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「世界規模異常、地球外知性生体、残留根拠友好証明、来訪告知、高精度技術譲渡故、人間応答否移行惑星侵略、補給和解交渉友和推奨、興味目的作為本質真実遠化乖離、思込愚発想温度差考慮、不可解現象異形跋扈又理不尽殲滅人類、人類不要生物誤認知、否、否、否……」
「……はぁ」
この人までも、と私は肩を落とす。
動画配信サイトで活動していた、私の好きな映画監督がまた一人、おかしくなってしまった。日本語ではない、中国語でもない、異次元言語での配信は視聴する気が起きない。解読班が必要だ。
こうした現象は、しかし最近では珍しくもない。私の知る人物達だけに限ったことではないし、動画サイトだけで蔓延している症状でもない。リアルの大学の教授や、同期の皆、高校からの知人友人、日本社会全体が、外国に住む人々も人種年齢を問わず、世界の仕組みに至るまでが、日に日におかしくなっていく。既存の仕組みが崩れていく。それも加速度的に、音を立てて、吹き迫るが如く猛烈に。
学会発表に合わせた出張、その移動に起因する国内便への搭乗を目的に、私は朝から、空港へとやって来た。長めの待機時間を受付のスタッフさんから告げられたので、丁度良い、と贔屓にしている映画監督の『作品に関する解説と語りの動画』を観ようとしたら、この有り様である。
気分が深く落ち込む。やるせない。気力をごっそりと削がれてしまった。また一つ趣味が減ってしまったことが何よりも哀しい。
私は、学問を学ぶこと、読書や語学を頭にインプットすることが好きだ。けれど、それは半分くらい仕事での需要が動機でもあり、それ自体が丸ごと私の趣味、それだけあれば生きていける、というほど人生を占めているわけではない。もしそうなってしまったら、私は仕事人間になる。人間の形をしているだけの働く歯車に成り下がる。そんな生き方は嫌だ。ただでさえ人間が人間らしく理性的に、自由と幸福を両立して暮らすことが困難な世界に陥ってしまっているのだから、せめて、せめて趣味くらいは、と求めてしまうのは道理というもの。
役目を失った有線イヤフォンを耳から外す。どうして未だ有線イヤフォンを使っているのかといえば、無線イヤフォンは使用しているうちに、気づけば耳から離れ、ふわふわと浮いて、どこかへ行ってしまうからだ。以前使用していた物などは特に、値段が高めで使い勝手も良かっただけに、無くしてしまったことがショックで、非常に惜しい思いをした。
スマートフォンの操作を止め、画面から目を上げると、待機フロアの並列座席に、私を含めた人々が交互に腰かけている。綺麗な等間隔。空港内のスタッフから、そうしろと指示がなされたわけでもないのに、どうしてだか、こうなってしまっている。昨今ではよくある現象だ。これくらいなら可愛いもの。変哲もない不思議。世の中の大半の者達は、この程度ではもう不思議とすら思わないだろう。
例えば、あれだ。
私のいる席からは、旅客機の離着陸用滑走路がよく見える。その滑走路の端には現在、バラバラに分解された航空機がパーツごとに分けられ積まれている。一部にはブルーシートがかけられ固定され、比較的小型の部品はフォークリフトのような搬送機で格納庫へと運ぶ作業が続けられている。先程、搭乗手続きをした際、気になって受付の男性スタッフさんに聞いてみたところ、今日の明け方、気づくと第一滑走路にあの状態で展開されていた、大慌てで作業スタッフが回収し、ひとまず滑走路端へまとめて移動させたところなのだ、と教えてくれた。空港の安全管理と運営に関わる危機的状況だったようだ。
聞けば素直に情報を与えてくれるのだなと、いくらこちらが空港利用客であるからといって、ここまで正直に答えても良いものだろうかと、質問しておきながら失礼な疑問を抱いた。けれど、この疑問はすぐに解消される。受付スタッフさんは私との会話を、日本語と英語を十単語毎に切り替えながら行っていたのだ。
ああ、この人もなのか、と私は遅ればせながら察し、そのままこちらも日本語と英語でやり取りをして、最後に英語でお礼を述べてから受付カウンタを離れ、現在に至る。
溜息をつき、視線を閑散とした待機フロア内へと向ける。
世界は、悪い方へと変わってしまった。
正常性を失い、均衡は崩れ去り、人口も減少し、暴力と狂気が、平静を侵食する。
いつからだったろう?
変わり始め、また失い始めてしまったのは。
私の頭がまだ正常で、記憶と計算が正しいなら、片鱗は四年ほど前からあった。
明確な実害が報告され、その被害規模が拡大していったのは、二年ほど前から。
始まりは、電子機器の異常、誤作動、そうした報告の連鎖からだった。
インターネット上の情報の整合性がおかしくなった。正しくない、おかしい、と声が上がり始めると、今度はあらゆる通信が頻繁に不安定となり、ありもしない情報が文章として、数字として、記号として一般に拡散され、企業などのサーバにも入り込んだ。こうなると、株価などの数字に微妙なズレが生じるようにもなった。リアルタイムで、異常と正常が入れ替わる。これが全世界規模で同時多発的に発生し始めたのだから、経済活動を担う人間達からしたら、たまったものではない。
先進各国は当初、世界中に伝手を持つハッカー集団の仕業と考えた。これは妥当な見解だ。そう考えるのが常識的だし、どんな知識を有するどんな人物・専門家だって、そう発想しただろう。科学者の端くれである私も同意見だった。
問題はここからで、次に起きた怪現象は、あらゆる物理法則に歪みが生じたことだった。
更に悪い事に、異形の生物達が出現し始めた。
この異常事態の連続に、あらゆる国は対応が遅れ、結果、大騒ぎとなった。
法則の不連続性に関しては文字通り不連続であり、既存のものが全て一斉に変化したわけではない。部分的に、突発的に、特定の箇所でだけ、短時間だけ、もしくはごく一部の地域で長時間、それでも二十四時間程度、などの影響が軽微かつ短期間であったことが幸いした。それでも、株価や時価などの数字、利益と世界経済の根幹を担うシステムの異常は、世界の仕組みと経済基盤をひっくり返した。現に暴動と秩序崩壊が起きている国も多い。それら問題は現在も解決していない。
異形生物達に関しても対応が分かれた。既存の生物種が合体したような、所謂、合成獣のようなもの達は保護が提唱され、捕獲後、あるもの達はサバンナへ、あるもの達は国が管理する自然保護区、自然公園などへ捕獲後に輸送されて放たれ、研究チームによる生態追跡調査が続いていると聞く。この行為が既存の自然を破壊するという抗議もあるが、前述の経済への大打撃による影響からか、大規模な反対運動は起きていない。人間達は皆、自然や他生物を本気で気にかけてやるだけの余力が無い、という悲しい事実の裏返しである。
それ以外の異形生物、人間の身体に頭部だけコンクリート片を集めて固めたような者、古い映画に登場したような、黒い体表に鉤爪と鋭利な尻尾を有し、人間を目視した瞬間に襲い掛かり殺害するような新種の生物、ビニル袋に人間を可能な限り詰め込んで膨らませ、アメーバのような動きで人間や車を踏み潰して回る中規模個体などは、発見次第駆除されることが閣議決定された。この対応は日本を含めて、どの国も素早かった。発見・報告と同時に甚大な人的被害が生じており、連続して人類という自分達の同類が殺され続けているとなれば、対抗する為に攻撃許可が下りるのは真っ当な判断であると評価できる。丁寧に状況を分析し、相談しながら考えている間に人が死ぬのだから、即断即決即行動が結論として選択されるのは必然だった。
とにかく、こうして一つずつ、対処していくしかない。
可能性を辿り、理論を構築して、現状を分析し、答えを出す。
間違えてもいい、度々立ち止まってもいい、犠牲が出ることだって仕方がない、割り切り、悔やみ、嘆きつつ、それでも諦めない。人類はこれまでの長い歴史においても、そうして難題を解決してきた。宇宙へ到達するまでもそうだった。疫病に対してもそう。医学や科学を発展させて、知識という武器を溜め込んで、二本の足で進み続け、器用な両手を駆使して、身体の最上部に座している重たい頭その中に納まる頭脳を最大限活用して、道を拓いてきた。
今回も同じことをするだけ。
難しい問題だけど、解決できると信じて行動すればいい。
諦めて投げ出し、絶滅を良しと受け入れてしまった時、人類は遂に敗北する。絶滅が加速する。
思考し、抗い、理論を叩きつけているうちは負けではない。私はそう信じている。
今回の出張だって、そのためのものだ。開催される学会とは、国内の賢い者達で集まり、現象の可能性、アイデアを互いに出し合って議論することが目的だ。ネットワークが安定せず、もたらされる情報の信憑性が疑われる以上、こうした昔ながらの集まりが有効というわけだ。
私は待機エリアに据え付けられた堅い椅子から立ち上がり、受付カウンタ近くまで移動する。
搭乗開始時刻まで、時間の余裕はまだまだあった。立ち上がった理由、目指す先の目標物は、先程受付カウンタから待機エリアへと移動する際に見かけた海外旅行の案内パンフレットである。
これだけ世界中が混乱しているにも関わらず、海外旅行が可能なのか、候補地はどこなのか、単に撤去し忘れか、それが気になった。
私は、気になったことをそのままにしておけない。知らない、分からない、という状態が気に入らない。負けた気分になる。ものを知らない自分という存在を許容できない。こんな性格だから、大学院まで上がってしまったのだ。
目当ての紙パンフレットがささったラックの前まで来て、それを手に取る。
パラパラと捲って内容を確かめていると、私のすぐ側を、一人の女性が、スーツ姿の男性四人に囲まれた状態で通り過ぎて行った。
目を引く集団だったので、私はゆっくりと振り向き、視線を向ける。
クライムアクション映画で観た、要人移送中のボディガードみたいだな、という感想を抱いた。
もしくは、重要参考人の移送か。犯罪者を飛行機に乗せる際は、一般乗客とは異なる乗口ゲートが使用されると聞いたことがあるので、あの女性が犯罪者というわけではないだろう。
そんなことをぼんやり考えながら目で追っていると、女性を囲っているスーツ姿の男性の一人が急にうずくまった。
残りの三人が立ち止まる。女性だけはそのまま歩き続け、先へ行こうとする。
男性の一人が女性の肩を掴み、立ち止まらせるのと。
うずくまった男性の背中が裂けるのが同時だった。
男性の中から、細長い蟷螂のような異形が立ち上がる。
その場に居合わせた全員が硬直していた。私も含めて。
蟷螂のような異形が、細長い両腕を振るった。
その両腕は、三人の男性達を一瞬で切断。
黒い塊が周囲へと吹き飛ぶ。
遅れて、鮮血が散り、フロアタイルへと広がる。
蟷螂のような異形は跳躍し、受付カウンタの中へと入り込んだ。
方々から悲鳴が上がる。
そうか、私以外にも搭乗待ちの人間がいるのだ、と思い出した。
カウンタ内のスタッフさん達は多くない。空港を利用する客が最近は極端に少ないためだ。
それでも、大騒ぎになった。当たり前だ。突然の異形出現。予想外の襲撃。自分の命が危機に瀕している。誰だってパニックになる。それが正常な反応。
誰もが、と考えて、ああ、そうだ、私も危ないんだ、同じ立場にいるんだ、と気づく。
どうしよう、と迷った。
今のうちに逃げた方がいいのか。でも、この場から音を立てながら走り出す方が、あの異形を刺激してしまうのではないか。あれの生物的特性は、どのようなものだろう。目が見えているだろうか。音で周囲を把握しているのか。それとも熱感知だろうか。音ならともかく熱感知なら、ここでじっとしていても、いずれ襲われてしまう。時間の問題だ。
そこまで考えて、ふと、先程目で追っていた、あの女性の存在を思い出した。
視線を動かす。
彼女は、先程と同じ場所に立っていた。
大人しい立ち姿で、こちらへ顔を向けて。
目が合った。
その瞬間。
突飛な発想が、頭の中を占めた。
この子を開放しなくてはいけない。
この子なら、現状を打開してくれる。
そんなことを思いついた。
どうしてそう思ったのか、分からない。
ただ、そう感じた。
根拠のない直感だった。
彼女の目が、彼女の存在が、私にそんな発想をくれた。
賭けてみよう。どのみち、このまま恐がりながら震えていては、私もあの異形に真っ二つにされるだけだ。
目だけで異形の位置を確かめた後、私はできるだけ滑らかに、音を立てないように、女性の方へ移動を始める。
すり足のような歩行方法で進みながら、何度も受付カウンタの方へ目を向けた。
異形は、男性職員を追い回している最中だった。追われている男性は、私の搭乗手続きを担当してくれて、私が投げかけた滑走路についての質問に詳細な答えをくれた、あの男性だった。
急がなくては、と焦った。急いで何がどう変わるのかも分からないまま。
女性の目の前に辿り着く。
遠目からでは、いまいち分からなかったけれど、とても華奢で小柄な女性だった。
長い黒髪。真っ白の肌。まだ若い。私とは五個以上違うのではなかろうか。高校生くらいに見える。そう、若いというよりも幼い。
観察していて気づいた。
この子、拘束されている。
普通に歩いているように見えたけれど、身体の横にある腕は、手首部分を透明な結束バンドのようなもので服に固定されていた。
マスクを付けているので、まさかと思い、私は、ちょっとごめんね、と小さい声で断わってから、そのマスクを外してみた。
やっぱりだ。口に透明なさるぐつわのようなものを噛まされ、それが首の後ろ辺りまで伸びている。発声を妨げ、自分で舌を噛めないようにするためのものだ。似たようなものを映画で観た。
私は彼女の口からそれを外し、両手の結束バンドは、自宅マンションの鍵を隙間に差し込み、何度もスライドさせて千切った。
「……ありがとう」
彼女が小さな声で呟いた。
私は目を上げて、彼女の顔を見た。
笑っている。
美人な子だ。
可愛い子だ。
素直な子だ。
どうして、こんな子が、拘束されていたのだろう?
疑問に思い、考えようとした矢先、大きな音が背後でして、私は現実を再認識。
恐る恐る振り返ると、異形が私達のすぐ側に出てきていた。
両腕が赤黒い。頭部らしき箇所がいつの間にか開口し、そこに血まみれの人間を咥えるようにしている。その人間は、先程の男性。
私は恐れ慄き、数歩下がる。
声が出せない。
足が震えているのが分かる。
駄目た。
終わりだ。
そう感じた。
心構えをしたのかもしれない。
今から殺される、という覚悟。
そんな私の前に。
すっと彼女が進み出た。
彼女は無言で、片手を振った。
虫を払うような、暖簾を除けるような、そんな軽い動作。
その瞬間、異形が消えた。
瞬きを繰り返す。
いや、本当に消えた。
霞のように、唐突に、ふっと晴れるように、消えたのだ。
男性の血塗れの遺体だけがフロアの床にある。いつ落ちたのだろう。音がしなかった。
連続する恐怖と、驚きと、不可解のあまり、私は声が出せず、動けもしない。
そんな私の目の前で、助けてくれた彼女がふらつき、その場にしゃがみ込んでしまった。
その様子を目にしてようやく、自意識と身体の感覚が戻ってくる。
しっかりしなくては、と自己を奮い立たせる。
彼女の側へ屈み、大丈夫? 怪我した? どこか痛い? と問う。
彼女は擦れた声で、お水が飲みたい、お腹空いた、でも、まずはここから離れたい、と応えた。
しばし考える。
私達は被害者だ。
騒動に巻き込まれた、憐れな一般市民。
ただし、彼女はおそらく違う。
騒動に巻き込まれた、異形に襲われそうになった、では済まないだろう。
一般市民は両手を縛られ、さるぐつわを噛まされ、屈強な男四人に囲まれた状態で飛行機へ向かったりしない。厄介な状況が想像できる。細部までは当てられなくても、尋常でないことくらいは明らかだ。
それでも、私はこの子の力になりたい、と思った。
私を助けてくれた。無償で、危険を顧みず、私が助けを乞う前に、とても自然な動作で、助けてくれた。それが当たり前だと言わんばかりに。
だから、今度は私が助けてあげたい。
彼女に抱いた第一印象が、そう思わせるのかもしれない。
可愛い子。
素直な子。
可愛いと思った。
可哀想だと感じた。
どうしてこんな目に遭わされているのか、と疑問に思った。
どうしてこんなことをする人間がいるのか、と小さな憤りを感じた。
だから、助けたいのだろう。
自分の手で、彼女を自由にしてあげたい。
それが動機であり、選択の理由だった。
時間にして十五秒。
私は決断した。
「分かった。一緒に逃げよう。ほら、肩に腕回して。立てる? 行くよ」
私は彼女に肩を貸して抱き起し、ほとんど引きずるようにしてフロアを横断。緊急停止して動かないエスカレータを歩いて下り、一階ロビーを進む。
着替えや小物が入ったボストンバッグを忘れてきたことを思い出したけど、すぐに諦めた。大した損失ではない。貴重品は全て、着ている服のポケットに入っている。いつもの癖だ。初めて役に立った。
建物から出てすぐのところで、待機しているタクシーを見つけたので、彼女を抱いたまま近づく。
建物内で何か騒ぎがあったことは分ってる、何が起きたのかまでは知らない、と聞いてもいないのに告げてくる運転手の男性に、友達の体調が悪いから乗せて欲しい、と私は返す。
運転手は自分の仕事を思い出したらしく、すぐに運転席へと入る。私は開けられた後部座席へ彼女を慎重に乗せてから、自分もその隣へ乗り込んだ。
タクシーが発進する。
行先は病院か? と聞かれたので、私はちらと彼女へ目を向ける。
彼女は小さく首を振ったので、私は、友達を家へ帰したい、と応え、私の住むマンションの近くの住所を伝えた。男性へ自分の住所を正直に告げることに抵抗があったのと、もし私達がこうして逃げたことが後々問題となった場合、この運転手から私が指定した移動先が聞き出されるかもしれない、そうした展開が、私達にとって不利益になるかもしれない、と発想したためだ。これも映画から得た知識だった。影響され過ぎかもしれない。
「ありがとう。無理なお願いを聞いてくれて」
私の肩に頭を預けた状態の彼女が、小さな声で呟いた。
「いいよ。むしろ、こっちこそ、ありがとう。さっきの、助けてくれたんだよね」
「それがね、どうだろう。きちんと説明したいけど、今は……」
彼女はそう応えてから、私の顔を見て、次いで視線を運転席の方へ向けた。ここで話せる内容ではない、という意味だろう。
「分かった。あとで聞くね。向こうに着いたら、何が食べたい? 大したものはないけど、私、一応料理できるよ」
そう返すと、彼女は私を見つめて五秒静止した後、オムライス食べたい、と言った。
「いいよ、作ってあげる。お肉は挽肉で、グリンピースも無しのやつになるけど」
「ありがとう。そのオムライス食べたい。あと、グリンピース嫌いだから、無しの方が嬉しい」
「そうなの? 小学生みたいな好き嫌いだね」
私は笑いながら告げる。
「私、小学生だから」
彼女も口角を上げて応える。
「さすがに嘘だ。高校生くらいでしょ?」
「うん、嘘。今年で二十歳なの」
「二十歳? 見えないなぁ」
「よく言われる。それが悩み」
当たり障りのない会話と遠回しな自己紹介をしているうちに、指定した住所に着いた。
運転手に料金を支払い、私は彼女に再び肩を貸しながらタクシーを降りる。
その体勢のまま歩き進み、なるべく人気の少ない道を通って、自室のあるマンションへと入る。
エレベータで階を上がり、共用廊下を抜けて、自室玄関を開け、彼女を部屋に入れた。
リビングの椅子に彼女を座らせて、コップに水を注ぐ。彼女はそれを立て続けに三杯飲んだ。
冷蔵庫を開けて食材を取り出し、私は手際よくオムライスを作る。出張で部屋を開ける予定だったから、冷蔵庫内に残していた食材は少ない。見た目は取り繕えたけど、人様に出して良いオムライスではないものしかできなかった。
それでも、彼女は全部食べてくれた。食べ終えるまで早かったし、美味しい、と何度も言ってくれた。
「それじゃあ、そろそろ、聞いてもいいかな」
私は二人分のコーヒーを淹れ、彼女の前に片方のマグカップを置きながら告げる。
「どうして私が拘束されていたのか、私が空港で何をしたのか、よね?」
マグカップを手に取りながら、彼女は言った。理解が早い。
「うん。差し障りの無い範囲でいいから、教えて欲しい」
コーヒーに口を付けながら私は頷く。
「いいよ。ただ先に、貴女へのお礼をさせてもらった。タクシー代と、貴女の荷物を捨てさせてしまった補償、巻き込んでしまったお詫びと、見ず知らずの私を助けてくれて、ご飯まで作ってくれたことへの感謝の気持ちを、お金という形で、貴女の銀行口座へ送っておいた」
「……え?」私は首を傾げる。
「残高照会、できる?」
彼女は空いている方の手で、親指を動かす動作をしてみせた。スマートフォンの画面操作の意と理解。
訝しみながらも、私はスマートフォンで銀行口座管理アプリを起動して、残高を確かめた。
身体が固まる。
おそらく今の私の目は、点になっているだろう。
私の口座残高が、これまでの人生で目にしたことのない金額になっていた。
「どういうこと? 一体、何をしたの?」
「移動中のタクシー内から、ネットワークに接続して、口座残高に手を加えたの」
私の問いに、彼女はコーヒーを飲みながら、さらりと答える。
「変更したという記録自体も消去しておいた。その口座のお金は記録上、存在しない。だから遠慮せずに使っていいよ。追跡もされないようにプロテクトしてあるから大丈夫。あと、タクシーに乗った記録も、この近辺までの移動中にあった監視カメラの映像も、細工をしておいたから、物理的な追跡にも怯えなくていい」
「ええっと、説明されたことの意味は理解できる。その気遣いも、お金も、ありがとう。嬉しい。感謝する。けど、その……」
「端末も持たず、協力者もおらず、通信機器に触れてもいない、ついさっきまで縛られていた女に、どうしてこんな真似ができたのか、でしょう?」
「ええ……そう」
「これがね、私が拘束されて、飛行機に乗せられそうになっていた理由」
マグカップを机上に置きながら、彼女は続ける。
「私ね、人体実験の被検体にされたの」
「……え?」
「お金が無くなって、生活に困った。それで私は、治験の契約をしたの。その時居た場所は日本国外。報酬目当て、リスク承知、その上で施設に入った。でも、そこで拘束された。事前説明にあった投薬治験は嘘っぱちで、施設内で私は脳をいじられた。脳内に演算用のチップと、脳波放出のための機器を埋め込まれた。そこにいた人達曰く、脳の電子化、電子的遠隔介入の可能化・強化が目的だったみたい」
「それが成功したの? そんな技術が、もう既に実現してるってこと?」
自分の目元を覆いながら、私は呟く。
可能性としては確かにゼロではない。けれど、困難な医療的・電子的技術が求められるし、それ以前に、そんな人体実験紛いの行いに許可など下りるはずがない。先進国であるほど尚更に。
「あるところにはある。やるところならやる。求められるなら、必要に迫られたなら、行動に移す。実用化自体もしようと思えばできる。ネックとなるのは大抵、資金と被検体、支援と賛成票、倫理と成果、実用性と利益率、条件さえ揃えば、人間は飛躍的な進歩を実現することができる。ただし、より難しいことをやってのけるには、相応の見返しがなければ協力も理解も得られない。この辺りのことは、よく知ってるよね?」
「どうして、私が知っていると思うの?」
「だって、大学院生でしょう? 研究予算の割当方式や規則、実験実施の認証基準、倫理的観点からの制約や法的障壁について、既に学んでいるはずだから」
「それ、今、調べたの?」私は問う。
「いいえ、貴女と一緒にタクシーで移動している時にネットで検索したの。ごめんなさい。勝手に素性を探るような真似をしてしまって」
「つまり貴女は、ネットへの接続や、銀行口座の操作、監視カメラとかの映像改竄を、機械の補助や物理的接続も無しに、手も触れずにできるってことね? そういう電子関係の発展的芸当ができるような脳改造をされた、いや、できるようになるかどうかの実験体として、そういう処置を施された」
「素晴らしい理解力だわ。ええ、その通りよ。ありがとう。疑わずに話を聞いてくれて」
彼女は微笑んで頷いた。
どうして笑えるのだろう。
こんな恐ろしくて悲しい経緯、私だったら、誰かに話す場合でも、怒りながら、取り乱しながらでないと、とても語れない。人権問題だし、国際問題でもある。このご時世とはいえ、許されることでは決してない。
「運が良かったのか、技術的には既に確立していて、素体として私が適当だったのか、そこまでは分からないけれど、事実として、私の脳の改造は無事成功した。実験体として望まれた能力が確認・実証できた。更なる実験と、私を安全に保管するために、移送する手筈が組まれた。その一環、中継地として日本の空港に来たの。入出国しやすくて、他の国と比較しても安全だから。それなのに、予定外のことが起きた」
「それが、さっきの騒ぎ?」
私が問い、彼女が頷く。
「まさかあのタイミングで、あんなことになるなんて、本当に思ってもみなかったでしょう。警護は四人いたけれど、私の脳の改造費用と関わった人間の多さ、投資されたリソースを鑑みれば、護衛四人ではとても足りない。軍隊で守るくらいでようやく釣り合うほどの価値が、私の脳にはある。それでもあれほど手薄かつ無防備に甘んじていたのは、ひとえに日本の安全性を信頼していたからでしょうね」
「ねえ、貴女の説明を聞いてて、一つ疑問に思ったことがあるんだけど」
「なにかしら?」
私の問いに、彼女は微笑んだまま首を傾げる。
私はそんな彼女の顔を見つめながら、一口だけコーヒーを飲んで、言葉を続ける。
「貴女の脳は、電子的な操作や仕組みに対して介入できるような改造を施されたのよね? それはつまり、衝撃波のようなものが出せるようになったわけじゃないし、超能力みたいに物体を浮かせて移動させることもできないし、突飛な例だと、空を飛んだりすることもできないわけだよね?」
「ええ、どれもできないわ」
彼女は笑いながら頷く。女同士の楽しいお喋り、といった様子。
「じゃあ、空港であの異形の化物を消したのは、どうやったの?」
「そう、その点が、ちょっと複雑なの」
彼女は頷き、マグカップを傾けて、コーヒーを飲んだ。
ゆったりとした動作で、マグカップを机上に置く。
その顔はもう、笑っていない。真剣な表情。
「今から話すことは、私の目から観察した事象。私が観察した事実。それを念頭に置いて、聞いて欲しい。いい?」
「分かった」
私は頷く。
前置きが付いたことへの不安。
語られる未知への小さな恐怖。
それらを抑制して、それでも頷いた。
知らないことがあるのは、耐えられないから。
知らないままの自分、という存在に我慢がならないから。
「あの空港に、貴女の言う異形の化物は、初めからいなかった」
「……え?」
「空港の、あの瞬間だけじゃない。世界中で起きている異変、異形達の出現、超常現象、物理法則の乱れ、その全てが、人類全体に生じている【誤認】よ」
「いや、そんな、まさか、そんなことって……」
私は首を振る。
誤認? ありえない。
だって、私はこの目で見た。
私だけではない。私以外の者達も、あの場にいたのだ。
だから大騒ぎになった。犠牲者も出た。死体だって目にした。血も飛んでいた。
どうしてそんなことになったのかといえば、異形が実際に出現して暴れたからだ。
この子を助ける隙ができたのだって、あの異形が出現したからだ。
超常現象だって、多くの人間が観測している。認知している。世界中の人間が見聞きし、体験している。私も些細なことだけど、イヤフォンが自分の耳から離れて宙を舞い、遠くへ逃げてしまうという実体験をしている。そうした経験があるからこそ、起きていることが現実だと、夢幻ではなく、本当に世界が変化していると、あり得ないと断じていた現象が現実の出来事として降りかかっていると認識するに至ったのだ。
それらが丸ごと偽り?
そんな、馬鹿な……。
「これまで異形の者達に殺されたと報じられてきた人達は、確かに亡くなってしまったのでしょう。ただし、それは実際に異形に殺されたわけではなく、殺されたと本人達の脳が誤認を起してしまって、生命活動を止めたことに起因する死亡だと推察できる」
私の混乱を察してか、彼女が静かな声で話し始める。
「私がネットワークを巡って確かめた限り、株価システムから信号機の点滅色に至るまで、電子的異常は一つとして起きていない。人間が生活していくうえで定めた【常】から外れた認識と行動が表れているのは皮肉にも、人間だけ。人間達が自ら奇行を繰り返している、というのが現実として正確」
「どうして人間だけが、そんなことになっているの?」私は聞く。
「どうしてそうなったのか、きっかけは何か、それは私にもまだ分からない。調べている最中なの」
「じゃあ、さっきの空港での騒ぎは? あれは何がどうなっていたの?」
「空港で私が見たのは、フロアの床へ昏倒する警護の男性四名。受付の職員さん達は、その場で長い奇声を発した後、順に倒れていった。それに反応して、待機エリアにいた人達が悲鳴を上げながら逃げ出して行った。男性職員が一人、私達の近くに移動してから倒れた」
「貴女には、そう見えていたってこと? じゃあ、あの場には、異形の化物はいなくて、別に何も起きていなかった? 全部、貴女以外の人間、私を含めた者達だけが幻覚を見ていた?」
「そこが厄介なの……」
彼女が息を吐き、言葉を濁した。会ってから初めて見る表情変化だった。
「一応、私にも、貴女や他の人達が何を視ているのか、検知しようとすればできる。ただし、貴女達の目から見るほどリアルな映像ではない。雑なCG、ホログラムみたいな仮想実体として表現される」
「……あっ!」
閃き。
納得。
そうか。
そういうことか。
突然出してしまった大きめの声に、目の前の彼女が、びくっ、と肩を震わせた。
私は、ごめん、大声出しちゃって、と謝ってから、気づいた事実を述べて確かめる。
「あの時、貴女が手で払ってみせたのは、その虚像を消すための動作だったわけね?」
「ええ、そう」
彼女が頷く。自分の胸に片手を当てている。かなり驚かせてしまったらしい。申し訳ない。
「それで、貴女が介入して消去ができるということは、私達が認識しているのは全部、電子的な悪戯か、ハッキングみたいな現象ってことよね? その電子的介入は、私達の周囲のデバイスやインターネットじゃなくて、私達の脳に直接行われている。私達の脳にも電子があるし、それが作用しているからものを考えられる。脳を構成している神経回路、ニューロンやシナプスは、それ自体がネットワークに似た構造だから……それを利用された。どうやってそれを実行しているのか、どんな技術が使われているのか、誰がやっているのか、人為的か、超自然的な現象なのか、その辺の疑問はともかく、私達人類にだけ共通して【誤認症状】が表れているっていう理由はまさに、そういうことだよね?」
「あぁ、貴女、本当に頭が良いわ。私、貴女のこと大好き」
彼女はにっこりと笑ってから、机上で手を伸ばし、私の手を握った。
「驚いたわ。どう説明しようか、説明した後で、それでも貴女が信じてくれなかったらどうしよう、って不安だったの。この話をできた相手が貴女で良かった」
「こっちこそ、ありがとう。いや、ありがとうっていうのも変だけど、ずっと考えてたんだ。世界がおかしくなってしまった原因を、その理由や法則をね。今日、私が空港へ行ったのだって、その答えを見つけるために、大学の教授や院生が集まる学会発表への出張が目的だったんだよ。貴女がこうして説明してくれたおかげで、探してた答えが見つかった。もう、最高。すっきりできた」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。巻き込んでしまったとばかり思っていたから」
彼女が微笑む。この子はやっぱり、笑っている顔が一番。
「それじゃあ、ええと、まだ聞きたいことがいくつかあるんだけど、それは後でもいいや。今日、泊まっていくよね?」
机上で繋いだ手はそのままに、私は椅子に背をもたれながら聞いた。
「泊めてもらえると、とても助かるわ。ごめんなさい。厚かましくて」
「いいって、そんなかしこまらないで。そのつもりで連れて来たし、国外から日本に連れて来られたって言ってたよね? てことは、身分証とか、パスポートとか、登録情報とか、あと、実験を実行した連中とのいざこざとか、諸々の問題もあるでしょ? そういうのを明日から順に対処していこう。私も協力するから」
「ありがとう、何から何まで」
「空港で助けてもらわなかったら、私も今頃、心臓発作か脳卒中で死んでただろうからさ。貴女は私の恩人なわけよ。これくらい当然の恩返し。さて、どうする? お風呂入る?」
「えっ? 私、臭い?」
彼女の表情が固まる。
「いや、ごめん。そういう意味じゃない」
「でも、貴女はまだ、お風呂入らないでしょう?」
「私は、ほら、空港へ行く前に入ったばかりだから」
「……そういえば私、最後にお風呂入ったの、いつだろう……ずっと拘束されてたから……」
「あぁ、うん、事情が事情だったからさ。仕方ないっていうか」
「やっぱり、臭いのね?」
彼女は上目遣いを私へ向ける。
しまった、今のは失言だった、と反省するも、後の祭り。
「……お風呂、貸してください」
彼女が小さく頭を下げながら言った。
彼女をシャワールームへ連れて移動し、シャンプーやタオルなどの位置を説明した後、私はリビングを経由して自室へ入り、彼女用の着替えを用意。脱衣所へ運んで、着替えを用意したこと、遠慮なく着てね、と伝えて、リビングの椅子に座った。
溜息。
でも、落ち込んだことに起因する溜息ではない。
提示された情報と応え、それらの量と質に対して、私の脳の処理が追い付いていないために起こる熱暴走、過負荷に対する排熱を目的とした溜息である。
驚きの連続だった。
降りかかった現実も。
目を覆いたくなるほどの惨劇も。
二十五年の人生で初めて手を貸した逃避行も。
まさかの経緯と、そこから得られた信実も。
悩みと混沌の根源、その解答も。
何が誤りかを知れた。
そして、次は?
彼女のために行動してあげたい。
まだ何も解決していない。起きたことの説明をしてもらっただけ、世界規模の誤認が生じていることを認知しただけ。
これからどう行動するのか、慎重に計画を練る必要がある。
彼女は守ってあげたい対象であると同時に、おそらく人類にとっての救世主と成り得る。
彼女だけが誤認症状の影響を受けない。それと同時に、他者の誤認に介入して正常動作に戻すこともできるようだ。どの程度まで可能で、どれほどの範囲へ、どれほど連続して、修正のために介入ができるのか、などは検証が必要だろう。おそらく、そうしたことが目的で、彼女は航空機へ乗せられるところだったのだ。人体実験、電子介入実験、どれほどの規模でどのような実験をし、成果を出せたとして、そこで終わりではないのだ。更なる検証と実験が待ち構えている。できることとできないこと、出来上がった対象の限界値を調べる必要性が出てくる。ものによっては壊れるまで、再起不能になるまで消耗させてでも調べるだろう。得られるそのデータの方に価値があるからだ。
ここまで考えて、私は不安になった。
もし、彼女が再び捕まったら? 彼女は丁重に扱ってもらえるのだろうか?
貴重な成功体であるはずだから、まさか壊れるまで酷使されたりはしないはず。機械が頭に入っているとはいえ、彼女は人間であってものではないのだから、危険な真似など、物のような扱いなど……。
想像してみて、いや、と首を振る。自ら否定をする。
人体実験を平気で実行したような連中だ。きっと、彼女のことも使い潰すに決まっている。彼女が駄目になってしまうまでに得られたデータで、また同じような電子脳を乗せた人間を造ればいい、人間の替えはまだ億単位で存在しているのだから、などと発想するに違いない。そんな奴らに、彼女を渡すわけにはいかない。絶対に。
では、彼女はこれから先、ずっと逃亡生活になってしまうのか。身を隠し、身分を偽って生きていかなければいけない? どうしてあの子ばかりが? こんな目に遭わなければいけないほど、彼女が何かをしたのか? あまりに惨い。あまりに勝手だ。周りの大人達が、無関係であったはずの者達が、どうして彼女の人生を壊し、制限し、介入し続けるのか? あの子自身の自由はどこだ?
背後で音がした。
シャワールームの扉が開く音だ。
ということは、あの子は今、脱衣所へ移動したということ。
だいぶん集中して思考していたらしい。浮上するまで、意識が此処になかった。
深刻な顔をしていては、あの子に余計な心配やプレッシャをかけてしまう。あの子は悪くないのだ。被害者である。そんな彼女にこれ以上、悪いだとか、申し訳ないだとか、自分のせいだとか、そんな負の感情は一ミリだって抱いて欲しくない。
私はスマートフォン内の動画サイトアプリを起動して、適当な動画を観ていた素振りをしようとした。
動画サイトの画面を立ち上げて、そのトップ画面を埋め尽くす動画群に驚き、見入る。
「お待たせ。ありがとう。シャワーまで貸してもらって」
彼女の声が背後からする。
「ああ、うん。いいんだよ」
私は応える。生返事になってしまっている、と自覚しながらも、アップされた映像達と、ニュース情報をまとめた文字列から目が離せない。
「どうしたの? 何を観ているの?」
彼女が隣までやってきて、私の手元を覗き込む。
「えっとね、これ、ついさっき、ネット上に大量に上がった動画なんだけど」
答えながら、私は彼女にも見えやすいよう、スマートフォンを横向きにして画面を拡大。
彼女が無言で画面を見つめる。
そうかと思えば、眉間に皺を寄せた。
「この手の異形体って、私達の脳の電子信号に介入して、幻覚を見せてるんだよね? 現実世界では、こんな奴らは存在していないんだよね? そういう説明だったよね?」
「ええ、確かにさっき、私はそう説明したわ」
彼女は頷き、言葉を続ける。
「でも、この映像中にいる異形体は、私にも認知できる。ホログラムや、幻体データには見えない。まだ断言できないけど、実在してるみたいに思える……ちょっと待ってね」
そこまで話すと、彼女は背筋を伸ばし、その場に立って、動かなくなった。
目を瞑り、微動だにしない。
おそらく、ネットワークへ入り込んでいるのだろう。高速演算とデジタル情報の収集、巡る範囲が広いうえに、それがフェイクか現実かの判別、可能性の検討と対処策まで算出しようとしているだろう。仮に私の頭が電子脳化されたなら、私はそこまで確かめて、計算して、備えようとするだろう。頭の良い彼女のことだから、行っている内容は私と相違ないと推察できる。
スマートフォンの画面をオフにし、机上に置いて、彼女の情報精査が終わるまで待つことにする。
そこでようやく私は気づいた。
この子、服の着方が中途半端だ。
先程、脱衣所へ着る物を一式持っていったのに、実際に着て出て来たのは下着の下だけ。暑かったのかもしれないけれど、女同士とはいえ、初対面の人の家で、リビングまでこのような恰好で出て来てはいけない。
私は脱衣所まで大股で移動し、残りの服を引っ掴み、リビングへ戻る。
静止したままの彼女に小声で断りを入れつつ、彼女のそれぞれの部位に適した服を着せる。
ようやく全てを着せ終えたところで、彼女が瞬きを繰り返し、意識を回帰させた。
「残念だけど、現実の出来事みたい」
開口一番、彼女はそう溢した。
「現実? てことは、さっき映像で見たあの変なの達は、現実の存在ってこと?」
「ええ……そう認めるしかないみたい」
彼女は溜息をついてから、崩れるように椅子に座った。疲れたのか、ショックだったのか、ここまでの彼女の言動では見なかった反応だった。
個人が撮影した動画、メディアのカメラが撮影した動画、その映像には、これまで目にしてきた異形の者達とは異なるフォルムの生物らしき存在が映っていた。
KEEP OUTと書かれた、殺人事件現場などで封鎖区域を示すために張られる黄色のテープ、正式名称を危険バリケードテープというが、あれが頭部らしき箇所にぐるぐると巻かれ、蛸のように複数の足を持ち、その先端には電気伝導率の高そうな銀色の細長い職種を生やした異形が、先進国の首都に同時多発的に出現した。
これまでを振り返って比較してみても異常な数の出現だったし、出現場所がどうにも偶然とは思えない。何かしらの思惑や作戦実行のために、その場を選んだのではないかと勘繰ってしまう、ニュース動画などでは、そんな状況と見解を示していた。
あの黄色い蛸異形、言葉が通じなさそうな外見をしていた。ぱっと見、発声器官を有していないように映ったからだ。帰ってくれ、戦いなんてリソースと人命の損失を生むだけだ、という根拠のある説得をしたとして、応じてくれるだろうか? 理解してくれるだろうか? もし言葉による意思疎通が不可能であるなら、待ち受けるは戦争だ。今の誤認症状が出ている人類が、まともに戦争を行えるとは思えない。いや、戦争自体まともな行いではないのだけど、それでも、暴力による応戦、人類を妙な異形の蛸、異星人か、地底人か、異次元人か、知らないけど、そんな奴らからの攻撃、侵略に対抗する必要が生じた場合、人類は戦わなくてはならなくなる。でも、そのための戦力は?
「ねえ、お願いがあるの」
かけられた声に反応して、私は目線を上げる。
いつの間にか、彼女が立ち上がり、私のすぐ目の前にいた。
「お弁当、作ってくれない? あと、ペットボトル五本分のお水が欲しいの」
「どうしたの、急に……」
問いながら、私はすぐに、お願いの意図に気づいた。
「ダメだよ」
「作ってくれないの?」
「違う。そうじゃない。お弁当なら作ってあげる。ただし、一緒に出かける時とか、楽しいイベントの時にしか作ってあげない」
「貴女、本当に、頭が良いわね」
「このタイミングと、今の頼み事の内容じゃあ、私以外でも気づくよ」
「そう、ええ、そうかもね。でもね……」
「貴女が行く必要ないじゃん」
私は彼女の言葉を遮り、その華奢な身体を抱きしめる。
「行ってどうする気? 電子介入は役に立つかもしれない。でも、それが効かなかったら? あの異形達は実在してるんでしょ? 襲われたら止められないってことでしょ? あいつらが人間の誤認を引き起こしてた連中で、問題の根源だったら? 技術力が私達以上かもしれない。もしそうだと仮定して、それだと貴女の電子介入も対策されてる可能性が高い。そうでしょ? そうでなかったとしても数が多過ぎる。映像観たでしょ? ネットワークに入って確かめてきたんでしょ? 国内だけでどれだけ出てきたか見たでしょ? あれ全部相手にするつもり? 無理だよ。もっと最悪なのは、相手にしているうちに、貴女を捕まえに畜生な連中がやって来て、後ろから貴女を昏倒させて攫って、これまで以上に酷い実験に利用するかもしれないこと。分かるでしょ? 貴女が出て行っても、貴女自身は危険と不幸を被るだけ。貴女はまだ若い。もっと生きてよ。まだ死なないでよ。お願いだから……」
「こんな必死に止めてもらえるなんて、思ってなかったな」
その言葉に、私は顔を上げる。
彼女は微笑んでいた。
可愛い。
美しい笑み。
その頬に、涙が一筋。
「貴女が私を大切に想ってくれているのは、痛いほど分かった。私以上に私の未来を考えてくれていることも伝わった。ありがとう。真剣に私のことを考えてくれて」
彼女は、私の頬に手を添えて撫でる。
ゆっくりと、優しく。
向ける目は柔和で。
でも、真面目な眼。
「私も、まだ死ぬつもりはないよ。だって、まだ二十歳だもの。やりたいことも、食べたいものも、沢山ある。だからね、あいつらを止めに行きたいの。まだ生きていられるようにするために、貴女の作ってくれたお弁当を持って、一緒にお出掛けがしたい。そんな未来を実現するために、まず、あいつらを止めたいの。世界が乗っ取られてしまったら、私のしたいこと、私の未来が、無くなっちゃうから」
「犠牲になりに行くんじゃないんだね?」
自分の目元を擦りながら聞く。私の目からも涙が出ていた。
「勿論」彼女は頷く。
「貴女が行くなら、私も行くよ。二人一緒じゃなきゃ行動させないから」
「一緒に居てくれるなら、それはとっても嬉しい。もう、独りぼっちは嫌だから」
そう言って、彼女は私の背に腕を回す。
抱きしめ返してくれる。
必要だ、と伝えてくれている。
「上手くいく保障はないよね」
「ええ、そうね」
「それでも、やらなくちゃ……いずれは包囲されるか、支配されるか、悪い方にしか作用しないだろうね。意志の疎通にしても、普通の人間が出て行くより、貴女の方が能力的に、交渉に向いていると思う」
「ええ、私もそう思う」
「そういうことなら……はぁ……うん、分かった。いいよ。行こう。一緒に」
「本当に?」
私の同意に、彼女が微笑む。
「じゃあ、お弁当、作ってくれる?」
「いいよ、どんなのが食べたい?」
ふき出しながら、私は聞く。
「貴女作ってくれたオムライス」
彼女は微笑んだまま答えた。
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