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水戸井バかつや君
空き家となった部屋の真ん中でグダグダしていても仕方が無い。
とりあえず俺は水戸井に電話を掛けていた。
「留守番メッセージにお繋ぎします」
そういえば水戸井は大学生でもあった。
学校が始まっていたなと俺は思い当たり、情けないがメールを打とうと操作し始めたそこで俺のスマートフォンが振動した。
「はい」
「か、甲斐さん!」
俺の頭の中で尻尾を千切れんばかりに振っている犬の映像が浮き上がった。
良かった。
あの子は飢え死にしていなかったんだね、そんな感じだ。
「お前には心配をかけていたみたいで済まなかったな。仕事が入ると誰にも連絡できなくなる身の上でね。二週間も大丈夫だったか?」
「はい! 淳平君が! ええと、山口さんが友達になってくれましたし、仙波さんも警察を辞めて戻ってきたから、この間はみんなでサイパンに行って来たんですよ! 比呂が夏休みなのにどこにも連れていけなかったから丁度いいねって」
俺が何てことありすぎたらしき水戸井は、俺が放ってしまった二週間の間にやっぱり死んでしまっていたようだ。
「そうか、良かったな。金満な親父を大事にしろよ」
俺は通話を切ろうとしたが、電話の向こうの相手は俺に切らせまいと必死の声を出して来た。
「あ、俺、引越しをしたんですよ! 家を引き払っちゃったんです!」
今その空き部屋に俺はいる、という事を知られたくない俺は、そうなんだ、と初めて知ったよと言う風な声を出した。
「はい! 新しい住所をすぐに送りますね! それから、俺はスマートフォンに戻ったんですよ! 甲斐さんのラインのアカウントも教えてください!す ぐに友達申請が出来ます!」
「警察はラインが禁止だ」
「ええ! 淳平君は教えてくれましたよ! 公私混合しなければ大丈夫だって!」
「悪いな、俺は親父でそういう設定とか詳しくねえんだよ」
「あ、じゃあ、一緒にやりましょう。俺の住所送りますね。マンションのホールで待っていてください。直ぐに家に戻ります! 俺の部屋でラインの設定を一緒にやりましょう!」
ぶつ、つーつーつー。
「小学生かよ、あいつは。大学はどうしたんだ」
俺は山口君もいるラインに加わりたくないが、俺が水戸井のマンションに行っていなければ水戸井は凄く落ち込むだろうと考えると、言葉通りに水戸井がすぐに送ってきた住所に向かうことにした。
新住所によると、彼の新居は池尻大橋にある新築のデカい奴だった。
「あの金持ちめ」
三茶から電車やバスを使わずに歩いたからか、俺がそのマンションに着いたのと、水戸井が自宅に到着したのは殆ど同時に近かった。彼は俺をひき殺す勢いでロードバイクをかっ飛ばしてきており、苺のように真っ赤なヘルメット姿で幼稚園児のように叫んだ!
「甲斐さん! お疲れ様です!」
俺は奴が可愛いと思ってしまった。
初デートの待ち合わせに初彼女が現れた日よりも、俺の為に必死に大学から自転車を漕いでやってきた水戸井の姿の方が嬉しいと思ってしまったのだ。
俺はどこかが壊れてきている。
さて、デカい新築マンションは緑道の近くにあり、マンションのコンセプトが自転車で緑道を使って世田谷を散策できるぞということらしく、自転車置き場は無い代わりに自宅ポーチに自転車を二台置けるスペースがあるということだ。
俺はニコニコ顔で新車ですと喜んで自転車を引く水戸井の横を歩きながらマンション内に入り、そして、恥ずかしい水戸井の部屋にいる。
壁の一部がガラス張りとなっている部屋なのだ。
廊下もガラスで見渡せるから広々と感じて良いでしょうと水戸井は笑うが、これはペットの状態を知るために水槽でハムスターを飼うのと似ているのではないかと俺は感じていた。
飯島の水戸井への執着はタガが外れているのだ。
そしてそんな親父にちらりとも警戒心も抱かず、際限なく与えられる贅沢な暮らしを何一つ疑うことを知らずに全て受け入れる青年は、山口という新しくできた親友についても完全に信じ切った様子で俺に報告し始めたのである。
聞けば聞くほどに確信できたが、水戸井は完全に山口という名の悪魔の手に堕ちていた。
肉体的には山口にやられていないが、いつでもカモン! 状態には仕上げられていると言っていいだろう。
珍しく生きている人間の組織犯罪捜査の助っ人に呼ばれ、本来の公安の仕事に嬉々として没頭して従事していた俺が悪かったのか。
「山口君と親友になっちゃったんだ?」
「はい。それでですね、彼の振る舞いが友人同士としては逸脱してそうな時は俺がジャッジしてあげるの」
つまり、山口にとっての君は、お触りし放題状態、というわけだね。
俺が呆れて水戸井を見つめると、彼は俺から恥ずかしそうに眼を逸らした。
やめろ。
その目の逸らし方は、付き合った女性が俺に無理難題か聞きたくもない告白をするときの素振りそのものだ。
「あ、あの、ですね。俺は淳平君に相談したのですよ。ええと、恋をしていないはずの相手とのキスが止められないのはどうしてだろうって」
俺は耳を塞ぎたかった。
この先の山口が水戸井に語っただろう言葉は想像がつく。
「でね、淳平君は言うのですよ。快楽は麻薬と同じだからって。辛いからこそ人は快楽という思考回路を止めてくれる麻薬を求めるものだって」
俺はその通りだとぼんやりと考えた。
俺の心は死んでいた。
いや、心から血反吐を吐いている状態に見ない振りをして生きていただけだ。
水戸井が死にかけた時、彼が俺に行かないでと手を伸ばした時、俺が立ち会えなかった結衣の最期の場面のようにして重なってしまったのだ。
俺は水戸井の手を取り、結衣にしてやれなかった事、死ぬなと言って抱きしめている、という事を水戸井によってする事が出来た。
俺の後悔が水戸井のお陰で昇華できたのである。
俺は顔を真っ赤にして恥ずかしそうになっている水戸井を見つめ、俺達の関係は普通の他人に戻そうかと言ってやるべきだと考えた。
俺に壊された生活から彼は立ち直っているのだ。
破壊者でしかない俺は彼に暗い影を落とすだけだ。
「でね、俺は思ったんです。甲斐さんとキスをしなくても甲斐さんを求めていたり、もしかして淳平君とキスして甲斐さんと感じたみたいにならなかったら、それは俺が甲斐さんに特別な感情を抱いていることかもしれないって」
ちょっと待て。
「そうしたら、淳平君もそうだねって。淳平君は気持ちが良くなるツボは全部知っているから、そこを試してあげるよって。それで、快感を知っても甲斐さんがいいって思えば、それは立派な恋だから応援するよって!」
俺は右手を目元に当てていた。
山口め。
馬鹿はお前の罠に完全に嵌ってしまっているじゃねぇか!
俺は両腕で水戸井の両腕を掴んでいた。
幼い子供に言い聞かせる父親のような体勢だな、と思いながら。
「俺は俺以外の奴に身を任せる奴は女でも男でも嫌なタイプだ。俺も今は水戸井の為に女も男も余計な性的な関係は持たないと約束する。だから山口君に余計な性的な教育を受けないでほしい。それは嫌か?」
水戸井の浮かべた表情は、結婚式で結衣が俺に見せた笑顔に似ていた。
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