8.料理人アビゲイル

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8.料理人アビゲイル

 午前中はあっという間に過ぎた。気が付くと机の上の時計がもうすぐ正午を指そうとしている。  リリアーヌは作業の手を止めた。そう言えば、昼食はどうすれば良いのだろう。 (朝、ローレンス様に確認しておけば良かったわ)  昼食のことを考え出すと急にお腹が空いてきてしまったが、事務室の男達は皆勝手に席を立ってどこかへ行ってしまう。声をかけるのも躊躇して、リリアーヌは諦めることにした。 (お昼ぐらい食べなくても大丈夫よ)  そう気持ちを切り替えて作業を続けようと書類の山に目を戻した時、机の横にローレンスが立った。反射的に立ち上がりかけたリリアーヌをさりげなく手で制するといつも通りの低い声で話しかける。 「毎回立ち上がらなくていい。そんなことをしていたら仕事にならん。用があればこちらから出向くし、俺に話しかけるのにいちいち許可を取る必要もない。いいね?」 「かしこまりました。何かご用でしょうか?」  外の社会というのはそういうものなのかと感心しながら頷いたリリアーヌにローレンスが続けた。 「うちは従業員向けの食堂が地下にあって、皆そこで昼食を取っているから、貴女も使いなさい。ただ今の時間帯はむさ苦しい男ばかりだから落ち着かないだろう。だから皆が戻って来てから入れ違いに出るといい。料理人には一人分残しておくよう伝えておいた」  食堂まであるなんて。なんて先進的な場所なんだろう、ここは。リリアーヌは自分がいかに世間知らずで社会に無関心だったのか、このたった数時間でも痛感していた。 「ありがとうございます。遠慮なく使わせて頂きます」  小一時間経ち、男達が席に戻ってきた頃を見計らってリリアーヌはそっとローレンスだけに分かるように会釈すると静かに席を立った。裏の螺旋階段を降りて地下の扉を開けると、待ち兼ねていたようにキビキビした女性の声が聞こえてきた。 「いらっしゃい、待ってたのよ!さあ入って!」 「あ、あの」 「リリアーヌ、さん、で良いのかしら?あたしはアビゲイル。この食堂の料理人よ。こっちは亭主のジャンニ。よろしくね」  濡れた手をエプロンで拭いてぬっと突き出す。リリアーヌは少しその威勢に気圧されたが、自分もいつものお辞儀をする代わりにアビゲイルという女性の手をきゅっと握った。 「リリアーヌです。どうぞよろしく」  アビゲイルは朗らかに笑うとリリアーヌの肩を押してテーブルに座らせた 「お腹空いたでしょう。でも社長の言う通り時間をずらして来てもらって良かったわ。もーさっきまでむっさい男の集団相手に大変なことになっててね。あなたその場にいたらとても食事どころじゃなかった」 「おい、余計なこと喋ってないで早くこれ持ってけよ。冷めちまうじゃねえか」  話が終わりそうにないアビゲイルに厨房からジャンニが叫ぶ。今まで聞いたことのない庶民の夫婦の会話にリリアーヌがあっけに取られているとまたアビゲイルがカラカラと笑った。 「わーかってるわよ!……ごめんね、リリアーヌさん、ガラが悪くて。でもジャンニとあたしの料理は一級品よ。さ、どうぞ」  あっという間に湯気の立つ皿がリリアーヌの前に並んだ。 「今日は豆のスープと、蕪とチキンのクリーム煮。お口に合うといいんだけど。あ、あとこれはサービス。皆には内緒よ、社長にもね」  そう言って指さしたガラスの小皿には、シロップで甘く煮た干し杏が二切れほど乗っていた。 「まあ、美味しそう。頂きます」  リリアーヌはスプーンを取ってスープを一口味わった。アビゲイルの言葉に嘘はなかった。 「本当に美味しいわ。皆さん毎日こんな昼食を取っていらっしゃるのね」 「でしょう?社長は見る目があるのよ。あたしとジャンニはね、社長がここに事務所を構えて以来ずっと働かせてもらってるの。もう十年になるかしら」  アビゲイルが得意そうに胸を張る。 「でも驚いちゃったわ、突然社長に来週から女性に仕事を手伝ってもらうからって言われて、あの社長と渡り合えるなんてどんな人かと思ってたら、こんなに綺麗な若いお嬢さんなんだもの。社長の遠縁なんですって?」 「え、ええ……」  いきなり自分のことに話を振られてリリアーヌは返答に詰まってしまった。だがアビゲイルはあっけらかんと顔の前で手を振った。 「ああ、いいのいいの、答えたくないことは答えなくても。フィッツジェラルド商会はね、余分なことは訊かない話さないっていうのが基本だから、そこは無理に気を遣う必要はないのよ」 「余計なことばっかり言ってるのはお前だろーが!」  またしても厨房から怒号が飛んでくる。だがそこには悪意や嫌悪といったものは一切含まれていない。どこまでも明るく健全な夫婦の日常会話だ。今までなら完全に怯えきってしまっていたリリアーヌだが、この二人のやり取りはなんだかとても聞いていて楽しかった。 「ご馳走様でした。とっても美味しかったです。今度作り方を教えて下さい」  空になった皿を返しながら厨房に声をかけると、ジャンニが鳩が豆鉄砲を食ったような顔で言った。 「あんた、料理なさるのかい?」 「ええ、料理は大好きですわ」  リリアーヌがそう答えると、アビゲイルも信じられないといった表情になった。 「あなた凄いのね、リリアーヌさん。あたし、あなたのこと好きになれそうだわ」  わたくしもよ、と心の中で呟いて、リリアーヌは事務室へ戻った。  その日の夕方までリリアーヌは過去の帳簿に埋もれ、格闘した。  時計の針が五時を過ぎ、社員達が帰り支度を始めたので机の上を片付け、整理しきれなかった帳簿や資料はまとめて棚にしまう。ふと社長室のほうへ目をやると、ちょうどローレンスが出てくるところだった。 「馬車を回してくる。玄関で待っているように」  リリアーヌは頷き、コートを羽織ると事務室を出た。冷たい外気に触れるとどっと疲れが襲ってきた。  だがそれは心地よい疲労感だった。  目の前に馬車が止まり、開いたドアからローレンスが身を乗り出して手を差し伸べている。リリアーヌはごく自然にその手に助けられて座席に乗り込んだ。屋敷に戻るまでお互いにほとんど言葉を交わすことはなかったが、もうリリアーヌにはその沈黙さえもどこか楽しく思えるようになっていた。
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