10.冬の嵐*

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10.冬の嵐*

 朝はあんなに晴れていたのに、日が落ちる頃には空はすっかり灰色の雲で覆われ、時折遠くから雷の音が聞こえてきた。 (どうしてこんなことになってしまったのかしら……)  リリアーヌは客室のカウチに身を預けたまま、ずっと考え込んでいた。  時間が経てば経つほど、怒りがこみ上がってくる。身勝手なエルヴィンにも、人の言うことに耳を貸さないローレンスにも、そして何よりあまりにも無力な自分にも。 (わたくしが何をしたというの?……もう嫌、何もかも。故郷に帰りたい。お母様に会いたい……)  目を閉じると故郷のなだらかな丘陵地帯の美しい景色が蘇って、鼻の奥がツンと痛くなる。慌てて瞬きをして涙を誤魔化した。  その日ずっと、屋敷は恐ろしいほど静まり返っていた。  夜が更けるにつれて雷の音が近くなり、外は激しい嵐になった。強い北西の風がゴウゴウと音を立て、(みぞれ)が窓ガラスを打ち付ける。  部屋から一歩も出なかったリリアーヌは、時計が九時を指すと立ち上がって浴室へ向かった。  ローレンスの屋敷には最先端の浴室が完備されていて、各々のバスタブにボイラーから好きな時に湯を張ることができた。この設備を始めて目にした時、こんな便利なものが世の中にはあるのかとリリアーヌは心底驚いたことを覚えている。  バスタブに半分ほど湯を溜めて身体を沈めても、心はざわついたままだ。 (やっぱりローレンス様は皆が言うような恐ろしいだけの方だったのね。きちんと説明すれば分かって下さると思っていたのに……)  あの冷たい目。有無を言わせない口調。そうだ、エルヴィンは無事だっただろうか。今になって急にリリアーヌは彼が気の毒になってきた。 (もしや、わたくしの態度が思わせ振りだったの?……だからエルヴィンにもローレンス様にも誤解させてしまったの?……だとしたら、今回のことは全てわたくしのせい……?)  自分を責める気持ちが湧き上がってくる。  リリアーヌはいったん考えるのを止めた。とにかく今日はもう終わりにしよう。何もなかったかのように明日の朝は普段通り朝食の支度をして、ローレンス様が起きられるのを待って、誤解を解こう。  堂々巡りを断ち切るように頭を振ると水音を立ててバスタブから上がり、リネンの夜着に着替えて寝台に横たわった。  何度寝返りを打とうと眠ることなどできはしないのは分かっていたけれど。  一方でローレンスも眠れぬ夜を迎えていた。  リリアーヌが商会で仕事をするようになって間もない頃から、エルヴィンの様子がおかしいことには気がついていた。ふとした瞬間に目を上げると、奴はいつもリリアーヌの姿を目で追っている。  その姿を見る度に、無性に腹が立った。  更に数日前、アビゲイルから気になることを聞いたのだ。最近、リリアーヌさんが食堂に来ると、まるで狙っているかのようにエルヴィンがやって来る。リリアーヌさんはああいう方だから表立って何も言わないけれど、あたしの気にし過ぎだろうか、と。  だからこの前、困っていることはないかと訊いたのに。彼女は何も言わなかった。俺に遠慮しているのか、それともエルヴィンに纏わりつかれることを喜んで受け入れているのか……。  一度気になり始めると、もうどす黒い感情が胸に溜まっていくのを抑えることができない。自分でもおかしいとは思う。そんな時に今日たまたま屋敷の前を通りかかると、エルヴィンが裏庭に向かって行くのを見つけた。その瞬間、嫌な予感がして追いかけた。  予感は的中した。ローレンスが裏庭に辿り着くと、まさに二人が口づけを交わそうとしている瞬間だった。瞬時に全身の血が逆流した。  何も言わないエルヴィンに余計に腹が立った。お前には期待していたのに。エルヴィンにだけではない。リリアーヌにもだ。信じていたのに。貴女は昼間から屋外で堂々と男に抱き締められて口づけを交わすような女性だったのか。  しかも彼女はエルヴィンを庇って俺に意見までしてきた。そういうことか。良く分かった。それなら、こちらにも考えがある。  少し前に流し込んだウイスキーが効き始めていた。頭の一部分は霞がかかっているようなのに、別のどこかには恐ろしいほど冷静な自分がいる。  ローレンスは廊下に出た。ゆっくりと屋敷の端に向かう。灯りの消えた廊下は冷え切っている。窓の外が時折光るのは稲妻だろうか。 (俺はどこに行こうとしている……馬鹿なことは止めろ……いや違う、話をしに行くだけだ。申し開きがあるなら聞いてやる……それだけだ)  リリアーヌが使っている客室の扉が見えた時、ローレンスは最後の賭けをした。  彼女がもう眠っていたら、話は明日にしよう。部屋の灯りが消えていたら、俺はまだ引き返せる。  ……だが、扉の隙間からは微かに光が漏れていた。  ゆっくりと扉をノックする。出ないでくれ、応えないでくれとどこかで願いながら。  ほんの少しだけ扉が開いた。  白い麻の夜着の肩にショールをかけたリリアーヌが立っている。だがその表情は硬い。見上げる瞳にはいつものような穏やかさはなく、どこまでも冷たい。 「……御用でしょうか」  仕方なく声をかけても返答はない。  室内履きの中の素足が冷たくなってきた。リリアーヌは溜息を吐くと扉を閉めようとした。 「御用でないのなら失礼しま……!」  言葉の最後は声にならない叫びになった。不意にローレンスの手がリリアーヌの手首を掴んだのだ。  咄嗟に振りほどこうとしたが女の力ではどうすることもできず、いとも容易くローレンスは扉の隙間から客室に体を滑り込ませるとそのまま後ろ手に扉を閉めた。 「ローレンス……様?」  身体をよじって逃れようとした弾みでショールが床に滑り落ちた。薄い夜着から露わになった肩の細さと胸元の白さが目に入った瞬間、ローレンスの最後の理性の糸がぷつんと切れた。 「お離し下さい、ローレンス様……お願いですから……離し……嫌……離して……嫌っ!」  リリアーヌの顔が恐怖で蒼白になり、拒絶の言葉が叫びになる。その叫びは雷鳴にかき消された。  片手を掴まれたままもう一方の手で何とか距離を取ろうとするリリアーヌを抱え上げるようにしてローレンスは部屋の奥へ歩を進めた。中央にある寝台の足にリリアーヌが躓いて、そのまま倒れ込んだ。  なおも後ずさりして逃げようと試みるリリアーヌの背中が寝台のヘッドボードにぶつかり、動きが止まる。少しでも身を守ろうと胸の前で両手を重ねてはみたが、ローレンスの大きな片手に捕らえられて身体から引き剝がされ、そのまま頭の上に持ち上げられた。いつの間にか両膝もローレンスの腰で押さえつけられて夜着が腿のあたりまで捲れ上がっている。リリアーヌは自分がもう身動き一つ取れなくなってしまったことに気づいて目の前が真っ暗になった。 「お止め下さい、ローレンス様……いけません……嫌……離して……助けて誰か……!」  助けを呼んでも無駄なことは分かっている。それでも叫ばずにはいられない。薄闇の中、炎を小さくしたまま点けていたランプの明かりに照らされたローレンスの姿は、まさに悪魔のようだった。  初めて見た時と同じ、ただただ恐ろしい……。  大きな手がゆっくりとリリアーヌの夜着の胸元を掴むと一気に引き下げた。 「きゃあっ!」  悲鳴が部屋中に響き渡って、リリアーヌの上半身が露わになった。その二つの膨らみは意外なほど豊かで丸みを帯び、真っ白な肌の中にバラ色の頂きが微かに震えている。ローレンスの指が頂きに伸びた。 「嫌……いや……っ……ローレンス様……お願いですから……」  羞恥と恐怖がリリアーヌの五感を研ぎ澄まし、ローレンスの燃えるような視線に全身が灼かれるのを感じる。 (嫌よ……こんなの……どうしてなの……なぜこんなことになってしまったの……全部……わたくしが悪いの……?) 「っ……!」  ローレンスは頂きに唇を当てると軽く歯を立てた。自分の中の獣がもっと、もっとと牙を剥くのをもう抑えられない。腕の中でもがくリリアーヌの全てが欲望となって身体を熱くする。自由な片手を下に伸ばして、捲れた夜着の裾から下履きに触れた。  リリアーヌの表情に更なる絶望が浮かぶ。  細い腰を掴んで引き寄せると、その奥……秘められた奥深くにローレンスが……。 「いやああああ!」  リリアーヌの全身が強張った。 「止め……て……っ……痛……痛い……ああ……っ!」  堪え切れない悲鳴が唇から漏れる。目尻に涙が伝う。痛い。お願い、それ以上来ないで……いた……い……  どれぐらい時が経っただろうか。ふとローレンスが動きを止めた。 (痛い……?)  さっきから、どこか違和感は感じていた。この感じ……この何かひっかかるような、押し戻されるような感覚……そう、まるで……。  まさかと思いながら視線を落としたローレンスの目に、信じられないものが飛び込んで来た。  白いシーツに点々と落ちる、鮮やかな赤い血……。 (嘘だ……!)  恐る恐るリリアーヌの表情を窺って、ローレンスは全てを悟った。跳ねるように身体を離す。  一気に全身が冷たくなり、頭が冴えた。 (俺は一体何を……)  そのままローレンスはよろよろと後ろに下がり、ふらつきながら客室を出ていくことしかできなかった。  ……雷鳴轟く中、逃げ出すことしか。  足音が遠ざかってからしばらくして、リリアーヌはようやく起き上がった。  全身がきしむように痛くて動けない。だが、無理やり立ち上がると足を引きずりながら浴室へ向かった。  今はとにかく身体を洗いたかった。今夜起きたことの全てを今すぐ洗い流したい。  ボイラーの火を消してしまっていたので、もう湯は出ない。バスタブの残り湯は冷え切っている。  だが構わず手で掬って全身にかけた。何度も何度も、何かに取り付かれたように。  不意に足の力が抜けてバスタブに座り込んだ時、透明な水の中に一筋の赤い血が漂っていることに気づくと、ついにリリアーヌの瞳から大粒の涙が溢れた。 (知られたくはなかった……ローレンス様にだけは……)  冬の嵐は一晩中、止みそうになかった。
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