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8
外の雨脚は弱まった。穏やかな日暮れに店は「close」の看板を掲げた。宮坂は誰が見てもわかるほど上機嫌で帰っていった。停滞していた仕事がずいぶんと捗ったらしい。去り際に見送ると、宮坂はこっそり近寄ってきた。
「色々気遣わせてごめんね」
こちらこそ失礼を、と頭を下げると「はいこれ」と何か小さなものを渡される。
「もうこんな悪戯しちゃだめだよ」
「え?」
「君でしょ? これ。いくら俺でも気づくよ。色がさ」
宮坂は呆れた笑みを浮かべている。店の各テーブルにある白い砂糖の瓶だ。紅茶用の砂糖キューブが入っているのだが、蓋を開けると瓶の中は真っ赤に染まっていた。つんとさすような刺激臭にはおぼえがある。
「ハバネロ、ですかね?」
「他のお客さんの迷惑になるから、回収しといた。じゃ、またね」
バイバイ、と軽やかに出て行く宮坂を見送り、ヘスチアは茫然とつぶやく。
「私じゃないのに」
砂糖入れにハバネロソースをふりかけるなんて、子供じみた悪戯だ。子供、という言葉がふと、昼間の男の子を連想させる。きらきら輝く金色の髪に、上から目線の男の子だった。あの子は得意げに言っていたではないか。
──わしがテーブルにハバネロを用意してやる!
本当にやるなんて。でも、いつの間に? ため息とともにヘスチアは手元の砂糖入れを見下ろした。
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店からの帰り道、宮坂は通行人にぶつかった。雨上がりの美しい夕焼けに気をとられ、ろくに前を見ていなかったせいだ。ぶつかった少年は線が細く、しりもちをついていた。少年は持っていたノートパソコンに傷がないかを確認している。宮坂は慌てた。
「ご、ごめんね。大丈夫だった?」
「はい」
「あれ、君──?」
「はい?」
たしか、店で見たことがあった。店の常連客のひとりだ。少年は猫目を細め「ああ」と笑う。
「あなたを見かけたことがあります。僕も、あの店によく行くので」
「今から行くの?」
「いいえ、今日は。たまたま近くにいただけで──猫白といいます」
ぺこりと少年は頭を下げた。高校生か、大学生くらいだろう。世慣れている。人懐こそうに微笑むと目が細まり、白猫が喉をごろごろいわせているようだ。宮坂は「そうだ」と思い立った。
「僕、ファッションデザイナーなんだ。君さ、緑と赤ならどっちが好き?」
「え。緑と赤、ですか……?」
「服のコンセプトで悩んでるんだ。若い人の意見も取り入れたくて。どうかな?」
変なことを聞いている自覚はあった。好みの色を教えてもらうだけだし、答えは得られるはずだ。猫白の反応は、けれど宮坂が考えていたものとはまったく違った。ひとつ瞬くと、のっぺりした顔になったのだ。動揺もみせず感情も読めない。無表情なのに目だけが笑っていて、一種不気味な顔だった。宮坂は無意識に生唾をのみこんだ。どこがどうとは言えないが、本能的に何かがおかしいと感じる。話しかけたことを後悔していた。猫白は首を傾けた。
「それは質問ですか?」
「え? ま、まあ、そうだね」
「僕に質問をしたんですね? 緑と赤、どちらが好きかと?」
「……そんなに深く考えなくていいよ。直感でいいから」
「赤」
「そ、そう。ありがとう」
「すばらしき応報を」
「え?」
猫白はすたすたと歩き去ってしまった。不思議な子だった。赤。すばらしき応報を……? とにかくアイデアは固まりそうだ。宮坂は気を取り直した。赤色の方向で固めて、さっそく明日から作業に取りかかろう。誰よりも素晴らしい気分でいた次の瞬間、宮坂は交差点で車にはねられた。
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