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恐る恐るドアを開けると、紅茶を淹れてくれた青年が立っていた。
「りく、大丈夫か?」
「いや、えっと」
「体調が悪いのか?」
「そんなことは……」
思わず「あなたが大丈夫ですか?」と返しそうになった。それくらい目の前の青年は動揺しているようだった。心配を顔いっぱいに滲ませて、弟の身に何か異常がないか、必死に視線で探っている。りくの兄だという青年──たしかアメヤという名前だった気がするが、彼はりくとはまるで似ていない。なにかスポーツでもしているのだろう。ほどよく引き締まった体は上背もありしなやかだ。力もありそうで、とても健康的にみえる。一方のりくは腺病質で、常に日陰で本でも読んでいそうな暗さがあった。りくの瞳に宿る皮肉の光は相手に警戒心を抱かせるが、このアメヤという青年は無条件に相手に信頼を寄せられそうなタイプだ。
そういえば、と思い出した。自分の店にもこういう青年がいた。表で華々しく接客するタイプではないが、働き者でみんなから重宝されている青年だ。ヘスチアの店の青年は、一見とっつきにくく不愛想だが、根は優しく真面目だった。目の前のアメヤからも似た雰囲気を感じる。
アメヤは弟が急病でないと知り、心の底から安堵したようだ。凛とした面差しを緩め、息をついている。ヘスチアはふと疑問に思う。兄とはこんなにも過保護なものだろうか? ひとりっ子だったヘスチアにはよくわからない。アメヤは言いづらそうに口を動かした。
「今日、城崎さんが店に来ないから」
「え?」
「店は俺ひとりで、忙しくなる。ずっと下にいるが──なにかあったら呼べ」
「は、はい。わかりました。……に、兄さん」
ぎょっとアメヤが身を引いた。驚きの表情でまじまじと見られ、自分の顔が引きつるのがわかった。なにか間違えただろうか。彼のことをよく知らないし、りくが自分の兄をなんと呼んでいたのかも知らない。取りつくろう暇もなく、難しい顔でアメヤは下へ降りていってしまった。兄弟の仲はわからないが、親しげに「兄さん」と呼ぶ関係ではおそらくなかったのだろう。やってしまった。そう気づいても今さらどうしようもない。
どれほど時が経ったのか。大人しく部屋で待ってみたが、あれからこの肉体の持ち主・りくの声が聞こえることはなかった。
「……仕方がないですね」
とりあえず、身づくろいをすることにした。洗面所で顔を洗い、棚にあった櫛で髪を整える。寝ぐせを直すと、りくの髪が異様に長いことがわかった。伸ばしているわけではなく、ただ手入れされていないようだ。後ろ髪は肩まで伸び放題で、前髪は下ろせば顎下まで届いている。さすがに不便だったので、部屋で見つけたゴムでシニヨンにまとめておいた。本当は切りたかったが、人のヘアスタイルを勝手に変えるのもまずいと思ったのだ。パジャマを脱ぎ、部屋にあった白シャツと黒のスラックスを着る。鏡で見ると、色白な少女が男装しているような恰好になった。つんと澄ました目に愛らしい鼻、ピンク色の唇。頬や口元はふんわりまろく、触れてみたいと思わせる桜色だ。賢そうな目が、じぃっと鏡の中から自分を検分している。染みひとつない頬を桃色の爪でつつき、ヘスチアは思わず感嘆のため息をもらしていた。
「愛玩人形みたいですね……」
小綺麗だとは思ったが、こうして身なりを整えると予想以上になった。これほどの造作なら、かえってヘスチアの店の売り子には向かない。店に出すなら彼自身を暴漢から守るために、人を雇う必要がある。コアなファンはつくだろうが、そのぶん安全に目を光らせなければならない。
階下から紅茶の素敵な香りが運ばれてきた。どうやらアメヤの言っていた「店」がオープンしたらしい。話し声もかすかに漏れ聞こえる。恐る恐る降りていくと、狭い空間にちょっと驚くくらいの男女が座っていた。カウンター席に三人、ステンドグラス窓の近くの席には四人いる。まばらに置かれた店内のテーブル席も満席で、十数名の男女がメニューを広げていた。どうやら開店と同時に大量のお客さんが入ったらしい。なかには注文をとってほしそうな人の姿もちらほらみえる。店員を探していた女性の二人連れが「あの人ひとりでやってるの?」「他に人いないのかな?」と、カウンターの中のアメヤを見て小声で話している。アメヤは忙しそうに、ひとりで奮闘していた。これだけたくさんのお客さんがいるのに、たったひとりで厨房と接客をするのは無理がある。そういえば、先ほどアメヤは店の誰かが来ないから、今日は忙しくなると言っていた気がする。
「あの、すみません」
近くで呼ばれ、ハッとした。真横のテーブル席の男女がこちらを見上げている。
「は、はい?」
「注文、いいですか? 今日のおすすめAセットと──」
「ちょ、ちょっと待ってください。えっと」
店員と間違われたらしい。復唱する姿があまりにもたどたどしいので、女性のほうが怪訝な顔になった。
「ねぇ、この子違うんじゃない? まだ小学生くらいだし」
「え、えっと、大丈夫ですよ。復唱します。ご注文は今日のおすすめAセットと、フルーツハーブティーをポットで。よろしいですか? ……少々お待ちください」
慌ててカウンターへ向かうと、せわしなく働いていたアメヤがぎょっとした目を向けてきた。
「どうした?」
「え?」
「その恰好。それに、店に出てくるなんて」
「あ、っと。あちらのお客様から注文を承りました。今日のおすすめAセットと、フルーツハーブティーだそうです」
「なにを──」
すみません、と背後で呼ばれ、思わず振り向いてしまう。
「っ、はーい! 今行きます」
「おい」
「はい?」
「なんで手伝ってる?」
「ひとりじゃ大変そうですし。もったいなくて」
「は……?」
その紅茶、とアメヤが手にしたポットを視線で示した。
「すごくいい匂いがします。でも、飲み頃を逃しそうです。サーブのタイミングは大切ですよね?」
紅茶は冷めると意味がない。適切なタイミングで提供できなければ、茶葉本来の良さが失われてしまう。当然のことを告げたら、アメヤは唖然と固まってしまった。
「急いで紅茶の準備をしないと。お客さんは、私がカバーしますから!」
のろのろと、夢から覚めたばかりのようにアメヤは動き出した。その表情はなぜか硬く、すいと視線をそらされてしまった。また余計なことを言ったかもしれない。けれど、お客さんに呼ばれ対応に追われているうちに、ヘスチアはそのことを忘れてしまった。
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