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八 おっぱい戦争と平和の女神
俺は彼らにコーヒーを淹れたが彼らに持っては行かなかった。
彼らに店外から見えるところにいて欲しくはない、という純粋なオーナーとしての見識で、彼らをコーヒーを用意してあるキッチンに追い立てただけだ。
まぁ、俺一人では出来なかったが。
流れとしてはこうだ。
「あの、甲斐さん」
甲斐は俺の声に振り向きもせずに目線だけ動かして、早くしろよ、とだけ言った。
「あの、秘密会議だったらキッチンで……」
「あぁ?」
甲斐にチンピラのように聞き返され、そこで俺は口ごもり、二の句を続けられなかった。
自分でも情けない思うが、だって、外山は人の良い笑顔という武器で圧力をかけてくるし、甲斐なんて一見どころかガン見でもアンタッチャブルな雰囲気なのだ。
母と姉に守られていた僕ちゃんが、警察という武闘派の彼らに強く出れる筈は無い。
寄る辺のない俺は子供に戻り、子供時代に受付に座る伯母や母に助けを求めた時のように、無意識に受付へと振り返ってしまった。
受付にはそういえば紫色のブラジャーがいた。
気安い彼女は振り向いた俺に気安い微笑を作り、それから松井は、なんと、俺の気持ちそのままを大声にして吼えてくれたのである。
「おーい、おっさんたち。邪魔なんだよ。そんなおっさんがいたら怖がって客も何も無いだろうがよ」
甲斐と外山は怒るどころか意外と素直に席を立ち、やっぱり甲斐は教師に廊下に立たされる不良のような不貞腐れ方だが、彼ら二人はキッチンへと消えてくれたのである。
俺は受付の机の前に行くと、素直に彼女に頭を下げた。
「松井さん。ありがとっっっっげっっ」
彼女は足を組んで座っているが、制服のスカート部分はかなりずり上がって、もう少しで太ももってところまで俺に見せつけているのである。
いや、視線を下げてしまった先にある光景を俺が勝手に貪り見ているって奴か。
早く早く、ほら早く。俺は失礼のないように目線を太ももから動かさなければ!
「ふふ。カッチーて、ほんとうに可愛い」
十も二十も年上のような言い方をしながら、松井はスカートを少しだけ引き下げた。
その引き下げ方だって、まるで手の甲でももを撫でるようにして、である。
彼女は俺の顔を伺うように目線を合わせてきて、下唇をぺろりと舐めた。
「カッチー。あたしが色々教えてあげようか?」
「うわ、わわわ、あの」
「お前、いい加減にしろよ」
俺はこんな怖い女の人の声を初めて聞いたかもしれない。
俺の真後ろにいつの間にか仙波が立って、まるでドライアイスの冷気のように俺の背中をひんやりとさせているのである。
いけない所を母親に見つかった子供に戻った俺はごくりと唾を飲み込み、ゆっくりと仙波に向き直って取りあえず謝ろうと身を捩じった。
バン!
俺の捩じった体を素通りして仙波は一歩前に出て、俺ではなく受付の机の天板を大きく両手で叩いたのだった。
「きゃあ!」
叫んだのは、当たり前だが、俺だ。
何が起きたのかよくわからないが、立ち上がった紫ブラ松井とドライアイス仙波が睨みあい始めたのである。
「っだよ。邪魔すんじゃねぇよ。この貧乳が」
「何が邪魔だよ。遊びじゃねぇんだ。おっぱい自慢したきゃ別ん所に行けよ。それからな、私は貧乳じゃねぇよ、Cはあるからな」
何という事。
仙波が前をはだけて、なんと、黒いブラジャーに包まれた胸をさらけ出したのだ。
「その程度で! はは。デカいってなぁ、F以上を言うんだよ!」
何の勝負か、松井までも胸をはだけた。
確かに確実に大きな松井の胸は、仙波と違い、服をはだけた振動でぶるんと揺れた。
俺は女性の生の胸を目にして嬉しいどころか恐ろしさだけしか感じなかった。
「きゃあ! もう、やめてぇ!」
紫と黒のおっぱいは、俺の悲鳴に二人同時に俺へと振り向き、脅える俺をさらに追い込むが如し、恐ろしい言葉を同時に叫んだのである。
「お前はどっちが好みだ!」
お母さん、助けて!
「あなた方、オーナに選んでもらいたいなら、まずはブラの色を変えなきゃ。男の子はねぇ、ピンクや白が好きなものよ」
この声は!!
紫と黒の脅威から俺を助け出したのは、俺が今日一番会いたかった人物だった。どっちの胸が好みなのだと迫られて脅えた俺には入り口ドアの鐘の音など聞こえなかったようである。
ただし、白かピンクが好き、だなんて、助け出されたのか身も蓋もない墓穴に落とされたのか、俺は首を傾げるばかりだ。だが、松井も仙波も真っ赤になって胸を隠してくれたので良しとしよう。
何でも許せる気になるほど、俺はこの人が大好きなのだから。
昔なじみのネイリストの名は、飯島比呂という。
この店が軌道に乗って母が銀座に店舗を開いてすぐに、飯島はこの三軒茶屋の店舗を間借りするようになったのだ。
俺が八歳の頃から二年間、我が家が二子玉川の高級マンションに引っ越すまでの間、俺は飯島目当てに学校帰りに店に寄り、姉に家に連行されるを繰り返していたのである。
毎日のように母の店に遊びに来る俺をかまってくれて、小学校の宿題を見てくれていた。実は飯島の邪魔を俺はしていたのかもしれないが、一度も俺に嫌な顔を見せたことは無く、俺はそんな飯島に甘えるだけ甘えていた。
飯島の仕事の邪魔だと、俺を諫めるのはいつも姉だ。
姉は自分の学校が終わると、必ず俺の回収に母の店に立ち寄った。
姉に腕を引かれて店から連れ出される時には、俺達は必ず目を合わせて同士のように肩を竦めあったものである。
ところで、再会前に電話した時に気が付いたのだが、幼い頃に俺を可愛がってくれた飯島は、俺の記憶と違い女性でなく男性という「おねえ」だった。
今の目の前の彼は俺の記憶通りの女優と見紛う華のある綺麗な顔のまま、そして、俺の記憶の中そのままの格好という、スラックスに柔らかそうなシャツと首元に巻いたシルクスカーフという姿で現れた。
そして話す彼を目の前にして初めて俺こそ気が付いたが、今喋っている声も電話した時の声も普通の男性でしかない、のだ。
それなのに、電話した時に俺は彼が女性だと疑わなかった。
小学生の時の俺もそんな馬鹿だったか?
なぜ俺は気が付かなかったのだろうと不思議ばかりだが、彼はいつでも慈愛のような温かさを感じさせる人だから、俺は彼を女性だと思い込んでいたのだろう。
だって、彼の前世は観音様なのかもしれないとも思えるほど、俺にとって彼はやっぱり思い出の中の「優しい比呂さん」でしかないのだ。
「比呂さん、助けに来てくれてありがとう。俺はあなたが来てくれたことが何よりもうれしいです」
って、飯島がなぜかぽろぽろ涙を流し始めているではないか。
「ど、どどどどどどうしたのですか!」
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