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「それ俺の? できた?」
「あ、はい」
ちらりと窺うと、アメヤはまだお客さんと談笑している。淹れたてのコーヒーが冷めるのももったいなくて、ヘスチアは一式をトレーで運んでいった。宮坂は気さくに微笑んでいる。
「ありがと。ちょっとそこに座って」
「え?」
「話し相手になってよ。君の顔見てたらアイデアが浮かびそうなんだ」
向かいの席に腰かけると、宮坂はスケッチを始める。
「あんまりアメヤさんに似てないね」
「えっと……」
「ごめんね。俺、思ったことすぐ口に出るから。君がどうってわけじゃないけど」
「いえ、構いません」
「アメヤさんもイケメンだけど、なんていうか君は……モデルの仕事とか興味ない?」
「モデル……?」
「俺、芸能事務所にもつてがあるんだ。子供服やってるデザイナーも、君のこと欲しがるんじゃないかな。あと五年くらいしたら、俺のブランドにも合いそうだし。ね、本気で考えてみてよ。もったいないって、そのルックス」
何を言われているのかはわからないが、おそらく悪い意味ではないだろう。反応に困っていると、宮坂は「あ~!」とひとり納得する。
「未成年か。じゃあさ、アメヤさんに相談してよ。その気があるなら声かけてくれればいいし。なんなら、俺からアメヤさんに話そうか? 今ってアメヤさん忙しい?」
「あ、あああの! なんでコーヒーなんですか!?」
「え?」
「紅茶がいっぱいある店なのに、どうして──?」
立ち上がろうとした宮坂を止めたくて、口から出たのは純粋な疑問だった。聞くつもりはなかったのに、目の前にコーヒーカップがあったからつい尋ねてしまった。宮坂は素の表情で固まっている。驚いた顔は意外と幼くみえたが、瞬きひとつの間にのっぺりした笑みが貼りつけられてしまう。
「なんで? コーヒーを飲んじゃだめなの?」
「い、いえ。そういうわけじゃ」
「嘘うそ。ごめんね。メニューにないのに無理言ってさ。でも俺、ここの紅茶は大好きなんだよ?」
「そうなんですか?」
「そう。昔からよくここに来て、アイデア出してたんだ。前は紅茶も飲んでたけど。……ほら、マスターが紅茶淹れてたときさ。『幸せの紅茶』とか、ネットで話題になってたよね」
ヘスチアは頷く。マスターとは誰だろう。『幸せの紅茶』とは? わからないことだらけだが、知らないとばれるのもまずい。宮坂はうっとり懐かしむ表情になる。
「あの頃は……アメヤさんもまだ大学生だったっけ。マスターの紅茶、ほんっとうにおいしかったなぁ。飲むとマジで幸せな感じになった。本当によかったなぁ。俺は駆け出しだったけど、アイデアもどんどん出せたし。調子が悪くてもここで紅茶飲んでたら、いっきにアイデアが湧いてたんだ。でも今は……なかなかね。自分のせいだけど、粘ってもアイデアの一枚も出てこない──言われてみれば、だからかもなぁ」
宮坂は苦笑している。
「紅茶を飲むとさ、昔との違いが露骨にわかるから。ああ、もう自分は駄目かもって。デザイナーとしては終わりかも、とかさ」
「そんな……」
「いいよ慰めなくて。自分でもよくわかってるんだ。直接俺に『辞めろ』って言ってくる人もいるくらいだしね」
宮坂はコーヒーを優雅に手に取る。カップの中を眺め、真っ黒なコーヒーの底を苦々しく睨みつけている。
「まあ、そういうわけ。今はコーヒー。こっちのほうが目も覚めるし」
静かにコーヒーをすすると、また視線をスケッチブックへ落としてしまう。宮坂の顔にはよく見ればクマがあった。ヘスチアはため息を零しそうになる。今の彼の状態は、りくと入れ替わる前のヘスチア自身に似ていた。なにかを叶えたいのに叶わないときの辛さは、いっそ惨たらしいものがある。嗅覚と味覚を失ったヘスチアは、過去にあらゆる薬を試していた。民間療法や名医の治療など、やることはすべてやった。神をあまり信じてはいなかったが、そのときばかりは必死になって祈りもした。それでも駄目だったのだ。無理だとわかっていても、人は欲しいもののためにはつき進んでしまう。それがその人にとって大切なことならなおさらだ。
宮坂に慰めの言葉をかけるのは簡単なことだ。「すこし休んでは」、「気分転換したほうがいい」、そんな甘い言葉をかけても、けれど意味がないだろう。休もうとしたところで宮坂の気は休まらないし、気分転換もできないはずだ。彼の頭はずっとデザインのことでいっぱいで、満足のいく結果が得られるまでは納得しない。出来ないことへの絶望と恐怖は増すばかりで、しだいに気力と意欲をそがれていくのだ。ヘスチアにはそれが手に取るようにわかってしまった。
「引きとめてごめんね。ほら、アメヤさん呼んでるよ」
もう行っていいよ、と手をふられ、ヘスチアはのろのろとカウンターへ戻る。待っていたのは険しい顔のアメヤだ。
「あの人に関わるなって言ったろ?」
「すみません。でも」
「なんだ」
「宮坂さん。昔、紅茶飲んでたって」
「……何を言われたかしらないが、気にしなくていい。客足も落ちついてきたから、もう上に戻っていいぞ」
「あ、あの。もう少しだけ。ここにいさせてもらえませんか?」
「お前、なんでそこまで──」
「お願いします」
アメヤは視線を険しくしたが、それでも「勝手にしろ」と許してくれた。ヘスチアはお客さんに紅茶を運びながら、ずっと宮坂のことを考えていた。彼には可能性がある。味覚と嗅覚を失ったヘスチアとは違い、彼の才能はまだ扱うことができる。宮坂には現実に抗う意志も、意欲も十分にあるようだ。なんとか彼の力になれないだろうか?
「っと。すみません」
考えごとをしていて、店の隅で子供とぶつかりそうになった。子供といってもりくと同じ年ごろだ。きらきら光る金髪がまず目を引いた。こんがり焼けた肌に青い瞳、顔つきはアジア人だがハーフかもしれない。丸い鼻と目が愛らしく、だぼっとした明らかにサイズの合わない青のパーカーを着ている。服が大きすぎてワンピースのようになっている。男の子か女の子か、見た目だけでは判別がつかなかった。宮坂と話しているうちに店に来たのかもしれない。子供は予想外の行動に出た。居丈高に胸をはり、店中に響く高らかな声を出したのだ。
「うぬ、どういうつもりじゃ!?」
「すみません、ぼーっとしてて」
「そうではないわ! わしをいつまで待たせる気じゃ!」
「え? あ、注文……?」
「フラー!」
子供は地団太を踏んでいる。舌ったらずな声に、ようやく男の子だとわかった。怒っているようだが、意味がわからない。青い瞳が怒りできらめいている。驚くほどの勢いで子供は吼えた。
「いつ例の計画とやらを実行する!? わしはもう待てんぞ!」
「え、計画?」
「とぼけても無駄じゃ! うぬはいつもそうやってのろのろと……!」
「あ、あの。何のことかわかりませんが、お席に戻りましょう。親御さんはどちらに?」
「いつまでその臭い芝居を続けおる!? 店の手伝いなぞ、うぬらしくもなかろうに」
すると、子供はハッとしたように固まった。「なるほど」と頷き、納得の唸り声を出した。
「これが例の計画じゃな? 店を手伝い、内から崩壊させると!?」
「はい……?」
「あやつか? うぬが先刻、話しておった。服のことばかり考えておる、あの変人の」
「宮坂さんのことですか?」
「あやつに一服盛る気じゃな!? ハバネロか、洗剤か!? わしも協力しよう」
「……すみませんが、今は忙しいので」
子供の相手をしている暇はない。親御さんをはやく探したほうがいい。背を向けた瞬間、子供が叫んだ。
「よいか! あやつはアールグレイという紅茶が好みじゃ! そこに砂糖ひとさじ半が定番じゃが、わしがテーブルにハバネロを用意しておいてやる。うぬは紅茶のほうに細工をせよ! わかったか!? それでこの店の評判もおしまいじゃ!」
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