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ある日、兄はドーナツになった。
身体の真ん中、胸の下からおへその上くらいのところに、ぽっかりと穴が空いた。
「穴埋めは、どうする気だろうね」
「え?」
聞き返すと、兄が顎でテレビを指す。
今日の特ダネと称して取り上げられていたのは、たくさんのフラッシュを浴びながら、深々とお辞儀をしている三人のおじさん達の姿だった。
「この人達、ドーナツの穴をくり抜いてたんだって」
「ドーナツの穴?」
「そう、完璧なドーナツを作る為に、機械で真ん中のところを綺麗にくり抜いて、くり抜いた生地は廃棄してたんだってさ」
そうなんだ、と相槌を打ちながら、横目で画面を観た。
カメラが、真ん中で一番深くお辞儀をしたおじさんの頭のてっぺんにジリジリと寄ってきて、モジャモジャの髪からツルッと覗いた地肌が画面いっぱいに映り込む。
カメラマンが何故そんなところに注目したのか、私には分からない。
早朝からこの映像を観せられている人達は、いったいどこが、どのように美しい、と感じれば良いのだろうか。
兄が、箸の先で割れた目玉焼きの黄身をかき混ぜていたから、私はジャムの瓶を取るついでに、リモコンに手を伸ばした。
チャンネルを変えた先では、ジャイアントパンダがタイヤと戯れあっている。
「俺の穴って、このパンダも通り抜けられるかな?」
兄に聞かれて、私はゆったりとしたTシャツの下に隠されている兄に空いた穴の大きさを頭の中で思い返した。
「パンダは無理だと思う。猫くらいなら大丈夫そうだけど」
「猫かぁ。そういえば、うちのシロはどこ行った?」
シロ、しぃちゃん、と兄が廊下に向かって呼びかける。
そんな風に呼んでも、シロはもう姿を現さない。知っているのに、私は焦げついたトーストをかじり続ける。
いつも兄の後ろにくっ付いて、ニャーニャーと甘えていたシロは、穴の空いた兄に撫でられて叫び声を上げたきり、父と母の寝室のベッドの下に潜り込んで出てこなくなった。
私だって、シロのように兄から隠れてしまいたい。だけど、偲は何もなかった時のようにお兄ちゃんと一緒に居なさい、と父と母が言うから、今日もこうして、二人で朝食を食べている。
自分たちは、今は仕事が大事な時期だから、なんて言い訳をしてわざと兄に会わないように家を早く出るのに。
子どもには難しいから分からないかも知れないけれど、そういう人でも普通に接してくれる人が必要なのよ、と二人は家を出る前に、私に言い聞かせる。
「やっぱり、この穴って目立つよなぁ」
「そんなことないよ」
「穴も空いた事だし、イメチェンでもしようと思うんだよね。こないだ偲が着てたシースルーっていうの?俺も案外と似合うと思うんだけど」
「透けるから、穴が見えちゃうと思うよ」
「あっ、そっか。じゃあ俺、一生シースルー着れないってこと?」
おそろいに出来ないね、と続けた兄がケタケタと笑う。
私の服を買いに付き合っても、五分も経たないうちに消えてしまって本屋で参考書を立ち読みしていたのに、そんなことを言い出すのは、やっぱり穴のせいなのだろうか。
「シースルーが着たいなら、穴を埋めなきゃ」
言うと、兄が首を傾げる。
「埋めるなら、林檎とか?」
「林檎じゃ埋まらないよ。もっと大きくなきゃ」
「じゃあ、メロン?」
「確かにメロンくらいかも知れないけど、お母さん買ってきてくれるかな。メロン高いし」
「そうだなぁ。じゃあ、バスケットボールでいっか。おんなじ大きさくらいでしょ」
ボールなら私のを使っていいよ、そう答えるとシロを撫でる時のように、兄がぽんぽんと頭を触ってきた。
「偲は、本当に優しいね」
笑いながら席を立った兄が、キッチンでお湯を沸かし始める。
「ねぇ、お兄ちゃんはあの人たち、どうなると思う?」
「あの人たち?」
「ほら、あのドーナツの人たち」
少し前に買い換えたばかりの電気ケルトは優秀だから、すぐにお湯が沸く。ゴボゴボゴボ、という音は、あの事を恐る恐る聞いた私の声よりも、たぶん大きい。
「ああ、さっきの。どうだろうね」
曖昧な兄の言葉に喉が詰まりそうになって、私は青白い顔になる。
そんな私に気がついていないのか、兄はお湯が沸くまでの間、いつの間にか始まっていた朝の体操番組の掛け声に合わせて、深呼吸を始める。
大きく吸ってー、すぅー。長く吐いて、ふぅー。これで、今日も元気に過ごせますからね。
お決まりの台詞を話すのは、ピチピチのタイツのような衣装着て、浅黒い顔をした健康そうなお兄さんだ。目を閉じて集中するお兄さんのお腹や鼻の穴が、丸く膨らむ。
それを真似する兄は、貧血のせいで唇は紫色をしているし、寝不足だから目の下にクマも出来ている。身体に穴だって空いているのに、たっぷりと息を吸って、長く息を吐いて、それで、本当に今日も元気に過ごせるのだろうか。
私はきっと、可笑しなくらいあの穴の事を心配している。
兄に穴が空いた日、私は部活の合宿に向かうため、いつもより早く家を出なくてはいけなかった。朝食はバスで食べるつもりだったから、おにぎりを保冷バックに入れて、ジャージの上着は、前の晩に降った雨のせいで急に涼しくなったから、着ていくか、荷物になるから置いていくか、そんな事を考えていた。
「みんなが持っていくようだったら持っていけば良いし、いらなかったら車に置いていけばいいんじゃない?」
玄関で迷ってた私に兄が声を掛けて、ジーンズのポケットから車のキーを出す。
「集合、駅なんでしょ?送ってくよ」
「え?……うん、ありがとう」
一瞬、集合場所まで送ってもらう約束などしていなかったのに何故だろう、と思った。だけど、一泊二日の荷物を詰め込んだボストンバックや二リットルの水筒、自分のボールまでも抱えて、駅まで歩くのはしんどいと思っていたから、優しい兄がいてくれてラッキーだ、と私は素直に喜んだ。
「ジャージ、やっぱり誰も持ってきてなさそうだね」
駅のロータリーに車を停めて、兄が言う。
「ね、やっぱり置いていくことにする」
私がジャージを後部座席に放り投げようとすると、兄が私の手首を掴んで、それを止めた。
「ねぇ、寒かったら偲のジャージ借りても良い?俺、上着持ってくるの忘れちゃってさ」
「え?別にいいけど……」
こんなダサいジャージでいいのとか、これからお兄ちゃんも何処かに行くのとか、そういう事を聞き損ねたのは、合宿に向かうバスの窓から、幼なじみの優斗がこちらに手を振っていたからだ。
「さっ、早く隣に座ってあげな」
じゃあね、と兄が続けて、私も兄にじゃあね、と返した。
それからの事は、あっという間過ぎて、あまり覚えていない。
スリーポイントシュートの練習をしていた時、三度目のシュートでようやくボールがゴールを通り抜けて、それを見ていたコーチに、すぐに帰りなさい、と言われた。
どうしてですか、と尋ねた私の肩をコーチが両手で掴んで、真っ直ぐな目をした。
「偲のお兄さん、さっきダムに落ちて病院に運ばれたらしい。優斗のお母さんが車で送ってくれるから、すぐ行きなさい」
色々な事を聞かなければいけないはずだったのに、私は喉が乾いていて、唇すら動かせなかった。そんな私の代わりにか、コーチが、大丈夫だからな、と呪文のように何度も呟いて、車の前で待っていた優斗のお母さんが、私の背中を摩った。
それから二日後、病院のベッドに目が覚めた兄と再会すると、兄の真ん中に、あの穴がぽっかりと空いていた。
ぽっかりと穴の空いた兄を見て、そういういえば、教員免許の試験の結果はどうなったのだろう、と私は思った。
兄がテスト前日まで徹夜して臨んだ結果が発表される日は、ちょうど、兄がダムから落ちた日で、その結果を私は未だに、兄の口から聞いてはいない。
「ミルクと砂糖入れる?」
兄に聞かれて、どっちもいらない、と答える。
朝食の残りが片付いていない食卓の上に、兄が飲むブラックコーヒーと、私のアールグレイが窮屈そうに収まる。
「ねぇ、お兄ちゃんはあの日、ダムに落ちたんだよね」
「そうだよ。アヒルでも泳いでるかなぁなんて思って、ちょっと覗き込んだ時、手すりから手が滑って落ちたんだ」
はにかんだ口元が、真っ黒なコーヒーを啜る。
全て兄の言葉である筈なのに、その一言も信じる事が出来ない。
〝落ちた〟という言葉を、私は素直に飲み込む事が出来ない。
「それで、偲は他に何を話したいの?」
兄が私を見つめてくるから、私も兄を真っ直ぐに見つめる。
そうすると、お互いがお互いの真っ黒な瞳孔に閉じ込められて、二人で一緒に深い穴の中に飛び込んだみたいな気持ちになる。
「ずっと黙ってたんだけど、私もお兄ちゃんと同じように穴が空いたの」
「そう、どこに?」
「そこらじゅう。脳天も喉も心臓も、手も足にも身体の全 部に数えきれないほど。だから私は……」
もう生きていけない、という言葉をつぐんだのは、向き合っていた兄が、不意にベランダへと向かったからだった。
また、兄が落ちてしまう。今度は、穴が空くだけじゃ済まないかも知れない。
そう思うから、私にもまた、新しい穴が空く。
私に空く穴は、兄の穴のようにあからさまに見えるわけではないけれど、そこから、不安とか恐怖とか絶望とか。たくさんの悪いドロドロとしたものが、流れ出して止まらなくなる。
だから、私は穴を埋めなくてはいけない。
「あ、そうか。シロを連れて来なくちゃ。シロの抜け毛を集めて丸めたら、それでお兄ちゃんの穴も、私の穴も埋められるかも知れないし」
シロを捕まえに行こうと席を立った私に、ベランダに出た兄が振り返る。
「今日は、いい天気だなぁ。偲はそう思わない?」
兄が言うから、シロのことは諦めて、私もベランダへと出る。
透き通った空は、どの建物よりもずっと高く見えて、すっかり秋めいた涼しげな風が、ふっと、兄に空いた穴を吹き抜けていく。
「平気だよ。穴くらい空いてても、どうにかやっていけるさ」
私の隣で、兄が笑った。
だから、きっと私の穴にも、いつか風が吹き抜けていく日が来るのだろう。
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