36.どれほど血を流しても

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36.どれほど血を流しても

 成長するにつれ、次期国王としてのレオと平民として家業を継ぐであろうローレンスの立場の違いから、二人が顔を合わせる時間は減っていった。  やがて13歳になったレオは王位継承者の当然の責務として士官学校に入学する。 「僕は軍人になどなりたくなかったけれど、立場上、仕方ないよね。何か事が起きれば国王は最高司令官として軍を率いて前線に立たねばならないのだから。でも士官学校に入れることは嬉しかった」  レオはさばさばした表情で言った。  というのも、王家に産まれた男子にとって士官学校での学生時代というのは人生で最初で最後の自由な時間だからだ。 「士官学校は優秀な軍人を育てる機関だから、出自はあまり関係ない。……まあ、まるっきり無関係ではないけれど、少なくとも成績が優秀であれば下級貴族でも平民でも入学できるし、王太子であっても寄宿舎で共同生活をする。僕には何もかもが新鮮だった」  それまで王宮の奥深くで着飾った女官に囲まれて窮屈な生活を送っていたレオにとっては、見るもの聞くもの全てが驚きと感動の連続だった。  入学当初こそ()()()に恐れをなして遠巻きに眺めていた同級生たちがいつしか自分のことをレオと呼び捨てにし、肩を抱いて話しかけてくる。  教練に身が入っていなければ容赦なく教官からの叱責が飛んでくる。学科は辛いが、放課後になると同級生と連れ立ってお忍びで市場に出かけ、焼き立てのパンを買い食いし、時には酒を飲んでみたり、花売り娘をからかったり…… 「もちろん僕の行動の全ては父にも報告されるんだけど、多少羽目を外しても士官学校にいる間だけはかなり大目に見てもらえる。皆分かっているからね、この数年間が過ぎたらもう二度と年相応の青春時代を謳歌することはできないってことを」  初めて経験する自由な世界に、レオは舞い上がった。 「本当はそこで、周りの人間のとてつもない努力と犠牲の上に僕の自由な時間が成り立っているのだということに気がつかなければならなかったんだけど……僕は愚かだった」  次第にレオは自分の周囲の貴族の子息や護衛の存在を疎ましく思うようになっていった。  そして二年生に進級する頃、ローレンスが入学してくることを知った。暫く会っていなかった弟分との再会に、レオは胸を躍らせた。だが翌年の春に再会したローレンスはいつも人目につかないよう俯きがちで、レオを明らかに避けていた。  士官学校では上級生と下級生の区別がはっきりしているからきっと話しかけづらいんだろう、レオはそれぐらいにしか考えていなかった。 「僕は本当に愚かで子供だった。与えられた仮初(かりそ)めの自由に調子に乗って、それが全て自分の力だけで手に入れたものだと錯覚してしまった。そのせいで、僕は、取り返しのつかない過ちを……」 「陛下!お止め下さい」  レオの声が震え、ローレンスが短く鋭い声で制す。 「……取り乱してすまない。リリアーヌ嬢、ローレンスの……顔の傷について、何か知っていることはあるかい?」  呼吸を整えて落ち着きを取り戻したレオに質問されたリリアーヌは黙って首を横に振ることしかできなかった。 「僕のせいなんだよ」 「陛下、それは違います」  士官学校では毎年夏になると、開校記念日を迎える。この日は学校が開放され、父兄や関係者を招いて様々な催しが開かれる。  二年生のレオはその日壇上でスピーチをする予定だった。  自由とはいえ、レオは紛れもない王位継承者だ。故に常に数人の護衛が目立たぬように彼の周りを固めている。  幼い頃から両親によって友人として与えられた貴族の子弟も、実は何かあった時にその身をもって彼を守るための()なのだ。  だが束の間の自由に酔いしれていたレオは、そうした護衛を要らない、と突っぱねたのだった。スピーチの壇上に登るのは自分一人でいい、と。  時間になり、意気揚々とレオが壇上に向かった、その瞬間。  一人の男がナイフを手に、レオに切りかかってきた。ほんの一瞬の隙をついての凶行だった。  しまった……‼  殺される……!と気が動転したレオが両手でわが身をかばって座り込もうとした時、彼は誰かに思い切り突き飛ばされて舞台の袖に吹っ飛ばされた。気が付くと護衛達が一斉に一人の男を取り押さえて床に捩じ伏せていた。 「王太子様‼」  蜂の巣をつついたような騒ぎの中ふとレオが気づくと、床に血が点々と落ちている。  恐る恐る顔を上げたレオが見たのは、左の頬を大きく切られ、血まみれになって倒れているローレンスだった。 「ローレンス!ローレンス!」  恐怖と動揺で腰が抜けたようになってしまったレオは、這うようにしてローレンスに近寄った。抱え起こすと、ローレンスはうっすらと目を開けて言った。 「お許し下さい……王太子様を……突き飛ばしました……」 「何を言うんだローレンス!ああ、なんということだ……しっかりしてくれローレンス!ローレンス!……う……わあぁぁぁ……」  ローレンスを抱き締めてわんわん泣き出してしまったレオの元に護衛が駆け寄り、二人を引き剥がす。 「王太子様、お怪我は?お怪我はございませんか?」 「王太子様、早くこちらへ!」  レオはローレンスに手を伸ばしたが、数人の護衛に取り囲まれ動きを封じられた。レオにできることは叫ぶことだけだった。 「僕は、僕のことはどうでもいい!ローレンスを助けてやってくれ!何をしている!早くしろ!……ローレンス!ローレンス!放せええ!僕はローレンスを……!」  だが、その場の全員がレオの無事を確保することだけに必死で、床に転がっているローレンスに気を留める者は一人もいなかった。 「その暴漢の正体は何者だったのですか?」  あまりにも生々しいレオの語りに、リリアーヌは却って冷静になっていた。 「それ自体は、よくいる反体制派だよ。士官学校の開放日を狙って僕を襲った。でも本当に殺すつもりだったのかどうかまでは分からない。ただ顔に傷を負わせるだけでも王室のイメージを落とすには効果的だからね」  王族も貴族も平民も共に学ぶという士官学校の方針を逆手に取った犯行だった。 「僕があの時……自分の立場をもっと深く理解して……皆が僕のために最善を尽くしていてくれるからこそ自由な学生生活が成り立っていることにもっと早く気づいていたら……」  レオは項垂(うなだ)れた。 「自分が大した人間になったつもりで、意気って護衛など要らないと生意気なことを言って……その結果がどうなるか、考えもせず……全て、僕の責任だ」  ローレンスの血で真っ赤に染まった制服姿のまま王宮に連れ戻されたレオは、護衛達が全員牢に繋がれていることを知って初めて、自分の軽はずみな行動がどういう結果を招くのか思い知ったという。  王太子の命を危険に晒したのだから当然、全員処刑は免れなかったが、レオは父王の前で床に頭を擦りつけて彼らの助命を懇願した。  食事も取らず、眠りもせず、ひたすら父王の部屋の前で待ち続け、反省と自責の言葉を述べる息子の姿に遂に父王も折れて、護衛全員が処刑だけは免れることになった。  諸々の処理がようやく終わりかけた頃、レオはローレンスがどうしているか側近に尋ねたが、誰一人レオが望む答えを与えてはくれなかった。  ローレンスの父フィッツジェラルドが、一切そのことを口にしないのだという。 「僕が得られるだけの断片的な情報を必死にかき集めて、どうやら王立病院で療養しているらしいというところまでは突き止めた。それである日、何とか口実を作って、こっそり様子を見に行った」  会える確証はなかったが、レオは中庭の木陰で様子を窺っていた。すると、少し離れたところにあるベンチに少年が座っていた。 (ローレンスだ……!)  だがベンチに近づこうとした時、レオはローレンスの表情に気づき、凍り付いたようにその場から動けなくなった。 「ローレンスは顔の左半分を包帯でぐるぐる巻きにされて、傷が痛むのか、時折顔を歪めていた。でも、僕が一番衝撃だったのは、ローレンスの(うつ)ろな目だった。彼の目からは一切の感情が失われてしまっていた。怒りすら捨ててしまったような、ただただ悲しみと絶望しかなかった」  その姿を見て、レオは悟ったのだという。  もう、あの頃には戻れない…… 「それでも、僕はまだほんの少し期待していた。夏休みが終わったら、傷の癒えたローレンスはきっと学校に戻って来てくれると。そしたら、誠心誠意を込めて謝ろうと思っていた。大丈夫、ローレンスならきっと許してくれる、とね」  だが、レオの最後の望みは打ち砕かれた。夏休みが終わってもローレンスは士官学校に戻って来なかった。やがて彼が退学したという短い通知が掲示板に貼り出され、それで終わった。 「僕はあの時ほど、自分の身分を憎いと思ったことはなかったよ。彼が助けてくれなければ、今頃あの傷を負っていたのは僕なのに、なぜこんな形で僕の前から去っていかなければならないのかと」  そして打ちひしがれたレオは、父王から自分とローレンスが実の兄弟であることを聞かされたのだった。  父王はこう言った。  このままお前と一緒に士官学校に()()()()()()()()()()()()がいると、彼は嫌でも注目を浴びる。ただの平民の商人の息子が、どうしてあんな重傷を負ってまで王太子を庇ったのか、余計な詮索をする輩が必ず出てくる。世間というのはそういうものだ。あれは産まれる前から、表に出て来てはいけない存在なのだ。お前の命を救ってくれたことには感謝しているが、やはり士官学校になど通わせるべきではなかった。弟のことを本当に思うのなら、そっとしておいてやれ。 「士官学校を退学したのは、自分は軍人の才能がないと悟ったからですよ、陛下。それ以上でもそれ以下でもありません」  ローレンスの声は全くの普段通りだった。国王は溜息をついた。 「いつもこういう言い方をするんだよ、リリアーヌ嬢。その度に僕は却って傷つくんだけどね」 「陛下……」   「それっきり、僕はローレンスとは会わなかった。ようやく再会が叶ったのは五年後、父王が崩御して僕が即位した後だ。同じ頃フィッツジェラルドも亡くなり、後を継いだローレンスが挨拶に来た。でもローレンスは別人になっていた」  見上げるほどの長身に黒づくめの服で、視線は狼のように鋭く、口の端に残忍な笑みをたたえ、左の頬の大きな傷痕を隠そうともしない、冷酷な高利貸し…… 「随分な仰りようでございますなあ、陛下」 「だって、他に形容のしようがないじゃないか、なあ、リリアーヌ嬢?貴女も初めてこの男に会った時は震えあがっただろう?」 「はい、陛下。それはそれは恐ろしゅうございました」  リリアーヌが即答すると、王は声を上げて笑った。 「僕ももうその頃には彼の養父フィッツジェラルドがどうやって巨万の富を築いたのかは知っていたから、驚きはしなかった。生きてまた会えたということだけで十分だと思ったしね。そこで初めて兄と弟としてではなく、国王と臣下としてこれからのことを話し合った。ローレンスは王国と王室のために我が身を捨てて尽くすと言ってくれた。嬉しかったよ」 「臣下として当然のことです」  その言葉を聞いた国王は、意味ありげに頷くと言った。 「臣下、ね」
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