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三 舞台装置は記憶を呼び覚ます
甲斐に連れられてきた場所は、半年前に潰れて閉められた自然食品とマッサージの店だった。
広場を囲んで三棟が並び建つように見える高層マンションの一階と地下部分が店舗になっている。目指す店は地下だ。広場には地下店舗に行くための階段があり、地下店舗にはマンションのエントランスを必要としない。
彼は階段をタタタっと駆け下りて、彼が目指す店の前に立った。そして最新の手下が後ろにいない事に気づくと、階上でうろうろしている俺に声をあげた。
「水戸井、急げよ!」
急げよって、その店は俺の店だった。
正確には俺の母親の店の一つ。
もっと正確には、半年前に業務が悪化すると一番最初に閉めて手放した店だ。
母は自然食品とマッサージでデトックスを推奨する本を書き、都内で店を四店舗も経営していたのだ。彼女はただの栄養士だったが、友人が立ち上げた店の栄養管理をし、共同経営者となり、そして大喧嘩して同じような店を設立した。
同時期に父がその友人と浮気をしたので、双方から慰謝料を奪ったそれで、だ。
結果、母は夫と親友を失ったが、友人の店は潰れ、母の店は繁盛して大きくなった。
そして、俺と姉が父が居た時よりもいい暮らしを送れる様になったのは皮肉な話だ。
結局全てを失って、なぜか売らなかった父から奪った家族四人で住んでいたマンションに俺と母だけで戻ってきたが、それも皮肉な話だ。人生は皮肉で満ちている。
あんなに評判の良かった母の店が、急に業績が悪化したのは一体何があったのだろう。
一つ駄目になるとあっという間だった。
でも、持ち直しかけた時もあったはずだ。
「いいのよ。克哉。もう大丈夫だから、あなたは学業に集中して」
アルバイトが見つからない息子に母はそう声をかけてくれた。だが、面接に落ちた俺を励ますためだとしても、その時の母は久しぶりに若々しく輝いていた。
俺はそれで安心し、母の言うとおりに再び学業に没頭してアルバイト探しを忘れた。
それがいけなかった。
母の会社はその後暫くは上手く周っているようだったが、徐々に母は再び気が塞ぐ様になり帰りも遅くなり、帰ってこなくもなり、そして「ごめん」だ。
俺は母のためにこそアルバイトを捜し続けるべきだったのだ。
こんなお荷物、捨てたくなるのは仕方がない。
「どうした。早く来い」
俺はすごすごと階段を下りた。
姉と俺は手を繋いでこの階段を下りて、「開店おめでとう」とこの最初の店を開店した母を祝ったのだ。今は俺一人で、ヤクザと「閉店おめでとう」か?
「あの、此処で、何をされるのですか?」
既に人手に渡った物件のはずだ。
俺が口を出す事ではないが、つい聞いてしまった。
「この店の荷物を没収するの。入っていいか」
残った商品か器具などを転売する気なのだろう。
母の選んだ薬草やハーブ。契約メーカーの美容液や化粧水の類はネット販売すればかなり高く売れるはずだ。たぶん。
「どうぞ」
彼は俺の返事にニヤっと顔を歪めると、取り出した鍵でカチャっと解錠した。
「お前の親の店だっただろ。運び出す時には商品の説明をしてくれ」
ドアを開けて店内に入り込む甲斐の言葉に、俺は一瞬立ち竦んだ。
「ご存知だったのですか?」
「そのためにお前を連れて来たんだ。まず、あっちの部屋の棚から行こうか?」
甲斐はズカズカとマッサージルームの方へ向かっていった。
店は入り口入るとサロン兼待合室のような大きな空間があり、客はそこで受付をしてから、施術までの待ち時間に場所を貸しているネイリストにネイルの手入れをさせたり、店の商品の茶や化粧品を試したりする。マッサージルームは二つあった。甲斐が向かったのは、向かって左、VIPルームの方だ。
「どうしてこっちがVIPルームなんだ。隣と大して変わらない造りだろ?」
勝手に棚の引き出しをガタガタ引き出しては残っているものを確認しながら、甲斐が尋ねてきた。
どれも引き出しは空だ。当たり前だろう、店内のどこもかしこも大きな家具以外洗いざらい奪われていたのだ。小さな小物でさえ何も残っていない空間に俺は気分が悪くなっていた。
これは、母の夢が破壊され、乱暴に奪いつくされた光景だ。
「俺が知るわけ無いでしょう」
ヤクザ相手に思わず言い返してしまった。殴られる?
「それもそうだよな」
彼は棚に興味を失ったか適当に壁をとんとんと叩いたかと思うと棚の側面に行き、そしてグッと棚を押した。
棚はズズっと重い音を響かせて横にずれる。
ずれた棚の有った場所にはもう一つの棚。金庫か?
ダクトサイズの扉の取っ手は回す数字のダイヤルが三つ重なっており、三つの数字でそれぞれのリングを右か左に回すことで解錠するようだ。
「何番か知っているか?」
「知っているわけ無いでしょう」
こんな金庫がこの壁に有る事自体知らなかったのだ。
甲斐は俺の答えにチッと大きく舌打をした。
「壊すしかないかな」
「もしかして、338の組み合わせかもしれません。」
店の物が壊される事がなんとなく許せなくて、母が好きだった数字の組み合わせを言ってみた。ここは三人家族になった俺達家族の再出発の店なのだ。
「知ってんじゃねぇかよ」
俺の気持ちを知るわけは無い甲斐は、片眉をくいっとあげると金庫に向かい、俺の言った数字の組み合わせで右に左にダイヤルを弄り始めた。
「……母が好きな組み合わせってだけです。母が十月三日、姉が二月三日、俺が七月八日なんで。誕生日が。」
ヤクザに弁解して個人情報までも渡してどうするのかと思ったが、俺はなんとなく、知らなかった、を信じて貰う必要がある気がした。
「――違うな。十三、二十三、七十八でも違う。他の組み合わせの数字は何か思い当たらないか? お前らの誕生日以外でも、何かこの店で思い当たる三つの数字」
「十月十六日」
「なんだそれ」
「俺の受胎日だそうです。母の従妹の人が受付していて、彼女がパソコンの暗証番号をその数字にしたと、あの、揶揄われた事があって」
これも説明しなければいけないとなぜか思い、そして、その直感は正解だった。
俺が語った数字が正解ながらも、その中のものが想定外のものだったからだ。
「あちゃー」
金庫を開けた甲斐が情けない声をあげた。
金庫のダイアルは右に七十八、左に十、左に十六であった。俺の誕生日から逆算されて導かれた受胎日に開いた金庫の中に入っていたものとしては最悪だ。
金庫の中にはぽつんと液体に満たされた密封されたガラス瓶が置いてあり、そのガラス瓶の底には、イクラより一回り大きな魚卵らしきものが数個入っていた。
それらはドクドクと心臓のように波打って時々ビクリと蠢いている。
僕は何も知りませんから、何これと、気持ち悪いと後ずさってしまう。
驚いている俺を尻目に、気がついたら甲斐はどこかに電話を掛けていた。
「もしもーし、よっちゃん? あったから来て。鍵探しに持ち主に同行してもらってね、ついでだからって隅から隅まで探ろうって探ってたんだけどさぁ。鍵が見つかる前にそのものがあったからさ、ちょっと来て」
俺は甲斐の言葉に脳みそが真っ白になった。
持ち主?
「すいません。持ち主ってどういうことですか?」
電話の最中の甲斐が、俺を黙らすようにギロっと目線を送ると、彼は右手の人差し指を立てて横に動かした。
ジェスチャーの意味はよくわからないが、静かにして離れていろ、の彼の威圧感はキャッチし、俺は彼を置いて開いたままのドアからサロンの方に戻った。
そうして改めてこの店を見回して、店内は空っぽだが、投棄されたうらぶれた感じが無かった事に気づいた。
塵一つ落ちていない。
物がないだけだ。
そのせいか、開店当時の思い出が脳裏に浮かび上がった。
客のために淹れられたハーブティの香りで店内は充満し、そこにマッサージオイルのスパイシーな香りが混ざる。
自然派で健康的だが、「秘密」の雰囲気を持たせるのだと、母は言っていた。
「高級化粧品の中身なんて二束三文のものも多いわ。それでも高級化粧品として売れるのは、その高級感のある瓶と演出よ。中身が同じものでも演出が無ければ綺麗にならないの。多分、気持ちが向上する事で自分自身のパワーが自分自身を改善するのかもね」
開店したばかりの受付には母の従妹の浜野夕紀子が座っていた。
母よりも十近く年若い母の従妹は、ビスク人形のようなぷっくりとした輪郭に大きな目を持つ、個性的な美人であった。
母は彼女の美貌を羨ましがっていたが、俺は母も綺麗だと思う。
子供の欲目?
父親似だという姉が目元が凄い睫毛で印象的な美人であるのと異なり、母の顔は普通の顔だ。
嫌味も無く派手さも無いが、人生を自分で切り開いて生きてきた理知的な顔立ちだと俺は思う。
そういえば、夕紀子は母が銀座に店を開きそこを本店にした時に付いていったが、店が潰れた今、彼女は今どこでどうしているのだろう。
俺の足は何の気はなしに受付に向かっていた。
丸っこいラインで威圧感を与えない机には、大昔のレジスターだけがちょこんと乗っていた。DIYが得意な夕紀子が重い机に嵌め込み固定したのだ。それで持ち去られなかったのだろう。
室内装飾も母と夕紀子が自分達でやったのだ。壁塗りも自分達で色を混ぜるところから始めて、金魚鉢の底に敷く飾りのアクリルを壁に埋め込んだりもした。俺は幼稚園が終わると彼女達に店内に連れてこられて、彼女達の言うままにペンキを混ぜたり道具を手渡したりと楽しい時間を過ごした。開店すれば子供心に延長保育が待っているとわかっていたから尚更だ。
「見てこれ! これは最高じゃない?」
ある日、夕紀子が目を輝かせて戦利品を小さな台車に乗せて運んできたのだ。戦利品は紐でグルグルと台車に固定されていた古臭いレジスターだった。
「近所の商店のレジスターを貰ってきたの。これで雰囲気はばっちりよ」
その後レジスターは夕紀子によって色を塗られ薄いベニヤ板などを貼られて装飾され、机の上のそれは50年代のアメリカ製のような外見になっている。
「この、古きよきって感じがお客さんの気持ちを解すと思わない?」
美大出身の夕紀子が自慢げに自分の作品を見せびらかす。
側面にはビジューで装飾も施され、エステ店的な女性向の可愛らしい雰囲気も出してある。
「これはちゃんとチーンてなるタイプだから尚更でしょ」
俺はその時に夕紀子が教えてくれた使い方で、何の気なしにレジスターを触った。底に近い右側に貼り付けたビーズの一つがスイッチだ。カチッと押仕込むように動かすとと小さな引き出しがカシュっと出てきた。中には小さなレジスターの鍵。鍵らしい形をした夕紀子の手作りの鍵。合鍵も作れない世界に一本の鍵だ。
「ここに鍵があったのか」
しまった、俺一人でなかったことを忘れていた。
ヤクザにバレたと俺は自分を心の中で罵ったが、後の祭りだろう。
「いいから、そのレジを開けてみろ」
当り前だが、いつの間にか俺の後ろに立つ男に想定内の命令を受けたのである。俺は言われるがままにその小さな鍵を使い、レジの鍵穴に差し込んだ。
「あれ、差し込めない」
鍵を良く見たらレジの鍵じゃなかった。
同じような形だが、よく見ると記憶の中のレジの鍵と違う装飾が付いており、見つけた鍵についていた装飾は小さな金属の葉だった。
レジの鍵の装飾は小さな渦巻きのはずだ。
「これ、違います。どこの鍵だろう」
鍵はすっと手の中から奪い取られ、甲斐はそのカギをカーゴパンツのポケットに片付けた。
「このレジは開かないか?」
「お金は残っていないはずですよ。うちは破産したのですから」
後ろの男がブフって噴出した気もするが、俺は無視をしながら受付を見回した。鍵が入っている可能性の高いケースの鎖用のリングが壊れていたからだ。落ちていないか床へ這い蹲り机の下も覗いたが、全く見当たらない。
あんなものまで持ち去るとは。
「無いみたいですね。もう一つ隠しポケットが有ったのですが。それが見当たりませんからレジを開けれませんね」
「それはどんなのだ?」
「小さな金魚のおもちゃですよ。レジに鎖で繋いであったものです」
俺が答えると甲斐はしゃがみ込んだ。
「俺の馬鹿」
彼は自分を罵るや、再びスマートフォンを取り出した。そしてすぐにそれに向かってぼそぼそとしゃがんだまま通話し始めたのである。
「もしもーし、よっちゃん。もう出た? 出てても戻って。ごめん、証拠品の金魚ちゃんを持って来て。お願い。だから、ごめんって」
凄く低姿勢で、まぁしゃがんでいるけどね、怖いはずの人が電話の相手にぼそぼそとお願いしている。
だが、証拠品って言わなかったか?
俺は違和感をなんとなく感じ、違和感を感じるままに目の前でしゃがんでいる男に質問をぶつけてみた。
「甲斐さんはヤクザじゃなかったんですか?」
電話の最中のしゃがんだままの男はゆっくりと俺を見返して、眉根を寄せて凄んだ顔付きで俺を睨むと右手の親指を立て、その指を解り易く下に向けた。
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