9.疑念と固執、あるいは嫉妬*

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9.疑念と固執、あるいは嫉妬*

 王国の中でも北の地方に位置する王都の一年は冬が長い。あまり雪は降らないが、気温はかなり下がる。それに加えて鉛色の雲が低く垂れこめる空と吹き荒ぶ北風が人々を憂鬱にさせる。  ローレンスにちゃんとしたコートを買えと言われたことの意味が最近になってリリアーヌにも理解できた。今まではほとんど外出もせず、十二番街の屋敷にこもっていたので必要なかったのだ。もとより自分のコートなど買える余裕もなかったし。  今日もリリアーヌはローレンスと馬車に乗って商会へ向かっていた。もう一ヶ月以上、この生活が続いている。 「最近、伝票の書き間違いが減った。貴女が毎回丁寧に教えてくれているので助かっている」 「恐れ入ります」  棚の整理をしながらリリアーヌは間違ったまま処理されてしまった伝票を洗い出し、一つ一つ修正していった。その際に自分一人で処理して終わり、ではなく、必ず担当した従業員に同席してもらい、間違いを指摘すると同時に何をどう修正する必要があるのかまで丁寧に説明した。  古参の従業員には煙たがられることもあったが、若く経験の浅い者達からはとても感謝された。 「俺が若い頃は仕事は盗んで覚えるもので、万事試行錯誤しながらやるのが当たり前だと思っていたのだが、効率重視の最近ではそれだと一人前になるのに時間がかかり過ぎるのだな。貴女のやり方を見ていて気付かされた。これからは若い連中をもう少し丁寧に教育することも考えようと思っている」  往来の賑わいに目をやりながらさらりと言うローレンスにリリアーヌは驚きを隠せなかった。 「どうかしたか?」 「いえ、ローレンス様のような方がなどと仰るとは思わず……」 「?……おかしいか?良いものは積極的に取り入れたいと思っているだけだが」 「素晴らしいお考えだと思います」 「事業の発展に繋がるなら、それに越したことはない」  ローレンスはそう答えると、目線をリリアーヌのほうに向けてさりげなく尋ねた。 「何か困っていることはないか。皆、貴女に礼を欠いた振舞いをしてはいないだろうか」 「あ……いえ」  リリアーヌの言葉の歯切れが悪くなった。実は最近少し困っていることがあるが、伝えて良いものか迷っている。  フィッツジェラルド商会での仕事は思いの外楽しい。ローレンスに依頼された時には考えもつかなかったことだが、自分では取るに足らないものだと思っていた簿記の知識を生かせることに日々驚きと歓びを感じているのは確かだ。  食堂のジャンニとは新しい食材や調理法のあれこれを教えてもらえる仲になれたし、遅い昼休みにアビゲイルとあれこれ会話できるのもいい気分転換になる。この前は今度王都に新しくできたカフェに行こうと誘われるまでになった。  最初は挨拶することすら恐ろしかった従業員達とも今ではすっかり打ち解けて……そう、何も問題はないはずだった。  だが、ある一人の若い青年から寄せられる過度な親密さに最近のリリアーヌは悩まされていた。  麦わらのような髪に薄いブルーの目をしたエルヴィンという名のその青年は、リリアーヌが商会に出勤するたびにあれやこれやと理由をつけて話しかけてくる。最近はリリアーヌだけ遅めの昼食を取っていることに勘づいて、わざと自分も遅れて食堂にやって来てはリリアーヌを質問攻めにするのだ。従業員同士、余計なことは言わない訊かないという暗黙のルールなどどこ吹く風といった様子で。  社長の遠縁というのはどういう関係なのか、いつ王都に来たのか、王都に来る前はどこで何をしていたのか……。  いかにも人の良さそうなタレ目に満面の笑顔を浮かべて、リリアーヌと会話できるのが楽しくてたまらないといった表情だから、たぶんエルヴィン自身には悪意やよこしまな気持ちは全くないのだろう。子犬のようでどこか憎めないところはあるが、流石にリリアーヌも持て余し気味になっていた。  時々は返答に窮したリリアーヌに気づいたアビゲイルがエルヴィンのお尻を叩いて食堂から追い出してくれることもあったが、彼女も忙しいし、いい大人がそれぐらい上手くかわせないのも情けなくて、最近は彼の姿を見かけると思わず溜息が洩れてしまう。  しかも更に悩ましいことに、エルヴィンは若手の中の期待のホープなのだ。以前ローレンスがあいつは見込みがあると評していたのを聞いたことがある。  エルヴィンとローレンス様の関係が悪くなってしまったら……と思うと、簡単に困っていると言うこともできないのだった。 「何も問題ございません。皆さん良くして下さいます……」  そう答えるしかなかった。 (大丈夫、エルヴィンがどう思っていても、どうすることもできないわ。わたくしはオルフェウス伯爵家とマテオという足枷をはめられている。いよいよとなったら夫がいることだけでも打ち明ければ、きっと幻滅して離れていってくれるはず)  リリアーヌはそう考えて不安を心の底に閉じ込めようとした。  ……それが取り返しのつかない事件に繋がることにも気づかずに。  その日はローレンスだけが商会に出向き、リリアーヌは屋敷に残っていた。家事が少し溜まっていたので、日にちをずらしてもらったのだ。  というのも、今朝目覚めてみるとこの時期の王都には貴重な青空の広がる気持ちのいいお天気だったので、久しぶりに洗濯をしたかったのだ。今日を逃すと、次はいつ晴れるか分からない。そう熱心に言うリリアーヌにローレンスはいつもの唇の端だけ少し上げる微笑みを返しながら快く頼みをきいてくれた。 (ふう、あらかた片付いたわね)  切るように冷たい空気の中、裏庭の陽射しにはためくシーツを見上げながらリリアーヌは充足感に浸った。商会の仕事も楽しいが、やはり自分のペースで気が済むまでできる家事も楽しい。  その時背後から声がした。振り向くとそこにエルヴィンが立っている。反射的にリリアーヌは一歩後ずさった。 「……エルヴィン、こんな所で何をなさってるの?」  動揺を気取られまいと精一杯平静を装って尋ねたリリアーヌに一歩近づいてエルヴィンが言った。 「きょ、今日、事務所に来る日だと聞いていたのに姿が見えなかったから、体調でも悪いのかとし、心配になって……」  リリアーヌは直感した。今日のエルヴィンはどこかおかしい。このまま裏庭に二人きりでいるのは危険だ。 (どうしよう……お屋敷にはアランさんがいらっしゃるけど、ここから大声を出しても聞こえないし、大事(おおごと)になったらエルヴィンが商会にいられなくなってしまうわ……なんとかこの場を切り抜けなければ……)  動揺に気づかれないよう、無理やり明るい声で答える。 「あら、今日は珍しくお天気がいいから、お洗濯をしたかったの。だからローレンス様に無理を言って日にちを変えて頂いたのよ。明日は事務所に行くわ。何か急ぎの処理でもあったかしら?」  貴方と二人きりで閉じられた裏庭にいることなど大したことでもないといった様子を装いながら、どこか逃げ道はないかと視線を巡らせる。だが屋敷に続く小道の真ん中にエルヴィンが立っていて、リリアーヌの背後は高いフェンスだ。  エルヴィンがじりっ、じりっと間を詰めてきて、リリアーヌの手を握る。反射的に振りほどいて逃げようとしたが体勢を崩してよろける。一瞬の隙を突かれたリリアーヌはエルヴィンにがっちりと背後から抱き締められてしまった。 「は……離して……嫌よエルヴィン……!」 「好きなんだ」  そう耳元で囁かれてリリアーヌは固まった。エルヴィンの熱を帯びた息が首筋にかかる。 「な……にを言っているの?冗談は止して、その手を離して頂戴」 「冗談なんかじゃない。貴女のことが好きだ」  肩を掴む二本の腕を振りほどこうと必死でもがくが、少年のころから荷役運びで鍛えてきた青年の力にはなす術もない。 (どうしたらいいの……助けて……誰か……)  エルヴィンの右手がリリアーヌの顎を掴んで自分のほうに向かせる。必死で頭を振って拒否しようとするリリアーヌの唇をエルヴィンが奪おうとしたその時。  長い腕と大きな手がエルヴィンの襟首を掴んでリリアーヌから引き剥がし、彼はそのまま庭の端の茂みに倒れ込んだ。思わず咳き込んでその場にしゃがみ込んだリリアーヌが荒い息をさせながら振り向くと、そこには恐ろしい形相のローレンスが立っていた。 「ローレンス……様……」 「立て、エルヴィン」  ようやく事の重大さに気づいたのか、エルヴィンは項垂れて座り込んだままだ。 「立てと言っただろう。聞こえないのか、エルヴィン」 「しゃ、ちょ……ど……して……」  さらに怒気を含んだローレンスの声が畳みかける。 「商工会の帰りに通りかかったらお前がうちの敷地に入っていくのを見かけた。お前がこの人の姿ばかり追っかけていることに俺が気づかないとでも思ってたのか?何とか言ってみろ、エルヴィン」 「……」 「答えられないのか」 「……」  ローレンスの額に血管が浮き上がり、両手は固く拳を握りしめている。いけない、このままでは。 「立て、エルヴィン!」 「止めて!」  振りかぶったローレンスの拳がエルヴィンに殴りかかろうとした瞬間、二人の間にリリアーヌが割って入った。エルヴィンを庇うように背にして跪き、ローレンスに懇願する。 「お止め下さい、ローレンス様。お願いです」 「……貴女も同じ気持ちなのか?」 「……はい?」 「貴女もこいつを想っているのか?だから庇うのか?」 (何を言っているの……?)  リリアーヌは力の限り首を横に振った。 「違います!それは誤解です!信じて下さい、わたくしとエルヴィンとの間には誓ってそのようなことはありません!」 「だったらなぜ俺を止める?」  ローレンスの怒りが強まるにつれ、ますます声は低く、瞳の底が暗くなっていくのがわかる。リリアーヌはありったけの勇気を振り絞って叫んだ。 「怒りにまかせてご自分を見失ってはいけません!ローレンス様のようなお立場の方が、そのようなことをなさってはいけません!違いますか⁉」  二人の視線がぶつかり合う。その時のローレンスの瞳に浮かんでいたのが怒りでも憎しみでもなく、悲しみだったことをリリアーヌは決して忘れないだろう。 「……部屋に戻りなさい」  ゆっくりと拳を下ろしながら、ぞっとするほど冷たい声が裏庭に響く。 「でも、ローレンス様……」 「聞こえなかったのか?部屋に戻れ」  一切の返答を許さない口調に、リリアーヌはよろよろと立ち上がって歩き出した。  だがローレンスの横を通り過ぎる瞬間立ち止まり、その顔をキッと睨んだ。  リリアーヌは今までの二十年余りの人生で最大の怒りを感じていたのだ。
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