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5
料理と紅茶を運び、注文をとる。何往復かすると忙しさも落ちついてきた。外はにわか雨が降ってきたらしい。傘を持っていないお客さんが数人駆けこんでくる。フードをかぶった若い男性が、水滴を払いアメヤに話しかけていた。
「すごい雨。晴れ予報だったのになぁ」
「いらっしゃいませ。あちらの席、空いてますよ」
「オッケー。あれ、今日はアメヤさんだけ? 城崎さんは?」
「大学の出張でして。今日は」
「そっかぁー。困ったな。意見聞きたかったのに」
「すみません」
「じゃあさ、代わりにあとでちょっといい?」
「……いいですけど。俺、ファッションは専門外ですよ?」
「いいから。もうわらにもすがりたい気持ち」
一番奥の席へ歩いていく男性の姿を、ヘスチアは自然と目で追っていた。二十代後半くらいだろうか。いかつい黒のブーツを鳴らして軽やかに歩いていく。フードをおろすと、コバルトブルー色の髪が現れた。鼻と耳に丸っこいピアス、袖まくりした腕には金の腕輪がじゃらじゃらしている。なんとも個性的な装いで、ヘスチアはつい魅入ってしまった。青年は席につくなり、リュックサックからスケッチブックと色えんぴつを取り出した。何かを描くわけでもなく、えんぴつを物憂げに回している。遠く虚空を見つめていた目がばっちりヘスチアに留まった。
「君。ちょっと」
「はい?」
こわごわ近づくと、アンバームスクの香りがした。ほんのり漂う香水は異国情緒があり、青年の雰囲気によく似合っている。ふうん、とヘスチアを吟味していた目が満足げに細まる。どこか人を喰った笑みだ。こういう何を考えているかわからない人は苦手だった。
「君がアメヤさんの弟?」
「えっと」
「前に聞いたんだ。年の離れた弟がいるって」
青年はカウンターで働くアメヤを見ている。なにか答えを返さないと怪しまれてしまう。
「そうです」
「名前なんていうの?」
「りく、です」
「りく君。俺、宮坂。よろしくね」
「どうも」
「店の手伝い? 普段会わないよね。週一でここ来てるけど」
「えっと、ご注文は……?」
「いつもの。それで伝わるよ」
手をひらひら振られ、仕方なくカウンターへ戻った。言われたとおりに伝えると、忙しそうにしていたアメヤはぐっと眉間にしわを寄せる。
「あの人には近づくな」
「どうしてですか?」
「……その敬語、なんなんだ。さっきからふざけてるのか?」
そうは言われても、これがヘスチアの素なので困ってしまう。普段から敬語以外をあまり使ったことはないし、急になれなれしく話しかけてもぼろが出そうだ。りくとアメヤの適切な距離感はどれくらいだろう。敬語ではないけれど、「兄さん」とは呼ばない距離? 親しいのか険悪なのか、まるでつかみとれない。黙りこんだのをどう思ったか、アメヤはいくぶんやわらかな声を出した。
「まあ、お前がそうしたいなら、好きにすればいい。店を手伝うのも……その変な言葉遣いも。ただ、今日は忙しいんだ。邪魔するつもりなら、上に戻ってろ」
「はい……」
「べつに叱ってるわけじゃない」
アメヤはかすかに口元を緩める。すこし口角が上がっただけでずいぶんと優しげになった。りくはアメヤに溺愛されているらしい。気になっていることを聞こうか悩んでいると、「なんだ?」と向こうから問いかけてくれた。忙しいと言いながら手を止めてくれるあたり、アメヤは弟に甘い。
「どうして宮坂さんに近づくなと……?」
宮坂は先ほどから手元のスケッチブックとにらめっこしている。アメヤは淡々と教えてくれた。
「あの人、今日は機嫌が悪そうだから。俺が対応する」
「機嫌、悪そうですか?」
そんな風には見えなかったが。宮坂はニコニコしていたし、とても上機嫌だった。アメヤは忙しく手を動かし、教えてくれる。
「うちに来る時点で機嫌は相当に悪いんだ」
宮坂は服のデザインをしているらしい。業界では名の知れたデザイナーで、アイデアにつまると仕事をさぼり、ここへ来るのだという。
「何を考えてるかわからない人だから。悪い人じゃないが、地雷も多いし」
「じらい?」
「とにかく、下手に関わらないようにしろ。お前、知らない人と話すの苦手だろ? 店のことは気にしなくていいから」
「はあ……」
つい、アメヤの手元を凝視してしまう。アメヤはコーヒーを淹れている。カフェにコーヒーがあってもおかしくはないが、ここは紅茶専門店だと思っていた。お客さんはみんな紅茶を頼んだし、さっきちらっと見たメニューにコーヒーはなかった。
「宮坂さんのだ。あの人、コーヒー以外は飲まないから」
「紅茶がお嫌いなんですか?」
「そんなことはない、と思う。……前は、飲んでたから」
アメヤはそのまま黙りこんでしまった。その目は遠く思考の海に沈んでいる。なんだか話しかけづらい空気になってしまったが、ちょうどそのとき、レジに女性客が立った。
「っ、いま行きます」
慌てて向かうアメヤの起こした風が、ふわりとブラックコーヒーの匂いを広げた。なつかしい炭焼きの香りにヘスチアは目を細める。コーヒーの匂いもヘスチアは好きだった。味蕾の奥まで広がる深い苦みと、スモーキーで独特な香りを思い出す。鼻腔から脳に活力が吹きこまれ、目が冴え冴えとするあの感覚も。アメヤはお客さんにつかまり、なかなか戻ってこない。ヘスチアはコーヒーをカップにそそぎ、香ばしい匂いを堪能した。こうして炭焼きの香りにうっとりするのもいつ以来だろう。りくの体は本当に素晴らしい。健康で、味と匂いをしっかり感じられる。急に体が入れ替わって困惑したが、またこうして匂いを感じる機会を得られたことには感謝しなければならない。けれど、ずっとこのままでいるわけにもいかない。なぜこんなことになったのか、今の現状で分かっていることをヘスチアはひとつずつ考えてみることにした。
──まず、ここはイギリスではない。
りくとアメヤはアジア人、店の客もみんな黄色人種だ。茶葉の産地は中国や東南アジアに多く広がっている。店の発展具合からみても、ここは中国かもしれない。けれど中国であるはずはないとも思っていた。ヘスチアは中国語を話せない。日常会話はもちろん、中国語の読み書きもできない。けれど、アメヤたちとは母語で話すように意思疎通ができる。メニューに書かれた漢字も全部読めた。まるでりくが、言語知識をそのまま体に残していったようだ。
もうひとつ気になるのはこの店についてだ。出される紅茶の茶葉やブレンドの数々は、ヘスチアが知らないものばかりだった。イギリスでは見たこともない製法の紅茶に出くわし、心底仰天した。茶商として長く働いてきて、業界のことは知りつくしているという自負があった。茶葉の産地にも足しげく通ったし、紅茶についてヘスチアは世界屈指の知識を持っている。それなのに知らない紅茶が店にはたくさんあったのだ。あり得ない──これほど上質で洗練された茶葉があれば、必ずヘスチアの耳にも入る。……なにかを決定的に見逃している。そんな気がした。体が入れ替わっただけではなく、根本的などこかがヘスチアのいた場所とは異なっているのではないか? はっきりとはまだわからないが、明確に何かが違う──。
「おーい」
呼ばれてハッとした。宮坂が手を振っている。
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