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「──すみませんが、この店にアールグレイという茶葉はありますか?」
アメヤに聞くと、ひどく不可解そうに見つめられた。
「あるが……どうした? お客さんに聞かれたのか?」
「まあ」
客というか子供だ。なんとか席へ戻そうと親を探してみたが、それらしいお客さんは見当たらなかった。子供はそれからしばらくつきまとっていたが、仕事の邪魔になるからと適当にあしらっていると、どこかへ消えてしまった。ざっと見回してみてももう店内にはいない。気がつかないうちに帰ってしまったらしい。ヘスチアは子供に言われたことを考えていた。
──アールグレイの紅茶が好みじゃ!
聞いたことのない茶葉の名前だった。「アール」は分からないが「グレイ」はイギリスでは伯爵の称号になる。アール伯爵──紅茶好きにそんな伯爵がいただろうか? すくなくともヘスチアのお得意様の中にはいない。知り合いではなかったとしても、紅茶好きの知名度の高い人物ならヘスチアは当然知っている。それなのに、そんな人物の話は聞いたこともなかった。これはやはりおかしい。
「お前、どこか体調が悪いんじゃないか?」
心配そうにアメヤがヘスチアの額に手を伸ばしてくる。考えごとをしていたので、ぬっと現れた手のひらにびっくりしてしまった。りくの体にいるせいで大人の手のひらがとても大きく感じられる。無意識に体がびくつき、アメヤはすぐに手を引っこめたが、悔やむような顔をした。
「悪い」
「っ、いえ。あの、お願いがあるんですけど」
アメヤは複雑そうに一瞬黙りこんだが、それでも頷いてくれた。
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コトリ、とテーブルにティーカップを置くと、宮坂は顔を上げる。
「これは? 頼んでないけど?」
「店からのサービスです」
「……飲まないよ?」
宮坂は眉を寄せ、紅茶を眺めている。幅広の白いカップから出る湯気が、みずみずしい花束に似た芳香であたりをくるみ始めた。えんぴつを無造作に投げ捨てた宮坂は、冷たい声を出した。
「なんのつもり?」
「アールグレイです」
「わかってるよそんなの。聞いたんでしょ? 俺が昔はアールグレイばっかり飲んでたって。なに、嫌がらせ?」
「いいえ。でも、飲んで頂きたくて」
「いらないって言ってるだろ」
荒々しい動作で宮坂はスケッチブックを鞄へ入れこんだ。今にも店を出ていきそうな勢いだったが、ヘスチアは怯まない。
「逃げるんですか?」
「……なに?」
「紅茶を飲まずにコーヒーを飲んで、目を背けるんですか? 昔のようにうまくいかないから」
カッと宮坂が目を見開いた。殴られる。一瞬そう思うくらいの気迫があった。ヘスチアはじっとしていた。殴られても仕方のないことを言った覚えはある。宮坂は青ざめ、立った姿勢のまま立ちすくんでいた。唇をわななかせ、ぎゅっと引き結んでいる。感情を抑えこもうとする目の揺らぎが、雄弁に心を語っていた。彼がどれだけ努力しているか。毎日どれほどの労苦を積み重ねてきたか。それがわかっているから、ヘスチアはあえて口を開く。
「あなたは努力をさぼっています。だからうまくいかないんですよ」
「っ、なに言って」
「だって、コーヒーを飲んでいるでしょう?」
「……え?」
ぽかんと、宮坂は口を開けた。
「昔は紅茶を飲みながらアイデアを出していたと、そう仰っていましたね。けれど今は、昔との違いを感じるからコーヒーを飲んでいると」
「そ、それがなに」
「それは逃げです」
宮坂はアイデアの枯渇を恐れている。デザイナーとしてのそれはキャリアの終焉を意味するからだ。昔から飲んでいた紅茶ではなく、だから最近はコーヒーを飲むようになったとそう言っていた。紅茶を飲むと、うまくいっていたときの自分を思い出してしまうから。うまくできない現状を直視するのが怖いから、彼は逃げている。
「本当に努力する気があるなら、あなたは今も紅茶を飲むべきです。昔との違いを身に染みて感じ、苦しみにのたうち──それでも成し遂げようとする気概こそ、あなたに必要なものです」
宮坂は血の気のひいた唇をわななかせた。
「き、きみは。僕に向かって──こんなに努力してる、僕に向かって、よくそんな酷いこと言えたね?」
「本当に努力している人は、そんなこと言いませんよ」
宮坂は息をのんでいた。利き腕の拳が白く握りこまれている。怯みそうになる心を奮い立たせ、ヘスチアはなおも告げた。
「最大限努力している人にそれを伝えると、必ずこう言われるんです。全然頑張っていない、まだ足りない、と。あなたは、努力していると自分で思いこんでいるだけの人です。めいっぱい努力している人は、自分が努力していることに気がつかないものなんですよ」
「っ……」
「あなたは頑張っている。だからすこし休んだほうがいい、リフレッシュしたほうがいいと、そう言ってくれる人もいるでしょう。けれどそんな優しい慰めは、必要ないはずです。あなたに必要なのは、人生のすべてをかける覚悟だからです。違いますか?」
己の人生をかけて試練にぶつかるのは自殺に近いものがある。最高時速で壁にぶつかれば、壁のほうが固くて自身が粉々になるかもしれない。それでも速度を緩めることはできない。ぶつかってみるまでは自分とその壁、どちらのほうが勝つかわからないからだ。初速を緩めたり、すこしでも恐怖に怯んだりすれば、いつまでたっても現状は変わらない。宮坂は今、怯んでいる。過去と現在を比べ、乗り越えるべき壁を遠まきに眺めている。彼は緩やかなマラソンをしているが、壁の手前でぐるぐるしていては疲れるだけだ。
「……なんで、そんなこと言うの?」
宮坂の素の声はすこし茫然としていた。魂の出そうなため息ともに、彼はぐったりと席に座る。ヘスチアはテーブルの上で湯気をあげるティーカップに目を落とした。輝く琥珀色の液体は、完璧な抽出時間と適温で淹れたものだ。高品質な紅茶だった。アールグレイは柑橘や花束の香りを漂わせている。きっと茶葉の品質が恐ろしく良いのだろう。驚くほど香り豊かで、湯気をすこし吸いこむだけでも幸せな気持ちになれる。匂いがするという当たり前の事実を、ヘスチアはひどく大切なものとして実感していた。過去の苦々しい記憶がよみがえってくる。ため息とともに言葉はこぼれ落ちていた。
「……私には、どうしても叶えたいことがありました。現実には不可能だと言われ、絶望的な望みでしたが」
「叶えたいこと?」
「それは……まあ、いいんですけど」
「なにそれ。教えてくれないの?」
宮坂は口をへの字にしたが、無言で続きを促した。
「周りから色々言われました。優しい言葉も、残酷な言葉も。私を想っての気遣いの言葉より、残酷な言葉のほうが私には慰めになりました」
無理だと言われるほどヘスチアは奮い立った。人に嘲られ、魂に斬りこまれる言葉を投げつけられるたびに、さらに決意を強めた。そうやってつき進んだ結果、ヘスチアの心は最終的には粉々になったのだが。
「私は失意のどん底でした。だからこそ、許せないんです。頑張ったふりをする人のことが。あなたにはまだ望みがある。本気でやれば、叶う可能性があるんですよ」
「人生の半分も生きてない子供に何がわかるの?」
りくの見た目は普通の子供だ。宮坂の言うことももっともで、ヘスチアは苦笑するしかない。実際、ヘスチアにはなにもわからない。自分の現状も周りのことも、りくやアメヤ、店にある見知らぬ紅茶の数々のことだって知らないのだ。それに元の体にどうやって戻ればいいのかもわからない。宮坂の苦しみは彼にしかわからないことだし、余計なことを言った自覚はある。激しい罵倒を覚悟したが、宮坂は笑っていた。最初に会ったときのように、軽快な口調に戻っている。繕った表情ではなく、それが本心からの感情だとヘスチアにはわかった。暗く翳っていた瞳に、すこしだけ明るさが灯されている。
「りく君。俺にかまけてたら、他のお客さんが困るでしょ。もう行けば?」
「えっ。はあ……」
「それに、ほら──アメヤさんが。さっきから俺を殺しそうな目つきで見てる」
振り返ると、険しい顔のアメヤが睨んできていた。客に見せてよい顔つきではない。ヘスチアは思わず顔を引きつらせる。
「た、たぶん、私が失礼をしないか、心配してるんだと思います」
「心配通りだったね。まあいいよ。はやく行きな」
カウンターへ戻ると、アメヤから真っ先にお小言が飛んできた。
「どういうつもりだ! お前、宮坂さんには近づくなってさっき」
アメヤは途中で何かに目を奪われ、息をのんだ。振り返ったヘスチアは、一瞬遅れで頬をゆるめる。宮坂が紅茶に手を伸ばし、美味しそうに飲んだところだった。
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