三十八 俺はカロンのあなたにこそ縋りたいのだ

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三十八 俺はカロンのあなたにこそ縋りたいのだ

 母は病院で臨終を言い渡されて自宅に戻って来た。  彼女はリビングルームに敷いた布団に寝かせ、明日の葬儀も室内で寝かせたまま経を頼む事にして、火葬場に運ぶその時まで棺には入れない事に決めた。  見送るのは俺と父だけなのだからと俺が言い張り、父は俺の意思を尊重した葬儀の手配をしてくれている。 「息が出来なくてとても辛いの」  美奈子はずっとそう言っていた。  息が出来ないから辛いと、苦しいと。  俺は母を狭い棺の中に閉じ込めたくなかったのだ。  彼女は俺の前から姿を消した四ヶ月間近く、ずっと息が出来なくて辛かったはずだ。 「どうしてお前の母さんも姉さんも死ねたんだろうな。願いがかなったからなのかな」  横たわった母を前に座り続ける俺の後ろに甲斐は座り、俺は彼を振り向くことなく彼に不機嫌そうにして答えていた。 「俺に会えたら死ぬって、どんな願いですか」 「おい、お前は大丈夫なのか?」 「父さんが葬儀やら何から手配してくれていますから大丈夫です」 「それじゃなくてさ」 「わかってます。それは大丈夫ではないです。でも、父さんがいるから、俺は」 「そうだな。駄目になっても大丈夫だな。親父がいるものな」  後ろの彼はすっと立ち上がると、そのまま部屋を出ていこうとした。  いつものカーゴパンツにグレーのTシャツ姿。  妻のために公安になって、妻に会うために地獄に死人を運ぶ男。  俺ははっとしたようにして半立ちになると、甲斐のベルトに手を掛けた。 「お前は。何をやってんの。放せよ」 「だって、あの、甲斐さんこそ大丈夫ですか?」 「――俺は、駄目だよ」  俺に振り向きもしない彼は、俺に初めて弱音を吐いた。 「甲斐さん?」  俺は心配どころじゃない。  彼の背中を見つめる俺の顔は、どんな表情をしていただろう。  何か彼に言葉をかけたいのに、俺は甲斐に何て言っていいのかわからなかったのだ。  けれども彼の姿が滲むほど世界がぼやけていたから、俺が泣きそうになっている事はよくわかった。  駄目だ、今は泣いていちゃいけない。  俺は大きく唾を飲んで涙を堪えた。 「放せって。勘違いすんな。お前のお守りが大丈夫じゃねえって事だよ」 「ちがう! あんたはそんな意味で言っていない!」 「うるせえな。俺はお前を支えられないって言ってんだろうが」  彼は俺の手を指先だけで掴み、だが、俺の指間接にその指はごりっと差し込まれ、俺はかなりの痛みを感じて手を緩める事になった。 「いたい!」  彼は俺の手から離れると、玄関の方へと大股で歩いていった。 「どうして」  いや、どうしてではない。  これは一つの区切りだ。  終焉だ。  彼にとっての俺の出来事は一つの案件でしかない。  ここで俺達はお別れなのだということなのか。 「甲斐さん。俺はこれからも母さんの店を続けますから。松井ちゃんをフルで雇って、仙波さんは駄目だろうけど、でも、父さんがいるから俺は続けます。だから、だから俺は頑張って一人で立つから、お願いだよ、俺に会いに来てよ!」  台所と玄関を隔てるガラス戸に甲斐が手をかけた所で彼の足が止まった。  甲斐の背中が震え始めてもいる。 「甲斐さん?」  ハハハっと大きく彼は笑うと、ひょいと俺に振り返った。  険のない気安そうな笑顔で、余所行きのような軽い笑顔だった。 「本当に、馬鹿だなお前は。俺達は同じボロマンションの同じフロアの住人じゃねえか。それにな、水戸井、そういえばお前は俺に千円返していないよな」  ああ、そうだったと俺は甲斐に笑い返そうとして、甲斐が俺に接触を持つまで俺は一度として彼の姿を見たことは無かったと思い出した。 「……今は細かいの無いので、あの、後で返します。だから、だから」 「いいや、いいよ。香典も出してないし、やる。じゃあ、俺は仕事だから――」 「だから待ってよ」  俺は甲斐を後ろから抱きしめていた。  窒息してしまう世界に沈んでしまう、いや、もうすでに沈んだままの男の背中に俺はしがみ付いて縋っていたのだ。 「行かないでください。俺はやっぱり駄目です。俺はあんたに縋りたいんだ!」 「――俺はお前を愛していないよ」 「俺だって愛していないよ! でも、あんたに縋っていたいんだ!」 「お前なあ。はあ。馬鹿で脳みそも軽いくせに、重いな」 「散々に俺を弄んだくせに」  甲斐はハハハハといつもの脱力したような笑い声を立てた。 「ねえよ! バカ! いいから放せ! 仕事だって言ってんだろうが」 「だって!」  現役刑事を武道なんてやったことも無い一般人がいつまでも拘束できるはずは無く、彼は俺の両腕を簡単に自分から引き剥がした。  それでも俺が彼に密着しているのは、彼が俺を抱き締めているからだ。  俺は甲斐の広くて硬い胸に押し付けられている。  唇はいつものように彼に塞がれている。  俺を言い聞かせる手段の一つのようになったように、俺がそれを求めるために彼に縋りついているだけと思い知らせるような、官能的で深いものだった。  俺は甲斐に口づけられるたびに全てを忘れる。  失った人達の事も、生きていく不安だっても。  唇に与えられた刺激が体の奥底に炎を生み出し、その命の炎が電気を生むのか、神経の先にまでびりびりと感電してしまうのだ。  身の内が発電機になった俺は、自分の身体の制御だって失ってしまう。  いいや、得ているのかもしれない、生きているという感覚を。  あんたも同じだから俺に繰り返し口づけていたのだろう?  俺はうっとりとしながら瞑っていた目を開けた。  甲斐は俺を冷静な目で見下ろしてした。 「お前は本当にばかやろうだ」  甲斐は掴んでいた俺をぱっと手放した。  俺は官能の炎によって両足の力を失っていたからして、俺はすとんと床に座り込む格好となった。甲斐はそんな俺を一瞥することも無く見捨てて玄関へと向かっていき、彼の姿が部屋から消えるや直ぐに玄関の開閉音がバタンと鳴った。  俺は自分で自分の頬を流れる涙を両手で拭った。 「泣けば良かった。泣いていたらあんたは行かないでいてくれたよね」  俺が死にかけたあの日、甲斐はバスタブの中で俺をずっと抱きしめていてくれた。  俺が彼から手を放さなかったから。  俺が行かないでくれと、泣きながら彼を放さなかったから、彼は最後にはバスタブを乗り越えて狭いバスタブに一緒に入って俺を抱き締めていてくれたのだ。  たぶん、朝になるまでは。 ――どうしてお前の母さんも姉さんも死ねたんだろうな。願いがかなったからなのかな。  俺は本気で泣き出すしかない。  地獄で待つ妻の願いを叶えた時、彼の妻は死ぬ事が出来る。  枷のようで甲斐には生きる目的でもあった妻が消えれば、きっと彼こそこの世に留まってはいないだろう、と。  だって、地獄に妻がいないのならば、彼が地獄に死体を運ぶ必要が無くなるじゃないか。  生者の世界に動く屍を求めて彷徨う必要が無くなるのだ。
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