神奈川県(となり)の山口巡査

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神奈川県(となり)の山口巡査

「二十六 誘拐」と「二十七 お前はここにいろ」の間の話です。  水戸井を誘拐した男と水戸井を助けに来た甲斐の邂逅となります。  俺は水戸井を誘拐した男の助手席に座り、世界は阿呆だけなのだろうかと頭を抱えていた。  水戸井が馬鹿なのは仕方が無い。  女顔のひょろりとした青年は、大学生という馬鹿を謳歌するカテゴリーの奴でしかなく、俺の兵糧攻めに対して自炊して食費を何とかしようという考えも起きない子供でしかなかったからだ。  奴を尾行して見張りながら、菓子パンじゃなくて米や野菜を買え、と何度俺は心の中で叫んだ事か。  だが、俺の横で鼻歌を歌いながらパトカーを運転している男は、仕事をしている社会人では無いのか? 警視庁の公安に車を止められた時に、よくわかんなーいとふざけて良い存在でいいはずが無いはずじゃないのか? 「どうしました? くらーい顔して。あなたもひどい人ですね」 「誘拐犯に言われたくないよ」 「ええー。その誘拐犯から救ったあの子。どうしてトランクに入れっぱなしにしているのですか? 僕は出してあげてもいいですよ。ってか、出して上げましょうよ。可哀想じゃない。これから三十分はトランクの中って」  神奈川県警の山口淳平巡査だと名乗った男は、彼がトランクに入れた水戸井よりは六歳は年上でも、水戸井が六歳年を重ねてもきっと辿り着けない場数を踏んでいそうな男だった。  明るい髪色に琥珀色の瞳、それも緑色の輪っかがあるという瞳をした山口淳平は、俺と同じぐらいの長身に、俺には無いモデルのようなすんなりした肢体という素晴らしい体つきをした美青年でもある。  しかし、水戸井の誘拐について警視庁の公安に囲まれた時は長身の体を猫背にして、どうみてもそこらにいる目立たない男という無害この上ない馬鹿を演じきった男でもあるのだ。  俺も外山も山口の代り身にぞっとしたぐらいだ。  いや、外山は部下に欲しいとほざいていたので、あいつは山口巡査にグッと来たが真実かもしれない。ついでに、俺達の目的地に山口も連れていこうという事になり、俺が山口のパトカーに乗り込んでいるとそういうわけだ。  ほら、水戸井を開放して一人で帰すわけにはいかないだろ。  あの子を駅に連れて行ってと、すんごい面倒じゃないか。 「君さあ。水戸井を誘拐したのはそっちの公安というか警察庁の案件? ブッキングしちゃったのかな? 俺達は?」 「さあ? 僕は公安じゃありませんので」 「ちょっと待て。公安だろ? 公安だから死人案件の水戸井を誘拐したんだろ?」 「うーん。僕は今は所轄で普通の刑事さんしていますから。事情は分かんないなあ。酷いですよねえ。昔が公安だからって、暇な僕に誘拐の指示をするのだもの。下っ端が断れない事を知っていてさあ、ねえ?」 「え、暇なのか?」 「はい。ターゲットを半殺しにして、ああ、脊髄損傷させちゃったのかな。で、僕は島流しにされたんですよ。島流し所の島流し警部補預かりって感じで。のんびりした所轄だから事件も無くて暇ですね」 「島流しされちゃったんだ? で、誰を脊髄損傷させちゃったの?」 「フョードル・アルマーゾフ」  名前でしかないのに物凄く正確なロシア語の発音だろうと思わせた彼の返答は、俺の背筋をぞぞぞとなぞった。普通に怖いというぞぞぞだ。 「有名なロシアンマフィアのボスだよな。横浜港で密輸してた奴だっけ? 取り押さえる時にやっちゃたの?」 「僕の愛人を殺してくれたので、単なるお礼参りですよ」  俺は会話を変える事にした。  彼に不快感を与えた事で、今後彼にお礼参りされる可能性は潰しておきたい。 「……。このパトカーもその指示か?」 「いいえ。このパトカーは僕の趣味です。ほら、この間まで公安だったでしょう。潜入で警察に見えないようにしなきゃで、僕は悲しかったのですよ。パトカーって誰が見てもお巡りさんの車じゃないですか! ほら! 僕はお巡りさんだよって」  俺はとっても気さくだがとっても頭も悪そうな男にウンザリし始めており、だが、山口の表情が人形みたいに作りものにしか見えない事で、この振る舞いも作ったものなのだろうと本気でうんざりした。  俺は三年公安にいるが、こんな気味の悪い男には出会った事が無い。  いや、いつも偽物笑顔という点では、あの外山に似ているのかもしれないと考え直した。あいつは笑顔だがえげつ無い男でもある。 「ねえ、出してあげましょうよ。僕はあの子とドライブしたい。すっごい可愛いじゃないですか。好みなんですよね、あの子」 「あいつは男の子だよ」 「知っていますよ。ストライクくらいに好みですね。高校生みたいで可愛い。まあ、僕は中学生くらいの美少年の方が好きですけど」 「逮捕しようか? このペド野郎」  山口は俺ににやりと嗤って見せた。  暇な元公安の変人は、彼自身が抱く憤りを誰かにぶつけたかっただけかもしれないと俺は考え、自分は武闘派でもないからと山口の挑発を流した。 「つまんない。ねえ、誘拐ごっこは終わりでしょう。出してあげて良いかな? 写真を渡された時から、僕はあの子と喋りたくてうずうずなんですよ」  俺は山口に、水戸井をトランクから出すのは駄目だ、と強く言った。  絶対に水戸井は山口に騙される。  ごめんねぇ、仕事でしょうがなく。君には怪我が無いように僕は頑張ったよ。  この山口はこのぐらいの嘘はさらっと言えるだろう。  俺は俺によって酷い目に遭わされたはずの水戸井が、最近では俺がドアを叩くと、飼い主が戻ってきたと喜ぶ仔犬のような顔をしてドアを開けて来るなと思い出していた。  あいつは絶対に、この黙っていれば人形みたいな綺麗な男に騙されるはずだ。  いいですよ! 仕事ですものね!  よくねぇよ、水戸井。 「あいつはトランクの中。少しくらい仕置は必要だろ。知らない人の車に乗ってはいけませんて、小学生でも守るというのに」 「そうですよねえ。世田谷なのに神奈川県警って大きく書かれたパトカーに何の躊躇もなく乗り込んじゃうのですもの、ねえ。でも、あなた方に止められずに、俺のあの子の連れ去りが成功していたら、都市伝説になったかもですね。神奈川県警のパトカーが青年を誘拐するっていうね」 「――君は本気で水戸井を守る立ち位置についたのか。好みだからって理由で。君の上は驚いただろうね。このパトカーで越境した上に人目のある昼日中に誘拐までしちゃうのだもの。ハハハ。ろくでもない奴」 「もっと褒めてください。あの子、僕の目を盗んであなた方へメールを打っていた、まではお利口さんでしたが、送信していませんでしたからね」  俺は目がしらに手を当てて、ありがとうよ、と山口に礼を言っていた。  誘拐犯にお礼を言わなければいけない目に遭うって、水戸井め。
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