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三十七 百日紅が咲いている
黒いスーツ姿の甲斐は、俺に不幸を告げに来た。
母の移送だ。
それは、死人である母が地獄に送られるという意味だ。
「どうして!俺はそんなことを望んでいないって言っただろう」
俺の叫びに比呂が立ち上がろうとするところで、甲斐は手で立つなの合図で座らせた。
「連れて行けるのはコイツだけなんだ。水戸井、辛いかもしれないが、来るか?」
「行きます」
考えるまでも無い。
俺に会いたいがために地獄に母が行くというのなら、俺が立ち会わないわけには行かないだろ。
俺は店のエプロンを外して放ると、ビニール傘を持って甲斐と一緒に外に出た。
雨はスコールのようで、行きかう人の顔など見えないくらいのカーテンのようだった。
早足で歩いていた俺達は246に出たが、出た直ぐそこには見慣れた黒のワンボックスカーが駐車されていた。
俺が連れ去られたあの日に死人を乗せた車だ。
「お前の母さんはあの中だ。職員に襲い掛かったんだよ、わざと。お前の望みを伝えて、俺が地獄に連れて行けないと伝えた翌日にね。どうだ? きつかったら帰っていいよ」
俺は甲斐に返事も返さずに傘を閉じると、雨に濡れるのもかまわず車に走って行き、後部座席に勢いよく乗り込んだ。
「母さん」
後部座席にうな垂れて座っていた女性は、母の姿をした母そのものだった。
それなのに、シートベルトで固定された彼女は酷い事に両腕を縛られていて、そして、うな垂れて座席の隅に縮こまっている。
「母さん、俺を見てよ」
母は俺を窺うようにそっと見て、そしてすぐに顔を伏せた。
忌まわしいものを子供から隠すように。
彼女の思う忌まわしいものは彼女そのものだ。
理知的な自信に満ちた母はいまや弱々しく、打ちのめされた哀れな姿で丸まって俺から姿を隠そうと必死なのだ。
運転席に甲斐が乗り込んでバンっとドアを閉める音がすると、車は緩やかに地獄へと向かって走り出した。
俺は掴んでいた傘を足元に転がすと、母親の傍ににじり寄り、そして、 母のシートベルトを外して彼女を引き寄せた。
母は俺の行為にようやく顔を上げ、はっとした顔で俺を見返す。
夕紀子に押入れに閉じ込められた日に、「ユウちゃんと二度と親子ごっこをしたくない」「二度とママと呼びたくない」と母に縋って泣いた時の母の顔だ。
そうだ。
俺は浜野家を泣きながら飛び出して、「お母さん」と叫びながら知らないあの町を駆け続けたのだ。
すると、思いもかけず母の腕が俺を抱きとめた。
「克哉! 克哉! どうしたの!」
母は俺を心配して浜野家の近くをうろついていたのだと俺に語った。
「まだ六歳の赤ちゃんだもの、あなたは」
いつもなら「赤ちゃん」と呼ばれれば怒り出す六歳の俺は、赤子そのもので母に縋りつき、帰る帰ると母に強請り、そのまま俺を追いかけてきた夕紀子を振り返ることなく自宅に戻ったのだった。
「お母さん!」
思いがけずに母がいたあの時の喜びそのままの声で、今の俺も彼女に呼びかけた。
俺の呼びかけに彼女は驚きの表情を見せ、その顔には希望の輝きを宿らせて美しい微笑みを浮かべてくれた。
俺の母の顔。
今の俺はその顔をした理由を知っていると、あなたは俺の母以外何者でもないのだと、あの日に失敗した分も返せるようにと、俺は彼女をぎゅっと抱きしめた。
そして抱きしめながらも、俺は彼女の拘束を外そうと試みてもいた。
「おい、拘束は外すなよ。規則なんだよ!」
「うるさいよ!」
甲斐に言い返し、俺は母親の戒めを解こうと頑張っていた。
甲斐の馬鹿がきつく硬く縛るから、俺の人差し指や親指の爪の先が二枚爪になってボロボロだ。
「切るものは無いの! かた過ぎるよ」
「だから外すなって。面会者は大人しく横に座っているのがルールなんだよ。大人しくしろよ、降ろすぞお前」
突如ふッと縄が緩み、それに勢いづいた俺はさらに戒めを解いていく。
縄が食い込んでいたところを優しく撫でながら、母とこの間の邪魔な縄は助手席の椅子の裏にぶつけるようにして投げつけた。
「そんなルール糞喰らえだよ。拘束してなきゃなら、俺が母さんを抱きしめているならいいでしょうよ」
抱きしめた彼女はグンニャリして、温かみも、彼女のいい臭いも無くなっていたが、彼女は俺の母で、母そのものだった。
これが最後ならば、彼女に縋り続けたっていいだろう。
「どこに行くか知らないけれど、これが最後なら、この車に乗っているこの時間だけなら、俺が母さんに抱きついていたっていいだろう。母さんなんだよ。俺の母さんなんだよ」
抱きしめているグンニャリした物から、「かつや」と呟く声が聞こえた。
久しぶりの母の呼ぶ声。
「母さん、あぁ、母さん」
俺はいっそう力を込めて彼女を抱きしめる。
「ずっと会いたかった。死んでいても会いたかった。母さんが心配とかじゃなくて、ただ、母さんに会いたかったんだ」
「かつや」
俺の腕の中で母は再び小さく呟いた。
「かあさん」
「ほぅ」
「え」
彼女は俺の腕の中でほっと息を吐いて、グンニャリと全体重をかけて俺に身を任せたのである。
俺は、非力な俺でも、出来る限りの力で彼女を支えて抱きしめ続けた。
俺は泣くだけで、それしか彼女に出来なかったのだから仕方がない。
「ずっと、ずっと抱いているから」
けれどそれから半刻もかからずに、このドライブは終了した。
車窓の風景から、俺達が乗っている車が白い房になった花々を咲かせた木々の立ち並ぶ中にいると判った。
土砂降りの雨水を含んだ白い花の房が、藤のようにしなだれている。
「あぁ、母さんの好きな白い百日紅だ。母さんが言っていたずっと咲き続ける花だよ。見える? 母さんが好きな花が咲いているのが見えるよ」
ずっと咲き続ける花。
俺はそんな皮肉に泣き笑いしながら、萎んだ母をただ抱きしめていた。
「ちょっとあぐりの様子がおかしい。見せてみろ」
人通りの無い場所に停車させた甲斐が、俺達のいる後部座席に乗り込んできたのだ。
甲斐が俺を母から離そうとするが、俺は一層力を込めて彼女を隠すように抱きしめて隠した。
「おい、水戸井。見るだけだから。大丈夫だから。もう彼女を拘束はしないからさ、頼むよ。彼女の具合を見させてくれ」
俺は甲斐の手を叩くように片手で何度も振り払い、嫌だ嫌だと大きく首を振った。
嫌ですよ。
「嫌ですよ。母さんは動かなくなってしまった。死人なんでしょう? 死人なのに母さんは動かないよ。動かない母さんは嫌だよ。俺の母さんなんだよ。やっと会えたのに、会えたのに、死人のくせに動かないよ!」
甲斐は大きく舌打をすると、車外に出てどこかに電話をし始めた。
土砂降りのこの雨の中、濡れそぼりながら彼は電話口に叫んでいる。
「うるせぇよ。良い事だろ? 死人が死ねるのは良いことで当たり前の事だろ。規定がなんだよ。とっとと動いて、ちゃんと水戸井が母親の葬式を出せるようにしてやれよ!」
暫くの後に救急車が到着すると、降りてきた救急隊員により母が救急車に乗せかえられ、俺もそっちに移動させられた。
電話をしてからも、救急車を待つ間にも、車内に戻らずに雨に打たれ続けていた甲斐は、今もワンボックスカーの前に立ち、遠ざかっていく俺達を見つめていた。
彼は雨の中、傘も差さずに濡れるに任せている。
まるで深い水の底にいるように。
白い花を咲かす木立は色を失った海底のサンゴのようで、そんな花々に囲まれて濡れそぼった黒服の男は、今にも溺れ死んでしまいそうだ。
それでも彼は息の出来ない世界に、妻の為に留まり続けていくのだろう。
「息が出来なくてとても辛いの。まるで海の底にいるよう」
その光景に姉の言葉が頭の中で繰り返され、俺は居た溜まれずに彼の姿から目をそらし、母の安らかな顔だけを見つめて、ただただ泣き続けていた。
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