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27
夜、ヘスチアはひとり部屋でお茶を淹れていた。りくとの紅茶通信の準備だ。常なら横で「茶を淹れよ!」とうるさい秘色には、先に茶を淹れておいた。しばらくひとりにしてほしいと頼みこんである。そそがれるカラメル色の液体を静かに眺めた。文字通り、これが人生最後に味わうお茶になるだろう。選んだのは、慣れ親しんだイングリッシュティーだ。ブレンドは見知ったものとは異なるが、風味は記憶とほぼ同じだ。ロイヤルミルクティーにしてもよかったが、どうせなら茶葉本来の味を記憶に留めたかったのでストレートにした。ひと口ずつ慎重に含み、ここで起きた出来事を思い返していく。店での出会い──アメヤや秘色、城崎に猫白、それから店に来たお客さんたち。彼らと交わした会話のそこかしこに、紅茶の香りと味わいがあった。毎日浴びるように紅茶を感じていた。記憶は幸せに満ちている。これ以上ないほどの日々──りくと体が入れ替わる前、ヘスチアが望んでいた生活だった。紅茶を好きなだけ飲み、香りを楽しんでブレンドをする。舌で味わい、かぐわしさを思うがまま堪能する。その生活も今日で終わりを迎える。そして戻ってからは、また新たな挑戦が始まるのだ。
──おい、準備できてるか?
目を閉じると、イギリスにいる己の姿が──りくの姿が見えた。彼もひとりでヘスチアの自室にいるようだ。ティーカップを手に緊張した面持ちで椅子にかけている。
「はい。りくさんは?」
──俺は……もうこっちに未練はない。やりたいことはやりつくした。それに、アメヤは俺がいないと駄目みたいだから。
「そうですね」
──お前は?
「覚悟はできています。それに、そちらでやりたいことも出来ましたし」
──やりたいこと?
「紅茶の店を開くんです」
──もうやってるだろ?
「いいえ。もっと規模を大きく、アメヤさんの店のように。カフェのスペースも作りたいですし」
りくの顔は「物好きな」と歪んだ。紅茶を味わえないのに、まだ紅茶にしがみつくのかと言いたそうだ。りくは静かに目を伏せる。
──強く願うんだよな?
「やってみましょう。前に入れ替わったときと同じくらい、望みを強く思い浮かべて」
ヘスチアも意識を集中させる。自分が元いた世界でやりたいことを、できるだけ鮮明に思い描いた。未来で学んだ知識を持ち帰り、店の運営に活かしたい。紅茶の販路を拡大し、アジアに茶畑を開拓する。自分好みの茶葉を育成する楽しみも残されている。ブレンドティーの種類も増やしたいし、それに……そうだ。ブレンダーを新たに雇わなければならない。甘いお茶や変わったお茶の味を研究し、それを提供するカフェも作らなければ。考えてみればやることは山ほどあって忙しい。新しいアイデアは際限なくわいてきた。それから、それから──……。
口の中で紅茶の味が薄まっていく。飲み足して舌で味わい、ハッと目を開けた。見慣れたヘスチア自身の手が、お気に入りのカップを持っていた。高価な藤椅子に座り、窓際のテーブルで陽を浴びて、ヘスチアは味のしない液体を前に呆然としていた。イギリスの自室にいる。
「りくさん?」
声は聞こえなかった。向こうも驚いている頃だろうか。戻れた? 本当に……これは現実だろうか? ノックの音がした。誰かが外で待っている気配に、ヘスチアは逡巡する。催促のようにまたノックされ、仕方なく返事をすると、入ってきたのは見知らぬ青年だった。
「失礼します。替えのポットをお持ちしました」
「君は──」
二十代前半の冷たい印象の青年だった。短く切りそろえた髪に、ぱりっとしたスーツを着ている。身のこなしはバトラーだが、知性の光る目や賢そうな顔を見るに、彼の仕事がただの給仕でないことは明らかだ。二の句を継げないでいると、青年はかすかに目を瞠る。
「まさかとは思いますが、本当だったんですか?」
「あなたは……誰です?」
「わかりますか? アレクセイです」
なんと説明したものだろう。彼はりくに雇われた人間のようだ。少なくともヘスチアは知らない。困惑を察したのか、アレクセイは教えてくれた。
「いえ、構いません。事情はりく様からうかがっております。あなたが、ヘスチア・グラハム様ですね?」
「私のことを?」
「聞き及んでおります。あ、私に敬語は不要ですよ。私はあなたに雇われておりますので。──りく様とヘスチア様の精神が、過去と未来の隔たりを超えて入れ替わった、というお話は、うかがっておりました。本日、元に戻れるかもしれないとも」
アレクセイは丁寧な所作でポットをヘスチアの前に置く。彼はりくに雇われ、様々な面でサポートをしていたらしい。りくの代わりに店の紅茶を確かめたり、イギリスの文化についてもレクチャーしていたようだ。
「アレクセイさんは……」
「呼び捨てで構いませんので」
「すみません、慣れていなくて。あなたはブレンダーなんですか?」
「そのようなことも可能です。ある程度の知識と経験は持ち合わせております。ヘスチア様のように、天性の才はありませんが」
聞けばアレクセイには特技が多かった。世界中の言語に精通し、マネーの動きを読むこともできる。各国の諜報機関に知り合いを持ち、格闘技にも精通しているという。いったいりくはどこで彼を見つけてきたのだろう。アレクセイはすいと目をふせる。
「できれば引き続き私を雇っていただけないでしょうか。あらゆる面でお役に立てるとお約束いたします」
「なぜ、あなたはこんなことろで働いてるんです? あなたほどの経歴をお持ちなら、もっといいところで働けるでしょう」
アレクセイはこっくりと頷く。
「報酬です」
アレクセイが告げた金額はヘスチアの予想をはるかにこえていた。その辺にある小規模会社をまとめて十個、別荘地を五個は買い取れる。巨額の富をりくは彼に毎月払うと約束したらしい。言葉を失うヘスチアに、アレクセイは部屋の片隅から書類をもってきた。
「りく様からは、すでに一年分の報酬は得ております」
「い、一年分!? そんなお金どこから……」
「こちらをご覧ください」
見せられたのはヘスチアの資産状況だった。りくは信じられないほど大胆に投資を行い、各方面で多額の利益を得ていた。りくから聞いてはいたが、ヘスチアの資産はおそろしいほど膨れ上がっている。アレクセイが淡々と告げる。
「そちらは短期利益です。長期的な投資の成果は数年から数十年後になる見込みです。ヘスチア様にはまず、必要書類にサインして頂きます」
「なんの書類ですか?」
「りく様が決済するはずだったものです」
それからは怒涛のように忙しくなった。各資産状況を確認し、アレクセイが「売ったほうがいい」と言うものに売却のサインをする。見るものすべてに見覚えがない。りくが増やした資産で買ったものばかりだ。手放すことになんの未練もないが、扱う金額はいち商人としての裁量をこえている。ヘスチアは経営者で元々裕福だったが、書類に書かれた取引内容は、世界を牛耳る大企業の社長が決済するレベルのものだ。書類からようやく解放され、店へ向かえたのは夜になってからだった。断ったのに、アレクセイはなぜかぴったりと後をついてきた。ヘスチアの紅茶店はなにも変わらずそこにあった。夜なので、スタッフはもう片付けを始めていた。ヘスチアの顔を見て、古参の何人かが安堵の笑みを浮かべる。
「ヘスチア様、お体はもう大丈夫なんですか?」
「ええ。ご心配をおかけして」
「よかった……新しい茶葉が入ったんですが。あの……」
窺うような視線にヘスチアは苦笑する。新しい茶葉は真っ先に自分へ回すよう、スタッフには伝えてあった。ヘスチアが味覚を失ったから、気遣われたのだろう。
「ありがとう。もらいます」
スタッフはほっとした顔で、布に包まれた手のひらサイズの茶葉をヘスチアへ渡してくれる。さっそく裏のブレンダースペースでポットの準備にとりかかると、音もなくアレクセイが必要なものを用意してくれた。アレクセイはそつなく器具をそろえ、後はなにもせずにただ控えている。ヘスチアが紅茶を淹れるのが好きなのを、誰かから聞いて知っているようだった。お湯をそそいで茶葉を蒸らしていく。匂いは……しない。味も、たぶんしないだろう。カップに満たされたカラメル色の紅茶を見つめていると、アレクセイが「失礼します」と、先にそのカップを手に取った。
「まず、私が頂いても?」
「あ、……どうぞ」
アレクセイは上品に匂いを嗅ぎ、目を細める。彼が感じているだろう香りをヘスチアは想像で補おうとした。どんな香りなのだろう。アメヤの店で飲んだ紅茶に似ているだろうか。それとも、もっと新たな未知の味だろうか? アレクセイはひと口、静かに紅茶を飲んで、音もなく優雅にカップを置いた。
「大丈夫です。毒はありません」
「ど、毒? まさか」
「念のためです。これからも可能な限り、毒見をいたします」
ヘスチアは笑い飛ばそうとして失敗した。自分の頬が変な形に引きつった気がする。アレクセイが紅茶を味わっている姿が瞼裏から離れない。彼は別のカップにもう一杯、気をきかせて紅茶をそそいでくれる。テーブルの上で凪ぐ水面をヘスチアはじっと見下ろしていた。自分がそれに口をつけるところを想像してみる。茶色の湖面に苦々しい自分の顔が映りこんでいた。
「……やっぱりやめておきます。すみません、せっかく淹れてくださったのに」
「いえ、お気になさらず」
記憶に新しい紅茶の味をまだ留めておきたかった。アメヤの店で飲んだ紅茶の味を。この無味無臭の液体を飲んだら、それが薄れてしまいそうで怖かった。
夜、部屋に戻ったヘスチアは、ベッドの上でぼんやりしていた。当然ながら夕食の味はしなかった。固形物を義務のように飲みこむヘスチアに、屋敷のメイドたちはそれでも嬉しそうにしていた。どうやらりくはろくに食事をとらなかったらしい。アレクセイが夕飯の間もそばについていたので、話し相手になってもらった。アレクセイは毒見のかたわら、りくのここでの生活についても教えてくれた。りくが寝る間を惜しみ、ありとあらゆるビジネスへの投資計画を練っていたこと。その甲斐あって、かなりのリターンが生まれたこと。どこから聞きつけたのか、遠くアメリカの金融機関から「顧問にならないか?」とオファーが来たことなど。知らぬ間にヘスチアは世界を股にかけた資産家として有名になっていた。かなり無茶なことをりくはしていたようだ。ヘスチアも彼の嫌がっていたことをしたわけだから、文句は言えないが。
──りくは今、どうしているだろう。
アメヤと話せているだろうか。戻ってきた弟と和解すれば、アメヤの体調もよくなるはずだ。秘色はちゃんとお茶をもらえているだろうか。ヘスチアが消えたことに気づいた城崎が、不機嫌になってないといいが……。
ベッドへ寝ころび、眠ろうとしても思い出すのはアメヤの店のことだった。りくの体と入れ替わり、最初に味わった紅茶の味のことを考えてしまう。思いかえせば、あれはアールグレイの一種だった。あのときにはまだ「アールグレイ」の名前も知らなかった。ヘスチアがいる今のイギリスには存在しない茶葉だからだ。無意識に舌があの味を求めている。華やかで甘い蜜に似た味だ。白くみずみずしい初夏の花束と、若葉の風味。飲みこむと、体内をオレンジ色の風が吹き抜けていく──。いてもたってもいられなくなり、ヘスチアはベッドサイドにあったガラスポットから紅茶をカップへそそいだ。アレクセイが部屋を去る前、「念のために」と用意していってくれたアイスティーだ。アレクセイがいないときに飲みたくなったら、これを飲むようにと言われていた。その横には、彼が「問題なし」と毒見していった水も置かれている。ヘスチアは迷いなく紅茶を選んだ。口をすこしずつカップに近づけ、そろりと飲んでみる。ひんやりした液体が喉を通りぬける感触があった。感じたのは冷たさ。たったそれだけだ──もう一度カップへ口をつけようとして、ため息とともに止めた。カップを置き、ベッドへ寝ころぶ。脱力するように目を閉じた。わかりきっていたことだ。何度試したところでヘスチアの体で紅茶を味わうことはできない。せめてと口中で記憶の中にある味を思い出そうとした。アメヤに淹れてもらったお茶や自分で淹れたお茶、ダーリンにセイロン、ウバ、数えきれないほどのフレーバーティー、その目まぐるしくも華やかな味について考えてみた。意識はすこしずつほどけ、眠りに落ちていく。ほとりと、薄れかけた理性が本音を呼び出した。それは小さな声だが、心からの願いでもあった。
──もし、もう一度紅茶を味わえるなら。そんなことが、もしも可能なら……。
目を開いたヘスチアは二、三度またたいた。
アメヤの店のカウンター席に座っていた。明るい朝の陽ざしが、和らいだアメヤの微笑みを照らしている。紅茶を淹れながら、アメヤは浮かれた顔で話していた。
「……──知らなかった。そんなことにお前が興味を持っていたなんて。最初から店の経営もお前に頼めばよかったな。そうしたら俺だって、苦労しなかったのに」
紅茶の素敵な匂いがした。これは夢だ。たとえ夢であってもすばらしい。手元に透明な空のカップがあったので、ヘスチアは勢いよくそれをアメヤへつき出した。
「紅茶をお願いします!」
「は……」
アメヤは笑顔のまま凍りついた。ポットを手に、アメヤの視線は困惑に揺れている。ようやく絞り出された声は硬かった。
「りく……?」
「え? ああ、本当だ。りくさんの体ですね。夢だから」
「ゆめ」
「そうですよ。でないと私が紅茶の匂いを嗅げるはずがない。アメヤさん。さあ今のうちに、私の目が覚める前に、ここにありったけの紅茶を淹れてください……!」
アメヤは口を開きかけ、ゆっくりと閉じた。眠る前のようにその瞳は平坦で遠くを見ている。ちょうどそのとき、秘色がどこからともなく現れた。ターコイズ色の急須をアメヤに差し出している。助けを求めるようにアメヤの視線が秘色へ向く。
「わっぱ。儂にも茶を──ん?」
「秘色さんもいたんですね」
「うぬ、戻ってきたのか?」
「え?」
戻る──どこへ。どこから?
ヘスチアが事態を理解し、カップを取り落とすのと、アメヤが大きなため息をつくのは同時だった。秘色の呆れたような目が、ちょうど店にやってきた城崎をとらえる。
「アメヤ、遅くなってごめん……どうかした?」
声にならないヘスチアの絶叫を、その場の全員が色の異なる目で見ていた。
「なんでこんな……えっ。りくさん! りくさん!?」
──聞こえてるよ。
気だるげなりくの声が雄弁に事態を物語る。淹れたての紅茶の湯気がのんびりと、目の前を漂っていった。
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