。
「克哉?」
俺は全ての息を吐き出していた。
いや、息を吸ったのだ。
俺は姉の声で息を吹き返したのである。
「姉さん? 生きていたんだ。あぁ、よかった。今どこ? 迎えに行くよ」
電話の向こうは、先程の俺への呼びかけが嘘のように沈黙に変わった。
「もしもし? 姉さん? もしもし?」
応答の無い向こうに、俺は夢だったのかと携帯の画面を見直した。
通話中だ。
再び耳に当てると、ようやく懐かしい声が耳に囁いた。
「私は狙われているの。殺される。誰にも言わずに私に会いに来て」
「姉さん。俺の周りには警察の人がいるから大丈夫だよ」
「その警察が危ないの。彼らはあなたから私の居場所を探ろうとしているのよ。お願い、私を助けて」
俺は今朝俺を拉致した男が警察を名乗っていた事を思い出した。姉も同じ経験をしたのかもしれない。俺は姉のためには何だってすると決めたのだ。
「どうすればいい?」
「まず、あなたに会いたい。小さい時に遊んだ公園、覚えている?」
俺は思わずクスっと笑った。
246沿いの小道にある公園だ。
公園というかこんな所に遊具が? なぜ? と姉と二人で驚いて、その日から二人の「内緒の公園」になっただけだ。
「今すぐに行くよ。お腹は空いていない? 行くまでのコンビニで何か必要なものを買っていくから」
電話の向こうは聞きなれた何時もの声で笑っていた。
「克哉に今すぐ会いたいからすぐに来て」
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