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 アメヤの部屋を出ると、秘色が廊下で仁王立ちしていた。 「──いたんですか」 「遅いぞ! はよう、わしに茶を淹れんか」  ヘスチアはげんなりしたが、言うだけ無駄だとため息すらのみこんだ。秘色はヘスチアが持っている空のティーポットとカップを、恨めしげに見ている。りくとの紅茶通信は紅茶が途中でなくなり、途絶えてしまっていた。 「わっぱは寝たのか?」 「ええ。お疲れだったみたいです」  りくの無事を伝えると、アメヤは明らかに安堵していた。りくは過去のイギリスにいて、衣食住の何不自由なく暮らしている。それを聞くとアメヤはなにか言いたそうにしたが、結局はそのまま微睡み、眠ってしまった。 「りくさんがいつ戻って来るか、おそらく聞きたかったんでしょうけど」 「戻るのか? りくはこの場所を気に入っておらなんだ」 「戻るべきです。あの兄弟はきちんと話しあったほうがいい」  現状の解決策を考えなければならない。この場所があまりにも居心地よく、紅茶に夢中でおろそかになっていたが、アメヤの様子を見るかぎり急いだほうがいい。人生の大半の時間と自由をアメヤは弟のために費やしてきたのだ。彼の抱えた罪悪感や苦しみは、りくでないと癒せない。りくはそのことをしっかり受け止める必要がある。紅茶通信で途中までは話を聞いていただろうから、アメヤの内心と苦しみは十分に伝わったはずだ。 「しかし、うぬは戻りたくないのであろう? せっかく味と匂いを得られたのに」  ターコイズ色の茶器に茶葉とお湯をそそぐと、つくも神は幸せそうに口をもごもごさせた。ヘスチアは苦笑する。 「──すこし前の私なら、どんな手段を使ってもこの体を手に入れたでしょうね。絶望で死のうとしていた私なら」  あのときのヘスチアは、絶対に叶うことのない望みを必死に追い求めていた。それは際限のない喉の渇きに似ている。手に入れるまでは求め続けなければならない──歩けば歩くほど体力は消耗し、気力は奪われていくのに、だ。 「けれど、私の望みは叶いました」  思わぬ形でヘスチアの望みは聞き入れられた。たとえひと時の限られた間だったとしても、死んでも手に入らなかったはずのものを、とんでもない奇跡によって得ることができたのだ。秘色のために淹れた紅茶を、ヘスチアは自身のカップへ入れて飲む。水のように味はなく、見事に香りまで抜けてしまっている。諦めに似た微笑みが口の端に浮かんだ。元の体へ戻ればまたこの味覚になってしまう。二度と紅茶を味わうことも、香りを嗅ぐこともできない。 「誰かを犠牲にして望みを叶えようとは、もう思えません。それに──もし自分の体に戻れたら、やってみたいこともできたんです」 「ほう?」  秘色は猫のように目を細める。紅茶を味わっているときの彼は上機嫌で、いつもうっとりしている。微笑ましくそれを眺めるだけの余裕が、今のヘスチアにはあった。  りくと入れ替わり、気づいたのだ。ヘスチアは紅茶の店を運営していたが、客のために紅茶を淹れる機会はほとんどなかった。たまに店で紅茶を淹れても、それは自分のテイスティング用で、味の説明はスタッフが口頭で行っていた。りくの体でお客さんに紅茶を淹れたとき、だから思ったのだ。 「私の店にカフェを併設したいんです。こちらのように本格的な茶葉をお出しして」  紅茶を味わう客の姿を眺めるのは、存外に楽しいものだった。華やかな味に驚き、幸せそうにお客さんたちはカップに口をつける。紅茶を口にしたときの反応を見るだけで、カップの中身までわかるくらいだった。香りを愉しむとき、人の視線はどこか恍惚と投げられる。それぞれが思い浮かべたものを表情から夢想するのが、ここ数日のヘスチアの楽しみのひとつにもなっていた。アメヤの店には暖かな幸せがぽつぽつと生まれている。混雑時には、店全体が色彩豊かなキャンパスのように幸福に包まれる。ヘスチアはそれをうっとりと眺めるのが好きだった。元いた世界のイギリスでは、紅茶を供するカフェは存在しなかった。もしかすると、時が経てばたくさんできるのかもしれない。元の時代に戻れたら、自分の店で多くの人に紅茶を出したい。それが今一番、ヘスチアがやりたいことだ。 「しかし、うぬは戻れるのか? わしはうぬがいてくれたほうがありがたいが」 「紅茶ならアメヤさんが淹れてくださいますよ。ちゃんとお願いしておきます。戻れるかどうかは──やってみなければ、わかりませんが」  ヘスチアはしっかりと頷く。一度できたのだ。もう一度できるはずだ。りくと入れかわったとき、ふたりとも紅茶を飲んでいた。考えてみれば、他にもやっていたことがある。場所と時代を越えたつながりは、想う意志の強さで生まれるとヘスチアは考えていた。戻りたいと強くふたり同時に考えれば、うまくいくかもしれない。  その日の夜、もう一度りくと紅茶通信で話をした。りくはあれから不安でしかたなかったらしい。また通信が繋がらないか、ちびちび紅茶をなめていたという。戻る方法について話すと、りくは重々しく同意する。  ──そうだな、やってみよう。……なんだよ? 「いえ、意外でした。アメヤさんのことがあるにしても、あなたはそちらでの生活を楽しんでおられるようでしたので」  ──まぁ、楽しかったよ。けど、気づいたんだ。ここでやれることは、そっちでも出来るって。投資は日本でもやってたし、それに……シルヴィにも振られたし。 「えっ。それは」  シルヴィはヘスチアの屋敷にいる年若いメイドだ。彼女に告白されたと、りくは嬉しそうに言っていた。ぶすくれた声が聞こえてくる。  ──思ってたのと違ったって。子供っぽい、って言われたんだ。しょうがないだろ。中身が違うんだから。シルヴィは落ちつき払ったお前みたいなのがタイプだって。おじ専だよ。 「お、おじ専?」  ──戻ったら優しくしてあげて。中身がお前なら、シルヴィも文句ないだろうし。  ヘスチアはなんともいえず口をつぐむ。シルヴィをそういう目で見たことがなかった。ヘスチアとは歳が離れすぎている。  ──それで、いつやるの?  りくの声にハッとする。 「明日の夜、試してみましょう」  ──うまくいくかな? 「おそらく……」  大切なのは願う心だ。
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