四十一 我は地獄の渡し守

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四十一 我は地獄の渡し守

 甲斐はザクロという胸糞の悪くなるもの、その効果を目の前の女が体現しているのだとウンザリと見つめた。  ザクロは死人を生者に戻すだけでない。  ザクロはものによっては、ザクロの親、あるいは血の繋がりのある者が、ザクロを食した者を意のままに操ることが出来るという毒を持つ時もあるのだ。  死者達がそのザクロに関係した者全てを、生者だろうが死者だろうが文字通りに肉体を粉々にして殺害してしまうのは、その毒に脅えているからだ。  ただ遠隔操作ができる傀儡になるだけではない。  ザクロを支配する者と同じ外見どころか、同じ人間に変化していくのである。 「夕紀子は馬鹿ね。自分が人を操れるなら、他人も出来るって考えないのだから。私の赤ちゃんを子宮ごと奪えば自分がこうなるかもって、一度も考えなかったのかしらね」 「こんな事は初めてだからね。俺も驚いたよ。夕紀子を捕獲したら何時の間にやら中身どころか外見までも美奈子(おまえ)に変化して、で、克哉と対峙して死んだのもお前自身だろう?」 「私もどうしてか判らないわよ。痛い、辛いって我慢できなくなると他人の頭の中に入って、そいつの記憶で夕紀子だと判ったけれどね。どうやって彼女の精神を殺して私が乗っ取ったなんてわからないわよ。ただね、馬鹿な夕紀子は他人の幸せが憎いだけの屑な女だってことは記憶を覗いて分かったわ。父親に虐待されて家出して、その度に出来た子供をザクロに変えていたの。可哀相ね。彼女には克哉だけが唯一の大事な子共だったから、だから、守の言葉を聞いて私の子供が欲しくなったのね」  夕紀子の体を乗っ取り、その証拠に美奈子そのものに顔かたちまでも変化させた化け物は、いとおしそうに何度も大きな腹を撫でている。 「それはやっぱり克哉との子供なのか?」  フフフフと美奈子は笑ったが、その声音は悲しそうなうつろな響きだと、初めて甲斐が感じるものであった。 「薬でね。守は違法薬物も売って借金を凌いでいたから、ちょっとしたものを克哉に飲ませたの。私は血の繋がらない克哉を、あの子だけを愛していたから。忘れるために守と結婚したけど諦められなくて、一度だけって。でも、ママにバレて私は追いやられたわ。近付いたら克哉にバラすって。頼んでもいないのに守にお金まで渡して。それでお金が無くなったと克哉を不幸にして、馬鹿な女。あの子が私の所に来なかったのは、ママがあの子に知らせて私が嫌われたからだとずっと思っていた」 「それで、嫌われたから殺して食べようと?」  うふふ、と美奈子は幸せそうに微笑んだ。 「食べたいくらい愛しているって事よ。でもね、克哉は良いよって、私を愛しているから、私に食べられるなら良いよって。これで本当の意味で一緒になれるねって」  美奈子は天井を見上げて、狂気を迸らせて叫びを上げた。  神に挑むように地の果てから叫び声をあげたのだ。 「あの子もそうだった! 私を愛しているの! 私は永遠にこの子を抱いて克哉だけを愛していくのよ! それに、私は夕紀子のザクロを飲んだ人間を使って、克哉ともう一度出会って抱きしめたり出来るの。私は増殖できるの。ハハハハ、素敵じゃない?」 「それはさせないよ」 「残念ね。出来るわ。もうあなた方の手に負えない。馬鹿な夕紀子では無理だけど、私ならば可能なの。あなた方が夕紀子の撒いたパズルを探している間に、夕紀子のザクロは着実に広まっている」 「させないよ。出来ないだろ。そのザクロを飲んだ者は死人達にさえ殺しの的になるのだからね」 「私の障害となりそうな夕紀子をよく知っている組織は、あなた方が排除してくれたじゃない。ふふ。動ける時に私は動く。もうあなた方は私を止められない。私が殺せないものである以上、絶対にね」  アハハハ、と高笑いを始めた狂人に、甲斐は何も返さずにそのままその房から離れた。  今の彼には職務も世界の終焉でさえ既にどうでもいいからだ。  狂気に満ちた女の笑い声が背中に響くが、静寂よりもまだましだ。  彼の妻は彼を一切認識しないのだから。  彼女は三年前の美しい姿のままで、彼の好きだった水色のワンピースを纏い、簡易ベッドに横たわって目を瞑っているだけだ。  彼を見ることもなければ呼びかけることもない。  彼女は永遠に腐らない死体そのものでしかないのである。  甲斐は内ポケットから牢の鍵を取り出したが、手のひらに乗った鍵に対して呆れたように呟いた。 「一本で全ての牢が開けれるって、いくらなんでも経費削減すぎでしょうよ」  甲斐は妻の牢の扉を開き牢内に入ったが、これは甲斐には初めての行為であった。どうして今まで中に入ろうと考えもしなかったのかと思うくらいに、その行為は妻を失った男がするには当たり前の行動すぎて甲斐はいつの間にか自分を嗤っていた。 「水戸井を馬鹿に出来ねえな。俺こそ脳無しの鈍感間抜けだ。ああ、わかったんだよ。ようやく。あいつが母親と姉を葬った事で俺にもわかったんだよ。死人から生きたいって欲さえ消せれば死体に戻せるってね。死人の願いを叶えてやれば良いってね」  あぐりは最愛の息子に抱きしめられて、息子に「お母さん」と呼ばれて最後の息を吐き出した。  美奈子の本体は水戸井の愛の告白に歓喜して崩壊した。 「お前は俺を苦しめるためにここに居るんじゃない。俺に居場所がわかるようにここに移動したんだ。ホスピスはただの刑事の俺には内緒だったから、俺と最後に会うためだけにここに移ったのかと思っていたけど、違うってようやく判ったよ。お前は俺に連れ戻されたかったんだよな。一緒に逃げたかったんだよな」  彼は簡易ベッドに近付き、眠る妻を抱き起こした。  三年ぶりに抱く妻は生前と違う弾力に冷たさであったけれども、彼には三年ぶりの妻の体だった。 「それも違うな。逃げるんじゃなくて、お前は俺にもう一回お前を救うチャンスをあげたかったんだな。俺がさ、俺がお前の体の具合にも、死んでいたことさえ気づかなかったからさ。俺にお前を救えるって、救わせようとしているんだな」  彼の妻はそうだと肯定するかのように、彼の腕の中で三年ぶりに瞼を少しだけ開けて、そして直ぐに閉じた。  かすかな動きだったが、三年ぶりに甲斐は動く妻を見た。 ――死人なのに母さんが動かないよ。動かない母さんは嫌だよ。  水戸井の叫び声が甲斐の脳裏で響いた。 「ああ、水戸井。俺も嫌だよ」  しばらく彼は彼女を抱き、だが彼は彼女を外に運び出さずに再びベッドに横たえ、そして踵を返し牢から出た。  彼は妻の牢の鍵を掛け直すと、牢の柵に体を押し付けるようにして暫く寄りかかっていた。 「ごめん、結衣。俺は駄目だわ。まだ、まだお前を失えないよ」  甲斐は眠る死体に謝ると、元来た方向へズカズカと歩いて行き、そして、彼をあざ笑い続ける美奈子の独房の前で立ち止まった。  ガン!  彼は美奈子の牢の柵を思いっきり蹴ったのだ。 「させないよ。お前がばら撒く腐れ玉は、俺が全部回収するからね。増殖したお前もみーんな、この地下に封じ込めてやるさ」  牢の中の女は、艶かしい笑顔で甲斐を見返した。 「素敵ね。私には腐るほどの時間がありすぎるから。付き合ってくれるなんて嬉しいわ」 「じゃあもっと喜ばせてやるよ。克哉はたぶん俺を愛している。俺に縋りたいんだってさ。可愛いねぇ、あいつは。あいつが腕の中で悶える姿は、俺も生きているなって燃え立つくらいにいいもんだ」  檻の中の化け物は、化け物らしい悲鳴と怒号を上げた。
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