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「……ティータイムにしましょう」
無意識に先ほどの狭い部屋へ入っていた。中から鍵を閉め、棒立ち状態で紅茶を口に含む。動揺したら紅茶を飲め、それがヘスチアの決まり事だった。茶葉の香りはストレスを緩和し、カフェインは集中力を高めてくれる。口内に広がる味にうっかり気が抜けそうになったが、おかげで冷静な思考力が戻ってきた。
──考えてみれば、最初からおかしかった。
階段から落ち、意識を失ったはずだ。それがなぜか目覚めたらこの雑然とした部屋にいた。誰かに運ばれてきたのかもしれないが、ここがどこかもわからない。見回してみると、不思議な物ばかりが目につく。黒くつやめいた四角い物体や、液体が入っていたと思われる手のひらサイズの硬い円柱。いったいこの円柱が何なのかもわからないが、匂いを嗅ぐと甘い香りがした。ジュースが入っていたのかもしれない。部屋に窓はないが明るかった。光源は天井にとりつけられた発光体だ。白く見たこともない輝きが天井から発されている。唯一ヘスチアが用途を理解できたのは、部屋に山と置かれた本くらいだった。壁一面の本棚から溢れ出た書物が、バベルの塔よろしく床から伸びている。元々狭い部屋は大量の本のせいで足の踏み場もない。小さなベッドと机があり、足元には人がひとり座れるくらいのスペースしかなかった。
「弱りましたね……」
一番理解できないのは、自分が見知らぬ少年の姿になっていたことだ。冷静に考えてみてもなにひとつわからない。つい紅茶を飲み続けてしまう。それ以外にできることもやりたいこともなかった──そのときだ。遠くから少年の声が聞こえた。
──おい、お前だよ! 聞こえないのか!?
声はすこし離れた位置から聞こえてきた。耳を澄まそうと目を閉じた瞬間、景色が一変する。ヘスチアの自宅の様子がみえる。寝室だった。自分のベッドで、寝間着姿のヘスチア自身がわめいているのが見えたのだ。目を開くと雑然とした先ほどの部屋にいるが、目を閉じれば今いる場所とは別の場所が──ヘスチアの自室が見える。まるでふたつの空間を、瞬きひとつで切り替えるように。数回瞬き、これが夢ではないと確かめようとした。なによりおかしいのは、自分がここにいるのに、自分の姿をなぜか鏡のように他人として見ていることだった。ヘスチアの姿をした誰かが、険しい顔で話しかけてくる。
──お前、俺の体を返せ!
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「あなたは……?」
目を閉じたまま、不思議な光景を前に会話していた。目を開けると雑然とした部屋にいるのに、目を閉じればヘスチアの自室が広がっている。大声でわめいているのは、自分のベッドにいる包帯まみれのヘスチア自身だった。寝間着姿の「ヘスチア」は、ベッドの上でびしりと指さしてくる。よく見れば彼も目を閉じている。片手には紅茶のカップが握られていた。
──お前が入ってる体の持ち主だよ! くそっ、俺になにしやがった!?
「わ、私はなにも……気がついたらここにいて」
──ハァ? そんなわけないだろ。お前、超能力とか使ったろ!
「とんでもない! そんな力があれば、私は」
失った味覚と嗅覚を取り戻すか、紅茶を楽しむために使ったはずだ。相手はこちらの動揺をどう取ったか、唸るような声を出した。
──お前、死のうとしたよな?
「えっ」
──ここで目が覚めて一番に、毒薬を飲むつもりだったのかって聞かれたぞ。階段から落ちたのもわざとかって。打ちどころが良くて、たまたま助かったみたいだけど。
「そ、それは……たしかに、毒を用意しました。しかし、階段から落ちたのは偶然です。本当にただの不注意でして」
ヘスチアは混乱していた。状況がめまぐるしすぎて頭がパンクしそうだ。
──お前、名前は?
「ヘスチア・グラハムです」
──へぇ。お金持ち? ここがどこだか知らないけど。
「私の自宅ですよ」
──俺はりく。
「りく、さん? 変わったお名前ですね」
──は? なんか文句あんの?
「い、いえ」
──それで? なんで死のうとしたんだ? こんなことになったのって、どう考えてもお前のせいだよな。
「っ、な、なんで私なんですか。私はなにもしていませんよ」
──だって、そうとしか考えられないだろ。俺は階段から落ちてもいないし、毒薬なんて用意してない。ただ普通にいつも通り暮らしてただけだ!
つまり、と半分遠のいた意識で考える。今、自分が入っているのは他人の体なのだ。だから紅茶も味わえるし、匂いもする。そういうことか。
ヘスチアの体に入った「りく」という少年の剣幕は凄まじかった。こうなった原因をヘスチアのせいと決めつけ、階段から落ちた経緯を話せと迫ってくる。自分自身と話すのも妙な感じだが、明らかに自分以外の人間とわかる表情を見せられるのも不思議だった。
りくは飲みかけのティーカップを持っていた。中に入っているのは紅茶のようだが、いったい何を飲んでいるのだろう。ヘスチアはまったく関係ないことをすこし考えた。理解をこえた事態に頭がショートしそうだが、紅茶のことを考えると気分が落ちついてくる。
「そちらの紅茶は?」
──は? ああ、なにか飲みたいって言ったら、「いつものでいいですか?」って言うから。頷いたら、メイドが泣きながら持ってきたんだよ。
「……そうでしたか」
屋敷にいる数名のメイドたちの顔が浮かんだ。みんなヘスチアを気遣い、よくしてくれる。今回のことでかなり心配をかけたようだ。
──なぁ、なんで死のうとしたんだよ? あんな若いメイドに泣きすがられてさ。十分幸せそうじゃんか。
「若いメイド? あぁ……いえ、死ぬのは思い留まりましたが、死ぬほど悩んでいたことがありまして」
屋敷で一番若いメイドの姿がちらりと浮かんだが、今はそんなことどうでもいい。ヘスチアはこうなった経緯を最初から話した。ひとりで考えていてもらちがあかない。この意味不明な現象を、なんとか元に戻す必要がある。死のうと思った原因や、毒を飲むのをやめて階段から落ちてしまったこと。聞き終えると、りくは辛辣な言葉を放った。
──馬鹿だな。
「え」
──たかが紅茶で、自殺まで考えるなんて。
「っ!? わ、私にとっては、それがすべてです! 紅茶を飲むのも、楽しむことも出来ないなら、もう生きていく意味なんて」
──なあ。見た感じ、俺より年上だよな?
「今年四十になります」
──げっ。結構上だな。ま、いいや。もったいないと思うけどなぁ。今の仕事でそれだけ成功したんだろ? きっと別の仕事でもやっていけるよ。紅茶と同じくらいにはまれるものが、たぶんすぐに見つかるって。
「そんな簡単にいきませんよ。私には紅茶だけです」
──なんかマニアっぽいしさ。紅茶以上の何かを見つけなよ。
「そんなものありません! 紅茶にこの身とすべてを捧げました。だから私は……!」
「りく? 電話してるのか?」
突然、聞こえた声に飛び上がる。誰かが部屋をノックしている。振り返ると、背後でドアノブがガチャガチャ揺れていた。そういえば、さっき無意識に鍵をかけたかもしれない。外の人物はドアを開けるようにと、繰り返しドアを叩いていた。
「だ、誰か来ました!」
──アメヤだ。
「誰です?」
──……兄貴。
「どうすれば?」
──俺は……だから、…ないようにして、……それと……。
「えっ? なんです?」
声が急速に小さくなっていく。目を閉じてもヘスチアの部屋の光景は見えなくなっていた。ドアをノックする人物の声だけが大きくなっていく。
「りく! 大丈夫か? りく!?」
「ど、どうすればいいんですか!?」
──とりあえず、店には出ずにじっとしてろ! それから……。
声が消える寸前、必死の叫びがなんとか聞こえた。消える間際のほんの小さい声で、聞き間違えたかもしれない。そう思ってしまうほど、それは受け入れがたい言葉だった。りくは最後に怒れる声でこう言っていた。
──紅茶は飲むな!
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