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 懐かしい匂いで目がさめた。  華やかでフローラルな香りだ。初夏のみずみずしい花束と、草原を吹き抜ける風の青っぽさもある。うっとり意識を奪われそうになり、目を瞬かせる。この素敵な香りは──。 「香り!?」  思わず飛び起きた。見たこともない雑然とした部屋にいた。自分の屋敷ではない。奇妙に狭く、足の踏み場もないほど物であふれている。ヘスチアはティーカップを片手に座りこんでいた。カップの中身は空だ。先ほど自分で飲み干したからだろうか。いや、何かがおかしい。なぜこんなにぴんぴんしているのだろう。たしか、階段から派手に転げ落ちたはず──。  あらゆることに疑問をおぼえたが、意識の大半はまったく別のことに気をとられていた。どこからか漂ってくるかぐわしい香りだ。紅茶の匂いだった。部屋の外から入ってくるそれに誘われ、ふらふらと部屋を出る。板張りの廊下には下へ続く木の階段があり、匂いはそちらから漂ってきている。はやる心が視野を狭め、体をかってに動かした。  階段を降りると、そこには骨とう品屋が広がっていた。「骨とう品屋」だと思ったのは、アンティークがそこかしこに飾られていたからだ。古めかしい壁かけ時計やレプリカの天球儀、貴族の家にありそうな豪奢なテーブルと椅子が、そこかしこに置かれている。天井には小ぶりのシャンデリアが鈴なりで、収穫期のぶどうよろしくクリスタルが光っている。すべてのシャンデリアには灯がともり、きらきらと空間が輝いていた。ひどく幻想的な空間だったが、ヘスチアは一直線に奥のカウンターへ向かった。アジア系の黒髪の青年が紅茶を淹れていた。二十歳くらいだろうか。青年はきりっとした精悍な面差しで、意思の強そうな眉をしている。真剣にポットを見つめる目が、ヘスチアに気づくと大きく見開かれた。青年は気安く話しかけてきた。 「りく、さっきのことは俺も言い過ぎた。お前は悪くない。お前は──それ、飲んだのか?」  ヘスチアは空のティーカップを手にしていた。無意識に持ってきてしまったのだ。ちょうどいいと、カップを青年に差し出した。 「それを、ください」 「え?」 「紅茶をください」 「……からかってるのか?」 「からかっていません」  カウンターの席に座ると、青年は目まぐるしく顔色を変える。すこし焦った様子から半眼になり、空のカップをじっと睨みつけた。もう一度催促しようかと悩んでいると、青年は何かを諦めた顔で応えてくれた。カップにかぐわしい香りが満たされていく。これほどクリアに紅茶の香りを嗅ぐのはいつぶりだろう。おそるおそる口に含めば、華やかで甘い蜜に似た味が広がった。白くみずみずしい花束と、若葉を想起させる味だ。体内をオレンジ色の風が吹き抜けていく。体の内と外、すべての空間が力強い香りでいっぱいになる。紅茶の真髄は香りにこそあると、ヘスチアは実感した。味と香りを体内でブレンドすることで、脳から快楽物質が放出されるのだ。ほう、と口から恍惚の息がもれていた。体が温まり、胸から指先までの全身が幸福感に満ちている。これだ。これをずっと求めていた……。  知らず涙していた。紅茶を味わうことはもう永遠にできないと思っていた。命のかわりに欲しいと願ったものが、ぽんと目の前に差し出されたのだ。夢かもしれない。けれど、それでもいい。夢の中ですら、もうずっと紅茶を味わえていなかった。何度も口に含んでいると、カップの中身はあっという間に空になる。 「もう一杯ください」 「お前ッ、……」  青年はやるせなさそうに何かを言いかけ、飲みこんだ。大きなため息とともに紅茶がこぽこぽ満たされていく。満タンのティーカップに手を伸ばすと「待った」と止められた。 「先に顔を洗ってこい。もうすぐ開店する。店にまだいる気なら、その恰好も──」 「恰好?」  なにかおかしかっただろうか。毒薬を用意した朝、ヘスチアは死に装束を入念に選んでいた。お気に入りの茶色のスーツに新品の革靴を履いていたはずだ。みすぼらしくはないし、それなりにきちんとした格好だったと思うが。 「いいから着がえてこい」 「必要ですか?」 「当たり前だろ」 「でも……」 「洗面所で自分の顔を見てこい。ひどいありさまだ」 「はあ」  話は終わったと言わんばかりの青年に、ヘスチアは尋ねていた。 「あの。洗面所は?」 「──何なんだ、さっきから」  呆れたと肩を落とし、青年は二階へ続く階段を指さした。はやく行け、という風に。 「二階ですか?」 「…………」  無視された。一瞬悩んだが、紅茶のカップは持っていくことにした。淹れたての紅茶がかぐわしく香るカップは、手放すには惜しい。中身をこぼさぬよう慎重に、一段ずつ階段をのぼっていく。二階には三つの扉があった。洗面所は廊下の最奥にしつらえられていた。質素な手洗い場の鏡を見て、ヘスチアは動きを止める。 「えっ?」  見たこともない少年が映し出されていた。近くに他人の顔があったことにまず驚いた。鏡の中の少年も驚いた顔をしている。鳥の巣みたいになった寝ぐせまみれの髪、緑色のだぼっとした衣服はパジャマかもしれない。年は十歳くらいだろう。あどけなさより、こましゃくれた雰囲気のほうが目につく。つんと澄ました鼻に白くまろい頬。どこかニヒルに映る大きな猫目は、それ自体がチャームポイントになっていた。それなりの恰好で店表に立たせれば、ご婦人向けの売り子にはぴったりだろう。こういう「大人びた綺麗な少年」は、有閑マダムや一部の伯爵に受けがいいのだ。もっとも、店に立たせるには見た目をもっと整える必要がある。寝起きとひけらかすような髪や服、顔色も整えなければならない。少年の目は真っ赤に腫れ、厚ぼったくなっていた。きっと何時間も泣きじゃくったに違いない。すぐに水で冷やせばこうはならないのに、誰も教えてやらなかったのだろうか? 顔は土色だし、濃いくまもある。    店の売り子の体調管理も担っていたヘスチアは、少年がろくな生活を送っていないことをすぐに悟った。この少年は寝不足で不規則な生活を送っている。泣くほどのストレスを抱えているのに、慰めてくれる人もいないらしい。鏡の中で少年はヘスチアをまじまじと見ていた。声をかけようとして、息をのむ。少年は紅茶のカップを握っている。ヘスチアもだ。ヘスチアが動くと、少年も動く。それもそのはずだった。鏡に映っているのはもちろん、ヘスチア自身なわけで──?
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