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四 家族の絆と秘密
「見えない。君は一般人に見えない。当たり前じゃない」
よっちゃんこと外山佳樹は警察官で、証拠品管理専門の仕事をしているそうだ。四十代半ばの彼は甲斐よりも背が低いが、甲斐と違い警察官らしい体格で、着ているポロシャツが鍛えた体によるものかパンパンだ。
彼に甲斐のような威圧感がないのは、その人の良さそうな笑顔とちょっと丸い外見によるものかもしれない。
「甲斐さんは警察官だったのですか」
「そう、私服刑事」
俺は私服過ぎるカーゴパンツ姿の刑事と胸に警視庁と刺繍のある水色のポロシャツを着ている男を見比べた。
絶対、甲斐は刑事に見えない。
甲斐ではなく外山の説明によると、我が家は破産しておらず、母のエステ店での「違法薬物」の使用により営業停止で店仕舞いだったのだそうだ。
「立会いが必要だからって水戸井君を騙して連れ込むって、ヤクザ並の悪行だよね。いや、ヤクザは身分を偽らないからそれ以上だね」
「うるせぇよ。コイツがどこまで潔白なのか調べる必要もあったんだよ」
俺が署名した書類は二枚あった。一枚目はアルバイト契約書だが、二枚目は店舗の立入り許可証だ。
この店は業績が悪化してすぐに俺の所有物になっていた。
警察が証拠を押さえにこの店舗内の物を一切合財持っていった後に、彼らは所有権者が違う事を知って蒼白になったのだ。
「訴えられたら違法捜査で確実に負けるからね。だからって嘘の日付の書類に署名させるなんて警察官としてあってはなら無いでしょう」
外山は憤慨しているような言い方をしていたが、こんな事をわざわざばらす事は、俺が異議を唱えたらもっと酷い事をするぞという脅しのような気がした。既に訳のわからない状況であるのだ、全ての事を疑って掛かるのは必定だ。
「いいです。それよりも母は刑務所なのでしょうか?」
そうだ。それに母の事を思えば警察官に盾突くなんて出来ない。
外山は口籠ったが、甲斐はすんなりと母の居場所を教えてくれた。
「内緒の医療施設だよ」
「母も中毒患者になっていたのですね。母さんは全部自分で試していたから」
「だからおかしいって、気づいたのだろうね。おかしいからと警察に相談に来たのが彼女だからね。そこはえらいと思うよ。でね、今は健康被害が出て療養中なだけだから。クスリってさ、アルコール中毒もそうだけど抜く時が大変だからね。肉親が会わないってのも必要なんだよ」
俺は外山の言葉を聞きながら、手の中の金魚をずっと撫でていた。
これはただのお風呂で泳ぐ金魚だ。プラスチック製の小さなミカンくらいの大きさの丸っこい金魚のおもちゃ。パンダ出目金の形をしたコイツの名前はフランケン。
可愛い店内になったからと俺が使わずに大事にしていたこのおもちゃを「飾って」と母に渡したのだ。その時は五歳の子供だ。いいだろう? 母は喜んで飾って、しかし、なぜか何度か盗られそうになったからと鎖をつけて、せっかくだからと夕紀子によって改造までされた。だからフランケン。
「そいつには何も入っていなかったな」
やくざと思われていた警察官がまだ機嫌が悪そうに、俺の手の中の金魚をチラッと見て言う。少し大きめのおもちゃは単四電池二本で動いていたが、夕紀子は電池一本で動くように電池を入れるところを改造して、鍵か印鑑を片せる秘密スペースまで作ったのだ。お風呂で泳がないならばパワーも要らず、ひれと尻尾が動くだけで十分だ。
「電池も入っていませんでしたね。警察で抜いたのでしょうけど。母さん達は金魚の電池は自分で入れ替えていましたから。本店を銀座に移しても週一にこの店に立ち寄って、月一で電池を入れ替えてました。マジックで日付を書いて」
「俺の馬鹿」
今度呟いたのは外山だった。
彼は部屋の端に行くと、どこかに電話を掛け始めた。
「電池、そう電池。あった? 無かったよね。調べて」
外山がかなり慌てているので、俺は気になって甲斐に尋ねていた。
「電池が何かあるのですか?」
彼は俺をじっと見て、俺の居心地が悪くなったところで口を開いた。
「電池が無ければ誰かがその金魚に隠されてたレジの鍵を持っているってことでしょ」
「レジの鍵ってそんなに必要なんですか?」
「君のお母さんが今頃になって言うからね。レジって。最初の店のレジスターってね」
俺は金魚を持ったまま受付に向かうと、机の上に金魚を置き、レジ下の机の引き出しを引いた。途中で引っかかるので手を引き出しに入れてストッパーを外す。すると、引っかかっていた引き出しがするっと抜けた。それを下に置いて中を覗くと四つのボルトが刺さっているのが見える。これがレジを固定している。机に埋め込まれて溶接して見えるように装飾してあるだけなのだ。夕紀子は無駄にとことん拘る。そして、そのボルトは実は手で簡単に外せる。
「火事になったらこれを抱いて逃げないとだからね」
幼稚園児の子供に客がいないからと色々と教えてくれたが、こんな年齢になっても覚えているものだとしみじみと思いながらボルトを外していった。
チンと、十数年ぶりに拘束から解き放たれたレジスターが喜びの声をあげた。
俺は重いレジを転がして底のリセットスイッチの場所を探す。
あった。
「すいません。なにか尖ったものありませんか?」
大きな声をあげる必要は無かった。外山も甲斐も俺の目の前にいて俺の行動を眺めていたのだ。スッと甲斐が安いプラスチックのボールペンを渡す。
これで俺は嘘書類にサインをしたのだ。
畜生と、先が潰れてしまえと思いながらボールペンのペン先でリセットボタンを押すと、ジンっと鈍い音を立ててレジが解除された音を出した。レジを元通りに起き上がらせる。札入れは既に半開きだ。
チっ。
大きな舌打ちが聞こえた。
甲斐の舌打ちにレジを見直すと引き出しには何も無い。
当たり前だ。
俺は引き出しを閉めた。
次に俺は幼少の頃に夕紀子に教わったとおり、レジのキーを順番に押した。
ガチャン。
再び開いた底には四つ折にされてクリップ止めされたコピー用紙が出てきた。
舌打ちをした男はひゅうっと口笛を吹き、その紙を取り上げた。
「この仕掛けは何のためなのか聞いているかい?」
外山の方が俺に尋ねた。
俺はとても悲しくなって答えた。俺が知っている隠していた物が出て来なかった事で、自分が親に裏切られたような気持ちになっていたからだ。それならば、他人に家族の秘密を語ってもいいだろう?
「秘密のお金です。何も無くなった時に此処に隠しておいた十万円で皆で逃げようって。夜逃げしようって。そう思えば頑張れるって」
俺は頑張れないよ母さん。
あると思った金が無く、手持ちの現金が千円も無い俺があと何日生きれるのか。金が有るうちに姉の所に行けばよかった。今更、「金を送ってください」って? どうしよう。
完全に破産したと思い込んだのは銀行も郵便局も、俺の口座が停止されてしまったからだ。六月半ばに突然金が引き出せなくなり、問い合わせたら凍結されたと知らされた。アルバイトが見つかれば何とかなると、姉にもその事を知らせずにいたけれども、未だにアルバイトは見つからず、とうとう金も尽きてしまったのだ。
俺はいつの間にかそこにしゃがみ込み泣き出していた。
「金が無いよ。俺の郵便貯金も銀行の金も使えないから、俺はもう千円も持っていないのに。電気は一昨日止まっちゃったし、お湯も使えないから毎日水シャワーだよ。洗濯機も回せないのに、服を殆んど売っちゃたから明日着る服さえないよ」
頼みの綱のアルバイトも、糞警察の嘘話だったし。
泣きながら情けなく呟き続けたらと肩をポンと叩かれ、上を見上げたら甲斐だった。
「嘘のアルバイトでも一万円下さい。そうしたら違法捜査の事バラしませんから。お願いします。昨日も、一昨日もってか、俺はここ一週間は菓子パンと水で凌いでんです。お願いしますから」
俺は彼に縋った。
恥も外聞も無い。
一万円あれば姉の居る場所に逃げられる。
きっと姉は俺を受け入れてくれるだろう。
「泣くなよ。それぐらいで!」
甲斐の言葉に俺でなくて外山が切れた。
「お前ちょっと酷いだろう。この季節に電気切れたら死ぬぞ! いくらなんでもやりすぎだろう」
やりすぎ? 俺は昨夜に本気で死に掛ける体験しましたよ!
「甲斐さんの仕業ですか? 仕業なんですね! 人権保護訴えます! 警察を訴えますよ!」
「うるせぇよ。今朝には銀行関係全部凍結解除するよう指示したから使えるよ。電気も、……入金すりゃ直ぐだ。死なねぇよ」
この人が全部止めてた? 俺を不幸のどん底に落としていた? お金あるの? 俺。
「酷いなぁ。お前みたいな警察が俺達真っ当な警察官の立場悪くしているって判っている? いくらなんでも子供相手にやりすぎでしょ」
「うるせぇよ。こいつが親の知らない横流しや裏取引しているのか確認する必要があったんだよ。水戸井は浜野の持って来た薬の卸元は知らないって一点張りなんだからさ」
浜野?
「夕紀子さんが大本だったのですか?」
外山が大きく溜息をついて、呟くように答えてくれた。
「大本っていうか彼女が発端だね」
「夕紀子さんはどこに?」
人でなしの警察官が肩を竦めて答えてくれたが、投げやりのような口調だった。
「オーバードーズって奴。亡くなったよ」
「いつ? え? 葬式は?」
「亡くなったのは二週間前。親兄弟も亡くなっていたからね。警察が燃やして、遺骨は浜野家の菩提寺に渡してお終いだ」
「おばさん達も亡くなっていた? 全員? 親戚の誰からも連絡が無かった――そういえば、最近姉からも全然電話が無い。誕生日おめでとうメール以来、それっきり……だ」
ポケットの携帯電話を取り出して画面を開いた。
送信したメールは相手先無しで戻ってきていた。
「姉さんは? 姉さんと連絡できないようにアドレスをいじっただけですよね。警察が、俺の知らない間に携帯データをいじったんですよね?」
俺の目の前の人でなしは、今度は何も言わずに俺をじっと見つめた。
俺は義兄の携帯へ電話を掛ける。
そこも不通だ。
怖々と甲斐を見上げると、甲斐ではなく外山の声が冷たく響いた。
「高瀬美奈子及び高瀬守、彼らも二週間前に夫婦で車ごと海にダイブだ。遺体どころか車も不明で、現在も現地で高瀬夫妻の捜索中だ」
「うわああああ」
俺は甲斐に殴りかかって外山に押さえつけられた。
押さえつけるように抱き留められ、気が納まるまで抱えられていたのだ、幼子のように。
俺はわぁわぁと、幼子のように大声をあげていた。
声をあげる事しか出来なかった。
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