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三十三 あなただけは生きてくれ
公園に向かっている最中に携帯に電話が掛かった。
「今どこ?」
飯島だった。
「もう三茶だよ。姉さんが生きていたんだ。でも、凄く怯えているから俺だけまず会いに行って来る」
「美奈は大丈夫だって?」
飯島は姉を本気で心配している声を出した。
自分の娘どころか、あんなに比呂を疎んじていた事もある美奈子に、彼はなんて優しいのだろう。そして、姉はなぜあんなにも俺に「比呂に会うな、話もするな」と言い聞かしていたのだろう。
「克哉?」
「あぁ、ごめんなさい。本当に姉さんは怯えているだけみたいだから、宥めて連れ帰るよ。少し遅くなるから心配しないで。いつもの公園で姉さんが待っているから」
俺は携帯を片付けると、姉の待つ公園へと、あまり走らない自分が走って、走った。
もう七時を回っているせいか、夏でも辺りは真っ暗だ。
緑道から外れた小径は外灯もあまりなく、そして木々が環境整備で植えられていることとビルの影などで、三茶は夜には真っ暗となる場所がある。
俺は走りながら、誰も遊ばない公園の意味が分かった。
日が落ちたらそこが怖い場所になるからだ。
「姉さん! 姉さん! どこ!」
辿り着いたそこに姉の姿が見えなかった。
姉はいないのに藪蚊がぶんぶん飛んでいる。
「暗くて蚊が多いんじゃ、誰も来ないの当たり前か」
腕に付いた縞のある大きな蚊を潰すと、クスクス笑いが後ろから聞こえた。
「姉さん!」
嬉しさで振り向いた俺の後ろには、姉だったものが立っていた。
彼女の纏うワンピースは白だったはずだ。
今は見る影もなく血と泥と何かで黴が一面に生えた食パンのような有様だ。
彼女の美しかった顔は事故によるものか額の皮が剥け、体中にも裂傷が見える。
こんな姿でどうやってここまで来たのだろう。
電気の止められた部屋で熱中症で死んでいれば家族全員死人になれたかもしれないじゃないかって、本当にそのとおりだった。
家族全員、皆が、俺を残して死んでいた。
そして全員残らず死人化しているなんて、一体なんの冗談なのだろう。
「こんな姿だから夜しか歩けない。あなたに会うまで、こんなにもかかってしまった」
美奈子はおぼつかない足取りで、俺の方へ一歩、また一歩と近づいてくる。
あんなに美しかった姉の変わり果てた姿でも、俺には恐怖も嫌悪感も湧くどころか、変わらずに彼女を受け入れていた。いや、彼女が動いている事が嬉しかった。
「一ヶ月近くもかけて俺に会いに来てくれたんだね」
俺も姉の方へ一歩進んだ。
「息が出来なくて、それが辛いの。ずーと海の底にいるよう」
俺は傍まで来た姉を抱きしめた。
彼女は弾力どころかグシャリとした感触で、よろけた母を抱きしめた時の事を俺に思い出させて、俺に事実を突き付けた。
あの時の母さんは完全に死んでいたんだと。
俺はどうして母の変化に気づいて上げられなかったのだろう。
一緒に住んで笑いあっていたのに。
よろけた母を抱えた時のその彼女の質感に、驚いた俺は彼女をパッと離したのだ。
そうだ、俺が母を無意識に突き放したのだ。
だから母さんがあの日から帰って来なくなったのじゃないか。
どうして母を拒絶してしまったのだろうかと、俺は今度こそ家族を離すまいと美奈子を抱きしめる腕に力を込めた。
「姉さんは離さないよ」
けれど、腹に熱い痛みを感じて俺は力を失い、美奈子を抱く腕がぶらりと下がり、俺はそのまま膝から崩れ落ちた。痛みに体が自然に丸まり、俺は腹にできた大穴を反射的に両手で押さえるが、塞ぎようもなくそこから血を溢れさせるだけだった。
これは、俺だけが生きている、という事実。
「克哉、あなたを殺してあなたを食べると私は生き返るんですって」
倒れた俺の足元には、俺を誰よりも大事にしていた美奈子が立っている。俺が一番愛していた彼女が、死にゆく俺を見下ろしているのだ。
彼女の手には割れたガラスが握られて、血に塗れたガラス板は俺の姿を映し出していた。
幼子のように丸くなって倒れている情けない姿。
何もしたくないと、熱い部屋に倒れ込んだそのままでいたあの日の自分の姿だ。
「畜生! 何やってんだよお前。起きろよ。こんな無抵抗でどうするんだよ。少しは足掻けよ!」
俺は抱いて運ばれた先で転がされ、上からは滝のような雨がざあざあと降っている。
違う、バスタブに入れられた俺は、シャワーの水をかけられているのだ。
俺はバスタブに溜まっていく水の中にどんどん沈んでいく。
ぐいっと上体が引き上げられ、俺は泣く誰かに抱きしめられた。
「簡単に死ぬなよ。死のうとするんじゃないよ。足掻いてくれよ。俺が悪かったよ。だから、お前は、死なないでくれよ」
俺はその時は名も知らない彼を、俺の為に泣いてくれている彼に手を差し伸べて、彼の涙を親指で拭った。そして、彼がいる事で一人じゃ無くなった俺は、朦朧とした意識の中でありながら、彼をどこにも行かせまいと彼に両腕をかけてしがみ付いたのだ。
「お前、ああ、お前。畜生。ほら、離せ。水じゃない奴を持ってくるから、ほら、離してくれ。水以外のものを飲まないと、お前が死んでしまうじゃないか」
温かい体を俺は離せなかった。
俺は寂しいと、辛いと、誰かに縋って泣きたくて堪らなかった。
「ああ、畜生! おまえが死んじゃうじゃないか!」
俺の顔は大きな手によって仰向けられ、俺の唇は涙交じりの唇で塞がれた。
死にかけていた時に受け官能によって俺の身体はびくりと強張り、そのせいで俺の腕はしがみ付いていた体から離された。
「待ってろ!」
俺の上体はずるずるとバスタブを滑り、バスタブの中にぼちゃんと転がった。
そこには透明な水しかない。
沈んでいく俺をすっぽりと覆っていく透明な水だ。
白いバスタブは色を失った深海の世界。
ああ、息が出来ない。
「ごめんね、克哉。でもね、息が出来なくてとても辛いの。身体中が痛い。痛くて苦しくて堪らない。死ねないのなら、せめて楽に、楽になりたいのよ」
身体中を痺れさせる程の耐えられない傷の痛みが、死んでいるのに死ねない姉の傷跡の痛みと辛さを想像させた。まだ生きている俺は痛くて動けもしないのに、美奈子は俺に会うために一ヶ月近くも動いていたんだね。
「良いよ、食べて。俺は姉さんが大好きだから、姉さんが生き返るなら何でもするよ」
美奈子はゆらっと俺の頭の傍に移動して、すとんと壊れた人形の様に座り込んだ。
そして俺の頭を膝枕するように、彼女は自分の膝に抱えあげたのだ。
「私が……大好き、なの?」
彼女は食べるどころか、昔のように頭をそっと撫でてくれた。
俺は涙が出て止まらないまま、美奈子に伝えたかった事を吐き出した。
もう最後なのだ、口にしても良い筈だ。
「誰よりも愛しているよ。高瀬と不幸になればいいって願ってごめん。母さんみたいに離婚して戻ってきて欲しいって思っていてごめん。姉さんが来いって言ってくれた時に行けば良かった。あいつの子供を宿している姉さんを見たくなかったんだ。大好きだから。俺は姉さんが、姉さんじゃなくて、美奈子を愛していたんだ」
目がかすんで、体の感覚もわからなくなっていく。
頭を撫でる手を掴み、そして彼女の手の甲に口づけた。
彼女は俺に掴まれたままの手を持ち上げて、俺がしたように今度は彼女が俺の手の甲に口づけをした。
俺は安らかな気持ちで彼女に身を完全に預けた。
「いいよ、食べて。これで君と完全に一緒になれる」
愛する女に喰われるのならば、それこそ本望なのではないだろうか。
冷たくグニャっとした感触の膝枕に頭を預けたまま、美奈子の手を握り続け、そして俺は美奈子を想いながらそのまま自分の意識を手放した。
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