三十五 ここにいてください

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三十五 ここにいてください

 甲斐は口が悪いのだから、喋らない手の方が何倍も良い。 ――何をやってんだ! このど阿呆が!  俺が熱中症で死にかけたあの夜、俺は甲斐に罵られながら、今度はとっても乱暴にバスタブの底から持ち上げられた。  俺の頭は固い肩に乗せ上げられ、俺の背中はバシバシと叩かれている。  ああ、俺は咽ていた。  バスタブの中で沈んでいたから。  ぜえぜえとしているのに、男は俺の口元にペットボトルを加えさせようとする。  それは水道水だもの、もう飲みたくないよ。 「ああ、畜生。脱水症状だろうが。水じゃねえこっちを飲めって言ってんだろうが! お前はこのまんまじゃ死んじゃうだろうが!」  俺は乱暴に顔を仰向けられ、俺の唇は再び男の唇によって塞がれた。  それは今度は涙の味ではなく、薄いが甘ったるくて塩を感じるという不味いものだった。 「俺はあの日にあんたに助けられたんだね。ひな鳥みたいに、口移しもしてもらって」 「ハハハ。なんだ、また経口補水液が飲みたくなったか? それとも、俺とのキスの方が癖になっちまったか?」 「さいあく!」  俺は甲斐の手を振り払い甲斐を睨みつけたが、俺達は目が合って、そして、どちらともいえずに互いに顔を近づけて唇を合わせていた。  甲斐には最愛の女性がいる。  俺にだっている。  そして俺達はその最愛の女性が死んでしまって、彼女達に触れることなど出来ないから。  いや、これは後付けの理由だろう。  俺は甲斐に縋りついていたいだけだ。  彼を感じていたいだけだ。 「畜生。駄目だな。なんだか俺はお前に駄目にされている気がしてきた」 「え?」  バシ! 「いた!」  甲斐は俺から上半身を剥がすと、なぜか俺の額をパシリと叩いたのである。 「ひどい! なんで! 自分こそイケイケで俺にキスしていたじゃないか!」 「ば、馬鹿! デカい声で言うセリフじゃないだろ。ああ畜生。お前の顔が可愛らしすぎるのが問題だな。髭も生えてこない赤ん坊の肌だしな!」 「ひどい! 髭は高校の時にお母さんとお姉ちゃんに脱毛されちゃったんだもの! 腕も脛も! うちはエステ屋だったもん!」 「それでお前はエロい毛だけ残っていて毛深く見えるんだな。そここそ全部脱毛しなよ。ケツ毛さようならだ」 「ひどい!」  甲斐は馬鹿笑いを俺にして見せると、お前は大丈夫だよ、と言った。 「――大丈夫じゃないです。たぶん」 「大丈夫だよ。お前には血を分けた父親が残っているんだ」 「え、比呂は父さんだけど、本当の親子じゃないでしょう! 俺は夕紀子の子供という養子だし」  甲斐はポカンとした顔付きになり、バシっと俺の頭を叩いた。 「お前は本気で馬鹿だろ。夕紀子と飯島のいたいけな頃の子供なんだよ、お前は。飯島が十七歳の時の子供。飯島はお前の父親になりたいからと、高校を出てすぐにあぐりと結婚したんだとさ」 「うそ、本当の、父さん、だった?」 「ほんとの馬鹿だな、お前は。ほいほい知らない奴の車に乗るしさ」 「あ、そうだ。誘拐は何のためにされたのですか? なんか、鳥羽も俺の事どうでも良いって感じだったから。あの誘拐の意味がわかんなくて」  ブフっと甲斐が噴出した。 「俺もわかんないよ。よっちゃんとさ、意味わかんないよねって。大笑いしてさ」 「俺の誘拐って意味が分からないものだったのですか……」  ダハハと本格的に笑い出した甲斐が、馬鹿が馬鹿を呼んだのかねと、止めを刺してきた。 「三つ巴って、よく言うだろ。今回は鳥羽に俺達に夕紀子だ。そこにね、油揚げを掻っ攫おうとする鳶が現れたってだけだよ。ひゅっとね」  甲斐は自分の言葉に合わせて、左手を飛行機みたいにひゅっと動かした。 「俺は油揚げ?」 「そう見えた奴らが意味わかんないって話。誘拐した奴の話じゃ上からただ連れて来いって命令されただけらしくてね、実際それ以上情報持っていなかったしさ。よっちゃん案件になって彼が調べている最中。俺とよっちゃんは警視庁だろ。県警さんの公安は警察庁管轄になるからね。警視庁と警察庁の行き違いって線が強いかな。縄張り争い的な?」 「……。ゾンビと戦うお巡りさんなのに、そんな上の事情ってやつがあるんですね」 「ゾンビと戦うお巡りさんて、しっつれいだな、お前は本気で」 「甲斐さんこそ意地悪ばっかりです。俺は怪我人なのに酷いよ」 「煩せぇ、明日には動ける程度の傷じゃねぇか」 「明日には動ける、か」  俺は腹を押さえた。  病衣の下には包帯を感じ、俺が美奈子に刺された事が真実だと言っていた。 「姉さんはもう動かないんだ」 「ああ。完全に死んでいた。物凄く幸せそうな顔していたよ」  俺は立ち上がりかけた甲斐にありがとうと言い、彼のカーゴパンツのベルトループを掴んだ。 「離せよ。俺が帰れねぇじゃねえか」 「一人ぼっちの俺が可哀想じゃないですか」 「お前は一人ぼっちじゃねえだろ」  甲斐は俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でると、彼のベルトループを掴む俺の右腕の二の腕の下を摘まんだ。  すっごく痛かった。  怪我人に酷い事をした男は俺を置いて病室を出て行った。  一人で死体漁りをするために。
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