三十九 奈落での邂逅

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三十九 奈落での邂逅

 甲斐は何時もの場所に向かった。  そこは妻がいて、死人達で溢れる黄泉平坂だ。  滅多に着ないグレーの刑事スーツを着込んで、彼は妻に会うためにそこに向かったのである。 「山奥の公衆トイレの壁に秘密の扉があるなんて、嘘臭過ぎて逆に誰も信じないよね。バブル時代に一億かけた山奥トイレの方にも、こんな施設が繋がっていたら嫌だねぇ」  独り言が多くなったのは仕方がない。  三年前までは普通の刑事で、相棒と足が棒になるまで歩き回って繰言を言い合っていたのだと、甲斐は自分の身の上を自嘲した。  ディンブルキーでドアノブのない壁板の鍵穴を解錠して、鍵をドアノブ代わりにして扉を開ける。  開いたら手で押さえ、ディンブルキーを外して中にすっと入るのだ。  壁の扉は勝手に閉まり、鍵の掛かった音がした。  一歩踏み出せばゆっくりと照明がつき始め、狭い個室程度の空間の目の前にはカードキー付きの暗証番号パットが付いている扉だ。  彼はカードを取り出してくぐらせると、自分の刑事番号をそこに入力した。 「俺を殺して奪えばしばらくは誰でも入れるよね、コレって。厳重なようで管理が甘いよね。監視カメラも付いてないしさ」  ピッと小さな電子音が鳴り、解錠された事を彼に知らせた。  その扉を開けると、底深い地下へと長い階段が伸びているのだ。  甲斐が一歩踏み出すとポツポツと点灯したLEDライトが少しずつ光彩をあげていき、青白い強い光が徐々に広がっていく。  今日の彼には獲物がいない。  彼の獲物はこの奈落の底で彼を待っているからだ。  長い階段を下っていく甲斐の足音は、死人だらけの黄泉平坂に唯一の音を与えるかのようだった。  彼が最後の段を降りる頃には全てのライトは煌々と灯りきり、そこは夜の世界ではなく人工灯の眩い無機質な世界となっていた。  だだっ広い空間に小さな独房が何千何百も整然と並ぶ、ここは死人専用の倉庫であるのだ。  彼は独房の立ち並ぶ通路を、目的を持ってしっかりとした足取りで歩いて行った。  彼が通り過ぎる独房には、死人が入っているものもあるが、殆んどが空のものだ。  そして、独房の中の死人達は彼に一切の関心も持たない。  持てないのだ。  ここは生者が来ない限り明かりの灯らない霊廟であるからか、いつ明けるともわからない完全に真っ暗闇な世界になるのだ。そして、そんな所に閉じ込められると、三日も経たずに死人は死体のように動かなくなるのである。  死なないが、彼等は生きる事も止めるのだ。  空っぽの部屋の真ん中で、胎児のような格好で死ぬに任せていた水戸井のように。  先日捕まえた鳥羽も、彼の手下達も、ベッドに横になったそのままだ。  彼らは気付いているのだろうか、彼らが動くのを止めた途端に呼吸をしようと考える事さえ止めてしまっているということを。 「息ができなくてとても辛い、か。死体が死体らしくすれば苦しさも無くなるって気付いたからこそお前たちは動きを止めたのかな。専門家の言う絶望からではなくて」  何気なく甲斐が独りごちると、近くの独房から女の哄笑が響いた。  それは彼が目指していた独房のすぐそば。  その独房の中には、顎の辺りの長さに切り揃えられた丸いシルエットのショートカットの髪を黒々と艶やかに輝かせている美女が、簡易ベッドに腰掛けて彼を待っていた。  捕えたばかりの頃と違い、ビスクドールのような顔の輪郭はすんなりとした面長へと変わり、両の目は以前よりも大きくて、少々吊ってもいるという容貌の変化を見せていた。 「お前は本当に気味が悪いな」 「酷い人。でも、待っていたわ。ここは刺激が無さ過ぎて退屈していた所だったもの」 「お前は可哀相な女だな」  キャハハハと二十代の小娘のような笑い声を上げた夕紀子は、突き出た腹を撫でながら流し目を甲斐に寄越し、それから右腕をすっと上げて、甲斐の左斜め後ろの方角を指差した。 「本当に可哀相な女はそこにいるでしょう。あなたのせいで、あなたが気付かなかったせいで死人となって置物同然になった馬鹿な人。せめて、愛する男が来るまでは自分を保っていれば良かったのに、簡単に壊れちゃうなんて、なんて自分本位で弱いだけの生き物」  フフフフと今度は熟女の笑い声を上げて、同情どころか哄笑でしかない口調で彼女は口にした。 「可哀相ね、あなた。馬鹿な女のせいでこーんな暮らし。でも、あの女は馬鹿じゃないわね。卑怯者よ。何だっけ? 人を殺さない死人の施設? そこにいてあなたを待てば良かったのに、そこに行った者は死亡判定を出されて社会的抹殺される代わりに安寧に暮らせるのよね。でも、それじゃああなたが自由になって再婚するからって、こっちに来たんでしょう。殺す事も処分もかなわない死人に縛られるあなたは、本当に可哀相ね」  甲斐は鼻で笑い、彼の妻を罵る女に言い返した。  言い返しながら、彼は妻への庇い立ての気持ちなど自分には無いと気がついていた。  自分は怒りだって抱いていないと判っていた。  置物を化した妻と同じく、自分こそ生きて動いている振りをしている空虚なものだと知っているからだ。 「美しさと若さだけしかないお前の空虚さの方が哀れだろう。幸せか? 生まれる事のない胎児を腹に抱えての妊婦ごっこは?」  容貌の変化した夕紀子は、口が裂けたかと思うほどに口を歪めて、ニンマリと微笑んだ。  その双眸は爛々と輝き、それは最初から人でなかった者の顔付きだ。  再び愛おしそうに腹を撫でるその姿に、甲斐は同じ質問を夕紀子をこの牢に入れる時にしたと思い出した。  その時の夕紀子は胸糞悪い答えと経緯を甲斐に語ったのだ。 「幸せよ。私は永遠に子供を抱いていられる。私はね、この子が欲しかったの。美奈子の子供をザクロにしようとして失敗した時に、これは天啓だと感じたわ。美奈子の子供は既に胎児じゃなかったのよ。生まれ出ようとしていた完成した子共だったの」  先日の美奈子の遺体の解剖所見も読んだ上で、それは事実だったのだと甲斐は確信している。  夕紀子は彼女のザクロを飲ませずとも、「金」だけで何でもする高瀬守を完全に掌握していた。  そして、彼の妻の子供を夕紀子に捧げさせたのである。
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