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26
考えてみれば、りくと入れ替わったとき、ヘスチアは強く願っていた。自分の命と引き換えにしても紅茶を味わいたい、そのためならどんなことでもする、と。あのとき、りくも似たようなことを強く願ったのではないか。ふたりの願いが奇跡的に一致し、不思議な繋がりを得た。りくはヘスチアの体に、ヘスチアはりくの体に入り、双方の望みを叶えることができたのだ。もう一度同じように強く願えば、元に戻れる可能性がある。
翌朝、店に降りていくと、アメヤがすでに開店の準備を始めていた。心配されるのを嫌がってか、アメヤは先んじて口を開く。
「悪かったな、迷惑かけて」
「迷惑だなんて……もう大丈夫なんですか?」
「すこしは動いたほうが気も晴れる」
アメヤはすっきりした顔をしていた。りくの無事を知り、すこし落ちついたようだ。店へやってきた城崎が、さっそくアメヤの体調を確かめにくる。ヘスチアはいつものように開店準備を進めることにした。テーブルに深緑のクロスを引き、カトラリーとメニューを並べていく。たった数日手伝っただけなのに、離れると思うとこの作業がもう恋しい。開店時間になり、アメヤが紅茶を淹れ始めた。かぐわしい香りはダージリンだろう。ちらりと目が合ったアメヤが「淹れてみるか?」と、視線でカウンターを示してきた。せっかくなので色々教わっていると、むすりとした顔の秘色がやってくる。「ん」と差し出されたのは、いつものターコイズ色の急須だ。
「秘色さん、挨拶くらいしましょうよ」
「挨拶の前に茶じゃ。はよう淹れよ」
秘色は日増しに遠慮がなくなっていた。今まではそれなりに身を潜めていたようだが、アメヤに知られたとみるや堂々と姿を現すようになっている。アメヤは秘色の差し出した茶器をひょいと受け取った。
「これに淹れればいいのか?」
「わっぱ、まともな茶が淹れられるのか?」
「一応、俺はここの店主なんだが」
秘色はそっぽを向いたが、アメヤの右にある黄色い紅茶缶を見るや、わめき始めた。
「その缶は見たことがないぞ。それを淹れよ!」
「ああ、新しいのを今朝おろしたんだ。柚子フレーバーの緑茶だが、これでいいのか?」
「新しいのじゃ! それをはよう!」
うるさく催促する秘色に、アメヤは「はいはい」と苦笑する。まるで幼子と父親のようで、ヘスチアは微笑ましくそれを見ていた。誰かに紅茶を淹れること──それが新しい関係を生み、繋がりを増やしていく。ほんわりと広がるみずみずしい柚子の香りに、秘色もアメヤもうっとり目を細める。開店時間になると、城崎がてきぱきと接客をはじめた。慌ただしくなった店内に紅茶の香りがまたひとつ生まれ、お客さんが嬉しそうにカップを手にする。そこかしこに笑顔とぬくもりがあった。人もそうでないものも、喜ぶときの顔は同じだ。店内を見て「そうか」とヘスチアは満足した。ヘスチアにとって幸せとは紅茶の形をしている。たとえもう二度と味わえなくても、いつまでも紅茶に関わっていたい。自身で紅茶を楽しめなくても、誰かに幸せを届けることはできる。自分だけで紅茶を飲むよりずっと、それは喜ばしいことなのかもしれない──ずっとずっと、この景色を眺めていたい。今この瞬間が、とてつもなくかけがけのないものに思えてくる。時を越え、場所もなにもかも異なる場所で、またこの光景に出会えるだろうか。やれる。きっと自分ならできる。なんとしても実現させる──きゅうと締めつけられた胸に、思わずぽろりと涙が零れた。初恋のような切なさだ。けっして手に入らないものと、手に入るだろうもの。これから築くことのできる将来の可能性は、ヘスチアの生きる意味そのものだ。そしてそれは、元いたイギリスの世界でしか実現できない。
「帰りたいですね、やっぱり」
「駄目だよ」
ぽろりと零れた言葉を、いつの間にか近くに立っていた城崎に拾われていた。城崎は憮然とハンカチを差し出してくる。
「君がいなくなったら困る」
「……すみません。でも、大丈夫だと思いますよ」
ハンカチを受け取り微笑むと、城崎は器用に片眉をあげてみせた。
「どういう意味? アメヤの紅茶じゃ、あの味にはならないんだよ?」
「考えてみたんです。城崎さんが仰っている紅茶について。私があれを淹れられるのは、りくさんの体だからです」
りくの父親は不思議な力をもっていた。人でないものを視ることができるし、城崎の求める「生気を含む紅茶」を淹れることもできる。りくの身体は、明らかに父親の資質を受け継いでいる。
「彼にまともな紅茶が淹れられる? 紅茶嫌いで、あんな性格なのに。だから僕は、ずっとアメヤに目をかけてきたんだ」
「きっと大丈夫です」
不満げな城崎にヘスチアは微笑みを返した。りくは父親が紅茶のせいで死んだと思いこんでいた。紅茶を買いに外出し、その途中で事故にあったと聞かされていたのだ。アメヤが店を続けていたのも、紅茶が好きだからだと勘違いしていた。父親と兄、その両方が自分よりも紅茶を大切にしている──父親が紅茶のせいで命を落としたのに、兄はまだ紅茶のために店を続けようとしている。そう考え、りくは紅茶を恨んでいた。けれど昨晩、その誤解は解かれている。氷がゆるやかに溶け出すように、りくの紅茶への嫌悪感もしだいに薄れていくだろう。しかし、城崎は未練がましかった。
「君の淹れた紅茶のほうが美味しいかも」
「味はどうだっていいと言っていたじゃないですか。生気が取れれば、それでいいって」
「それは……そうだけど。そういえば、あのときなんであの紅茶にしたの? リラックスできるお茶だって。アールグレイに、柚子ジャムの」
ヘスチアは「ああ」と微笑んだ。城崎に選んだのは、気分が和らぐように調合したブレンドだった。なんのお茶がいいか考え抜いた末、思いついたのだ。城崎は誰よりも気を遣っている。一見そんな風には見えないし、なにも気にしていないように振舞っているが、接客であれだけ周囲をフォローできるのだ。それは彼が普段からとんでもなく気を張りつめている証拠だった。常に神経をとがらせているのは、とにかく疲れる。接客経験もあるヘスチアにはそれが痛いほどよくわかる。加えて城崎はあの外見だ。どこを歩いても羨望のまなざしが向けられ、周囲の注意をことごとく引きつけてしまう。店でもプライベートでも、彼は常に神経を張りつめている。本人に自覚はなくても、相当に気疲れしていることだろう。そう理由を言えば城崎がへそを曲げそうだったので、ヘスチアは笑ってごまかしておいた。ごまかされたことに気づいたのか、城崎は憮然としていたが、それ以上の追及はしてこなかった。人でないものは驚くほど素直で、ときに感情をわかりやすく表現する。むくれた城崎の顔が面白くて笑っていたとき、そういえば、と思い出した。ヘスチアにはもうひとり、お茶を振舞いたい人がいた。
離れた席に座る猫白のテーブルへ、ヘスチアは淹れたてのポットを運んでいった。
「どうぞ。ブレンドティーです」
「ん? 頼んでないけど、いいの?」
「この前、ポットのお代わりをお出しできなかったので。店からのサービスです」
カウンターを示すと、食器を磨いていたアメヤが頷いている。猫白にお茶を一杯だけ振舞いたいと、事前に話はしてあった。城崎が険しい顔で来ようとしていたが、アメヤに呼び止められている。猫白は面白そうにそれを見ていた。
「いいの? 僕と話すなって言われてたんじゃない?」
「猫白さんは、大切なお客様ですから」
「大切なお客様、ねぇ……そうまで言ってくれるなら、試してみる?」
猫白はにんまり笑んでいる。
「なんでもいいから、僕に質問してごらん? 答えてあげるから」
猫白に質問をするとどうなるか。城崎に教えられた言葉がよみがえる。
──猫白さんに質問をすると、代償に手痛いしっぺ返しがかえってくる。得難い真実を得るためだとしても、手を出すべきじゃない。
「試してみなよ。君にも心からほしいもののひとつやふたつ、あるでしょ? それを手に入れる方法を僕は知ってるよ」
反射的に声が出そうになった。味覚と嗅覚を取り戻す方法を教えてほしい。猫白ならきっと答えてくれる。誰にわからなくても、猫白にはその方法がわかっている。なぜだかそう確信できた。猫白はすべてを知っているのだと──けれど教えてもらったら、代わりに何が起こるのか。自分だけならともかく、この体はりくのものだ。以前のヘスチアなら、それでも問いただしただろう。誰を犠牲にしてもいいと考えていた、あの頃の自分なら。でも今は──。
「……遠慮しておきます」
ふーっと、大きなため息が口から漏れた。衝動を抑えこむにはかなりの精神力が要った。どっと疲れが押し寄せてくる。
「いいの? 君はほしいものを諦めちゃうの?」
「まさか」
疲弊した笑いがこぼれた。元の体に戻り紅茶を味わえなくなったら、きっとヘスチアは今このときのことを何度も思い出すだろう。猫白に質問をしていればどうなっていたかと、繰り返し考えるに違いない。それでも、この選択が間違いだとは思わない。そう思えるだけの忍耐強さと未来への希望を、今のヘスチアは持っている。
猫白はなぜかポットの匂いを嗅いでいた。透明なカップをまじまじと見つめている。
「これってなんのお茶? 何が入ってるの?」
「カモミールティーです。レモングラスとラベンダーを使っているので、心が休まりますよ」
「心が……?」
猫白は噴き出した。涙が出るほど笑ってから「ごめんね」と息をつく。
「いや、僕のことを知っていて、それでも人間扱いしてくれるなんて。心が休まる? 君って面白いよねぇ」
「えっと……?」
「違うんだ。ありがとう、って言いたかったんだ。とても嬉しいよ。──あのさ、君が今日やろうとしてることは、たぶん成功すると思う。詳細は視えないけど、きっと望む場所へ行けるよ」
猫白はにっこり笑った。
「今度会ったら、僕に別のお茶も淹れてほしいな。楽しみにしてるからね」
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