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六 一人ぼっちと知った夜
母の転落話は息子の俺にはきつすぎた。
母を裏切り転落させたのが、母の従妹で俺に優しかった夕紀子さんであることも俺の心に追い打ちをかけていた。
俺が弁当を口に運べなくなったのと同様か、甲斐も箸をおいた。彼は立ち上がると冷蔵庫にいってビールを取り出し、そこで缶を開けて飲みだした。
冷蔵庫前でビールを一気飲みしている男をぼんやりと見つめていると、彼は俺に視線を動かして口元をニヤリと歪めた。
「お前もビールいるか?」
「ビール嫌いなんで、いいです」
返答にハっと笑うと、ポンと缶を投げてきた。だからビールは嫌いって、と缶を見るとサワーだった。
彼はずかずかと足音を立てながら戻って来ると、俺の目の前のさっきまでの位置にどかっと胡坐をかいて座り直した。
俺に床に転がるなと言っておいて、彼も床に胡坐をかいているとは。
だがしかし、ソファに座って膝位置のテーブルに乗せた弁当を食べるよりも、床に座って食べた方が食べやすい。いつも思うが、このソファに付随させるテーブルがちゃぶ台高さなのはなぜなのだろうか。
「サワーは嫌か? 俺には甘くてよ、やる」
「俺も甘いのは……、ハハハなんか変だ。なんで俺、こんな状況なのに酒缶の好き嫌いなんか言ってんだろう。姉さんが死んじゃったのに」
「遺族ってそんなもんだよ」
俺は甲斐を見返した。
彼は妻に逃げられたんじゃなくて、喪っていた?
甲斐は俺の目線に視線を合わせると、どんな人だった? と尋ねてくれた。甲斐のかすれている低い声はなぜか俺を慰め、それは彼が俺と同じ悲しみを抱えているからのような気がした。
「姉は、俺には優しかった。おっかない人だけど、いつだって俺一番にしてくれるいい姉さんでした」
「馬鹿が。だから早く寝なさいっていっただろ。」
朝が起きられずに遅刻しそうな俺を、彼女は何度怒りながらも自転車の後ろに乗せて小学校まで送ってくれただろうか。
俺は恥ずかしいと思いながらも、姉の後ろに乗って学校へ行くのが嬉しくもあった。怖いけど、優しい姉さん。
誰よりも美しい、自慢の姉なのだ。
甲斐から貰った缶を開けて口に運び、サワーを一口飲んだ。
甘い、甘ったるいと、目元にまでじわっときた。
「――話は戻るがな、あの薬は本当に若返るんだ」
俺は甲斐の言葉に顔を上げた。彼は俺をじっと見つめ、はあ、と溜息を吐くと俺へと指を伸ばした。
反射的に俺は首をすくめ、だが、だが彼は親指で乱暴に俺の目元を拭っただけだった。だけど、俺の甲斐の大きな手で左頬が包まれた時、物凄く温かく感じたのも事実だった。
「あの」
「デカい涙が気になるんだよ」
「すいません」
「いや、俺こそ悪かった。でな、あぐりが魅了され、自分で実験して大丈夫だと確信したんだ。客に使うよな。それが口コミで話題にもなって新規の客が増えて、店は持ち直したんだよ。ただし、薬には強い副作用があってね、続けると体が死んだようになるんだ」
母は姿を消す前の一月は殆んど家に帰ってこなかった。
違う、よろけた母を支えた時、ゴムのような肌の質感にぞっとしたのだ。
「母さん、大丈夫? 顔色が酷く悪いよ。具合が悪いの?」
滅多にそんな言葉を親に言わない薄情な息子の言葉に、母ははっとした顔付きになり、そしてその翌日から帰って来なくなったのだ。
「母さんが知らなかったとはいえ、沢山の人達に健康被害を与えてしまったんですね。どのくらいの人が苦しんでいるのでしょうか」
むかむかしてきたのは甘いサワー缶のせいだけではない。
「それはいい」
「え?」
「客の被害は一先ずいいんだ。それよりも、その薬の広め方をシナリオに書いた屑が居る事が問題なんだ」
「母さんは騙されて巻き込まれたと?」
甲斐は俺の目を見ながら頷いた。
「俺達はその屑を特定して捕まえるために蔦を探っているんだよ」
「俺に出来る事はないですか?」
何も考えることも出来なくなったから、何か体を動かす、何か生きる目的が欲しかった。
いや、誰もいなくなった自分だから、目の前の誰かに傍にいて欲しいだけなのかもしれない。
けれど、俺の言葉を待っていたかのように、甲斐は片頬を歪めた。
「まずはお前の店を開いて、客を呼べ。敵がお前に繋ぎを取って来た所を捕まえる」
「簡単に言いますけど、俺はマッサージの施術も出来ませんし、栄養学も学んでいませんよ。無理です。俺が大学でやっているのは――」
「史学だろ」
俺は目を丸くした。そうだ考えればわかるはずだ。この人は俺の銀行口座を止めて生活を困窮させて、隠していた何かを売るか繋ぎを取るかを見極めようとしていたのだ。
俺の事は俺よりも知っているに違いない。
「お前はただのオーナーでニコニコしていればいいよ。俺が全部手配して、俺が全部回してやる。お前は俺の言うとおりに動いていれば全て丸く解決する」
「解決したら、回復した母さんを見舞えますね」
「そうかもな」
頭をぐしゃりと撫でられた。
父親のような大きな手。
すぐに彼は俺から手を引っ込めて、物凄くぶっきぼうな声を出した。
「さっさと食って、サッサと寝ろ」
「えと。俺はやっぱ邪魔でしたか。でも、まだエアコン稼働できないし」
「誰が帰れ言ったよ。和室に布団敷いてあるから、食ったら寝ろ」
「和室ってエアコン無い部屋じゃ無いですか!!ここで良いですよ」
甲斐は右手で顔を覆うと、ハア、と溜息を吐いた。
「め、迷惑ですか?」
「俺は何度も起きて動き回る。それでも良ければ好きな場所で寝ろ」
甲斐は変な気遣いをする人だ。
そして彼は自分の言葉通りに、何度も部屋とダイニングを行ったり来たりしていた。けれど俺は煩く思うどころか、甲斐が立てる生活音にこそ慰められていた。自分一人じゃないという感覚は、今の俺に必要だった。
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