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 イギリスの紅茶商人、ヘスチア・グラハムは死のうとしていた。  目の前に毒薬がある。低いテーブルで緑色に輝く、小さなガラス瓶だ。隣には紅茶の入ったティーカップも置かれている。真っ白なティーカップに入っているのは、綺麗なダージリン・ファーストフラッシュ。黄金色の液体は飲み頃の温度で、ほくほくと湯気を上げている。ヘスチアは紅茶ではなく、緑色の毒の小瓶に目をやった。繊細なカットのガラス瓶は、暗いエメラルド色に妖しく光り、甘く囁きかけているようだった。 『ひと息に飲み干したいでしょう? 毒がどんな味か、あなたは気になるから。ものすごく苦いのか、意外と甘いのか。毒を味わう機会なんて一生に一度、死の間際くらいしかない。けれど死の瞬間でさえ、あなたに味は分からない。なぜなら、あなたの味覚と嗅覚は失われているから──……』  自分で作り出した幻想の声だが、痛いところをついていた。ヘスチアは紅茶を手に取る。白い陶器のカップは手のひらに吸いつくような温もりだ。カップを顔に近づけても香りはまるでしない。湯気がなだめるよう、優しく頬を撫ぜていくだけだ。  ヘスチアが味覚と嗅覚を失ってから、すでに一年がたっていた。高熱の続く重篤な病にかかったとき、思わぬ後遺症を得てしまったのだ。死の淵からようやく生還したと思ったら、待っていたのは残酷な世界──何を食べても味がせず、どれほどきつい匂いも感じない日常だった。ヘスチアにとって、それは体のどの部位を失うよりも辛いことだった。  元々は、優秀な紅茶商人として働いていた。  産地や気候で異なる茶葉の味を、誰よりも正確に判別できる鼻と舌を有していた。商人見習いとして働き始めると数年で独立し、持ち前の才能でかなりの成功をおさめた。大通りに自分の店をかまえ、一生遊んで暮らせるほどの富も手に入れた。何不自由ない生活でもう働く必要もなかったが、それでも毎日下積みに近い仕事を続けていた。自ら仕入れに向かい、寝る間も惜しみブレンドを研究する。普通の人間がカフェイン中毒で倒れる量の紅茶を、ヘスチアは鼻歌まじりに消化する。なぜそうまでして無理をするのか。もう働かなくてもいいのに、どうして紅茶を飲み続けるのか? そう人に聞かれたら、迷わずこう答えたろう。私は紅茶を愛している。だから死ぬまで紅茶に溺れたいのだ、と。実際、仕入れた茶葉を自分で楽しみたいから、紅茶の店を始めたと言ってもいい。周囲から真顔で心配されるような偏執的生活を、もう十年以上も続けていた。それなのに──ある日突然、味覚と嗅覚を失ってしまった。神さまはもっとも大切にしていたものをヘスチアから取り上げると、後はどうにでもなれと放置している。  ティーカップを持つ手が震えた。カフェイン不足だった。ここ数週間、紅茶を飲んでいなかった。無味無臭と思い知らされることに堪え、避けてきたのだ。味覚と嗅覚を失えば、目の前にある美しい紅茶は色つきのお湯でしかない。大好きなものをもう一生味わえない──骨の髄までそう実感させられるのは本当に耐え難いことだ。生きる気力すら失くしかけるほどにつらかった。  震える手で毒薬の蓋を開ける。この瓶を飲み干しさえすれば楽になれる。これ以上苦しまなくてすむのだ。この瓶を飲み干しさえすれば──。 「ッ、やはり駄目だ!」  すんでのところで毒薬の瓶に蓋をした。しばらくうろうろと歩き、やけくそのようにティーカップの紅茶をあおる。味はしない。生ぬるい液体が喉に流されていくばかりで、涙がこぼれた。このままでいいはずがない。なんとかする必要がある。なんとかしなければ──。涙を拭い、顔を上げる。医者の家へ行こう。もう何度も通っているし、症状の改善は絶望的だと言われているが、治療法を聞き出すまで今日は粘ってみよう。でないと、次に気分が落ちこんだら本当に毒薬を飲んでしまいそうだった。ヘスチアは意地と根性でなんとか精神力を保っていた。足取りも危うく、だから完全に注意散漫だった。屋敷の階段を降りていた足が、段を一段踏み外した。盛大に体勢を崩し、頭から真っ逆さまに落ちていく。落ちる、そう思ったときにはもう手遅れだ。衝撃に抗うこともできず、階段を人形のように転げ落ちていく。体中を強打し、最後に頭を打って意識がかすんだ。どこかで屋敷のメイドの悲鳴が聞こえたが、もう身を起こすこともできなかった。目の前が白くかすみ、ヘスチアは死を覚悟した。どこをどう打ったかもわからない。ひょっとしたら首の骨が折れたかも──。  このまま死ぬのか。そう思った。  もしそうならその前に、もう一度だけ紅茶を味わいたかった。あのかぐわしい香りを感じたい。それが叶うなら、もうなにもいらない。己のすべてを神に捧げたっていい。莫大な富や大商人としての地位だって、惜しげもなく捨てられる。紅茶さえ味わえたら──だから、だからどうか。神さま──…………。意識はそこで途切れた。  ……──黒髪の少年がうずくまっている。ティーカップを持った少年は、涙でぐしゃぐしゃの顔で言った。 『こんな生活、もう嫌だ。なんでみんな、こんなもののために』  少年がティーカップをあおる。瞬間、なんともいえない紅茶の味が口に広がった。最期に望んでも味わえなかった甘露だ。うっとりと味蕾に広がる余韻に包まれる。鼻に抜ける柑橘の香り。フローラルな甘さとかすかな苦み。全身の緊張がゆるみ、幸せが広がっていく。神さまはついに叶えてくれた。これを求めていた……! ヘスチアは恍惚と息をつく。何度だってほしい。この味のために、どんな苦難だって甘んじて受けられる。だから、どうか。私にもう一度──……
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