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24
ヘスチアはいつものように自室で、夜に自分のための紅茶を淹れていた。もうすぐりくとの「紅茶通信」の時間だった。今日あったできごとをかいつまんで話すつもりだった。部屋には秘色もいて、自分の急須に紅茶がそそがれるのを満足げに眺めている。りくと通信が繋がった瞬間、ヘスチアはほっとした。信じがたいことばかり起こる中で、りくの声は唯一、これが現実であると思わせてくれる。
「りくさん。実は今日、大変なことがあって」
そのときだ。何かが落ちる大きな音がした。続いて、どすん、がたっ、と尋常じゃない振動が響く。店でつくも神がまた暴れたのかと思ったが、秘色は目の前にいる。それに物音がしたのは一階ではなく二階だ。
──なんだ。どうした?
「なにか……音が」
ヘスチアは紅茶カップを持ったまま部屋を出た。りくとの通信はつなげたままにしておきたかった。目を開けた状態なので、りくの声だけが脳に響く。何度か紅茶通信を繰り返すうちにわかったのだが、この繋がりはお互いの「話したい」という欲求が不可欠となっている。どちらかの気がそれ、通信から離れたいと思えば切れてしまう。逆にいうと、りくとヘスチアの意識が同じほうへ向いていれば通信は続けられるのだ。口に紅茶の味が残っているかぎり、りくの声はクリアに聞こえている。紅茶をすこし口に含み、おそるおそるヘスチアは風呂場のほうへ歩いていった。
──風呂場になにかあるのか?
「見えるんですか?」
──いや、お前が瞬いたときにちらっと。
りくのほうへ向けていた意識は次の瞬間、真っ白になった。アメヤが苦しげに唸り、風呂場でうずくまっていた。
「大丈夫ですか!?」
足元にアメヤが落としたらしい小物が散乱している。プラスチックカップや石鹸がひっくり返った床で、アメヤはうずくまっていた。顔は土気色で呼吸は浅い。風呂に入りかけ、気分が悪くなったのかもしれない。助け起こそうとして伸ばした手は、アメヤにゆるやかに払われた。苦しみを逃がすよう頭を振ったアメヤは、鋭く睨みつけてくる。
「ッ、……お前は、誰なんだ?」
「っ」
「りくじゃない……俺の弟じゃ、ない! ……お前は、誰なんだ?」
真っ青な顔で問われ、ヘスチアは息が止まるかと思った。どう応えるべきか。出すべき言葉も、行動の仕方もわからない。
「何をしておる?」
ひょいと秘色の幼い顔が風呂場をのぞいた。硬直していた体が魔法のように、ふっと軽くなる。
「ひ、秘色さん。ちょっと、手伝ってください」
「せっかくの茶の時間を。わっぱ、倒れたのか?」
ちろりとくれられた視線は面倒そうだったが、秘色はアメヤを起こすのを手伝ってくれた。
「わっぱ。自力で立たんか」
アメヤは不審げに視線を上げる。
「お前は……」
「何度か店で会うたの。うぬは気づかんかったか」
アメヤは苦しげに眉を寄せる。不可解そうではあったが、言われた通りに立ち上がろうとしている。手がおこりのように震え、体に力が入っていない。秘色とふたりがかりでなんとかアメヤを支え、部屋まで運びいれる。ベッドへよろめき倒れたアメヤは、震える指で「それを」と、机にある白い袋を指した。
「薬が、ある……」
「これですか?」
薬と水を渡すと、震える指でアメヤはなんとか薬をのみこんだ。
「お医者さんを呼びましょう。連絡先を教えてください」
アメヤはゆっくりと首を振る。
「もう、大丈夫だ。すまなかった。迷惑をかけて」
「けど……」
「わしはもう行くぞ。おぬしもはよう来やんか。茶の時間じゃ」
「今、それどころじゃないでしょう!?」
心底つまらなさそうに秘色は薬の入っていた袋を示した。
「そやつは心の病じゃ。放っておいてもなんともない」
秘色の視線を追うと、机の上の袋には「心療内科」と記されていた。心療内科──? アメヤを窺うと、視線をそらされてしまった。
「秘色さん」
視線で訴えると、むっとした顔で秘色は部屋を出て行った。たぶん、りくの部屋で待つつもりだろう。ヘスチアは途方にくれた。このままではいけない。絶対にこのまま放置するのはよくない──アメヤにとって一番いいのは、近しい人物に話を聞いてもらうことだ。アメヤに家族はひとりだが、そのりくは今、遠い過去のイギリスにいる。
「すこし、待っていてください」
風呂場からとっさに置いてきたティーカップを取ってきた。紅茶をひと口含み、意識を集中させる。すぐにりくの声が聞こえた。
──なにがあった!? アメヤはっ……。
「りくさん。よく聞いていてくださいね」
喚く声を無視しアメヤの部屋へ入ると、アメヤはぼんやりと呟いた。
「さっきの。あの子が、店にいる不思議なもの、か?」
「秘色さんのことですか?」
「秘色?」
「つくも神なんです。急須の」
「そうか……俺には、今まで視えなかった。そういうものがいると、昔から言われていたのにな。視ようとしてこなかったのかもしれない。信じていなかったわけじゃないが、俺には……」
うつむき口を閉ざしたアメヤの向かいに、ヘスチアは腰を降ろした。
「教えてください。どうして、私が弟さんじゃないとわかったんです?」
頭の奥でずっと喚いていたりくの声がぴたりと止んだ。アメヤはなんともいえない笑みで顔を上げる。泣き出しそうにも、自らを嘲っているようにも見える。ぐしゃりと歪んだ笑いはひどく痛々しい。
「誰でもおかしいとわかる。りくは、俺を手伝ったりしない。店に降りてくることも、紅茶に口をつけることもない。……俺のことが大嫌いで、俺を憎んでいるから」
「憎む? どうしてそんなことを」
はっとアメヤは嘲りの息をこぼした。他の誰でもなくアメヤ自身を軽んじた嘲笑だ。
「あいつの気持ちを理解できるのは、父さんだけだった。父さんはりくと同じ力を持っていた。けれど俺は、……俺が、父さんをあいつから奪ったんだ。……俺が殺した。あの日、父さんを」
──なに、言ってるんだよ。
りくの唖然とした声が聞こえる。
──父さんは交通事故で死んだんだ。紅茶を買いに車で出かけて、途中でトラックに追突されて。アメヤは関係ないだろ。
ヘスチアはつとめて柔らかな声を心がけた。
「事故で亡くなったと、そううかがいましたが」
「たしかに事故だった。……けれど原因は、俺にある」
アメヤは針山を吐き出すように教えてくれた。
きっかけは、ほんの何気ない会話だったという。店の手伝いをしていたアメヤは、客同士が話しているのを聞いた。「願いが叶う強力な神の祠がこの近くにある」と。そのときは聞き流していたそうだ。ただ面白い噂話として、それを父親に伝えた。何気ない会話のなかで、「お客さんがこんな話をしていた」と。
「知らなかったんだ。父さんがりくのことで、そんなに悩んでいたなんて」
先代店主は噂話をした客に話を聞こうとした。どうやら、りくの力を消せるものなら消してしまいたいと考えていたようだ。そのために「願いが叶う強力な神の祠」を探そうとした。けれどいくら探してもその客は見つからなかった。ひょっとすると人ではなかったのかもしれない。いったん店を出てしまうと人でないものたちは夜に紛れ、次に姿を現すのはいつかもわからない。店の外で人でないものを探すのはほぼ不可能に近いそうだ。彼らは簡単に姿を消してしまうし、情報もすくない。それでもアメヤの父親は諦めなかった。当時、りくは人でないものを恐れ、自室から外へ出なくなっていた。学校を休み、引きこもり暮らす息子に、危機感をおぼえた先代店主は、店の顔なじみに祠の話を聞くことにした。その常連客はなんでも知っていて、すべての疑問に答えてくれるという噂だった──不思議な青年だった。人好きのする笑みでいつもまどろんでいて、奥底しれない瞳をもっている。
「父さんは、猫白さんに質問をした。俺はそれをただ横で眺めてた。ぼんやり止めもせずに、ただ」
それがどういう事態で何を招くか、アメヤが知ったのは最近のことだ。これまで猫白には近づくなと、城崎から何度も注意されてきた。それとなく猫白から遠ざけられているのも知っていた。けれどあの日──ヘスチアが店で城崎に初めて会った日に、アメヤは猫白と話す機会をようやく得た。りくと城崎が店の隅で話しこんでいて、猫白が直接カウンターにきたからだ。ふた言、三言、話しただけだが、後からそれを知った城崎は珍しく本気で怒っていた。話した内容を微細に問いつめられ、反対にアメヤは尋ねていた。どうしてそこまで怒るのか。猫白は気の良い常連客なのに、なぜそこまで遠ざけるのかと。すると城崎は、いかにも渋々と教えてくれたのだ。猫白に質問をするとどうなるか。たとえば日常会話の一環だったとしても、気軽に投げたその問いがどのような災禍をもたらすか。
──あの人に質問をしちゃいけない。できればひと言も話さないで。
城崎はかんで含めるようにそう言った。猫白はどんな難問に対しても正しい答えをくれる。一生かかっても辿りつけないような数学の問いであっても、猫白なら簡単に答えをくれる。けれど答えを得た者は、重い代償を支払うことになる。不幸がその身にふりかかり、下手をすれば命すら失ってしまう。だから決して猫白に話しかけてはならない。誤って問いかけないよう、最大限の注意が必要なのだと。そのとき、アメヤはようやく理解した。父親の死の原因がなんだったのか。あの交通事故はけして偶然ではなかったのだ。父親は猫白に「願いを叶える奇跡の祠」の場所を聞いていた。アメヤはそれをただ眺めていた。何も知らなかったからだ。人でないものが視えず、教えられるまではそれと気づくこともできない。アメヤの感覚はひどく鈍く、そのせいで肉親を死にいたらしめることになっても、何かが起こるまで気づけない。
「きっとこれまでにも、そういったことがあったんだろう。俺が気づけなくて、りくだけが気づいたことが──父さんがいれば、そんなことはなかったはずだ。でもその父さんも、俺のせいで。あのとき、俺が止めていれば」
だからせめて店だけは守ろうと思ったと、アメヤは唇を震わせる。音もなく透明な涙が零れ落ちていく。震える手でアメヤはそれを拭ったが、あとから涙は溢れていく。
「もう、わからないんだ……でも、まだ……認めたく、なくて」
りくが別人と入れ替わったことは、薄々気がついていたという。指摘しなかったのは、そうではないと思いこむほうが楽だったからだ。蛇蝎のごとく嫌われ、店に降りてこようともしない弟が、優しい言葉をかけてくれるようになった。アメヤの淹れた紅茶を気に入り、店を手伝い、一緒に外へ買い物にも出た。これは弟だ。りくとの関係が良好になったのだと、そう信じこむほうがアメヤにとっては楽だった。視えないものには視ないふりをしていればいい。視ようとしたところで、アメヤにはなにもわからないのだから──こらえきれない嗚咽にアメヤはうつむいてしまう。くぐもったかぼそい声はひどく思いつめ、今にも壊れてしまいそうだ。
「俺には、りくしかいない……それなのに……あの店も、……ぜんぶ、りくのために……ッ、なのに、りくがいなくなったら、俺は……っ、どうすればいい……?」
──馬鹿じゃないのか。
小さな声がぽつりとヘスチアの頭に響く。りくの声はかすかに震えている。
──こんなになるまで、ひとりで背負いこんで……父さんは。紅茶を買いに行って、事故にあったって。そう言ってたのに……ずっと、嘘ついてたってことかよ? 父さんは……俺のために死んだんだ。だったら、そう言えばよかったろ? そしたら、俺だって……!
ヘスチアはそっとアメヤの背に手を当てる。りくの悲しげな声はアメヤに届かない。だから今伝えられるのは、本当にわずかな慰めだけだ。
「りくさんはご無事です」
アメヤはハッと顔を上げる。昏く淀んでいた瞳に、かすかな希望の光がちらついた。
「お話します。これまでのこと、全部」
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