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「これは白い結婚だ。お前を愛することはない。俺の愛はただ一人、マヤに向けられている」
吐き捨てるように告げられたその言葉に、私はしばしの間押し黙った。
愛することはないと堂々と宣言したのは、金髪にヘーゼル色の瞳の美丈夫。齢は私より六つ年上の二十五歳。
先ほど挙式を終え、夫となったばかりの人物――その名をユルゲン・ダーヴィト・ペトリーという、この国の若き国王陛下である。
そして彼にしなだれかかり、優越感たっぷりの笑みを浮かべている黒髪の小柄な少女こそが、異世界からやって来た聖女のマヤだった。
「シュテフィ様、ごめんなさいね? あたしとユルゲン、見ての通りのラブラブだから」
そう言いながら彼女は国王陛下の首筋にちゅっ、とわざとらしく音を立ててキスをする。国王陛下は私に対して向けるものと対照的に熱のこもった視線で聖女を見返し、「マヤ、君こそが俺の伴侶に相応しい」と囁いて、彼女の肩を抱いていた。
――一体私は何を見せられているのだろう、と呆れ果ててしまう。
けれどいつまでも黙り込んでいるわけにはいかなかった。
「白い結婚……つまり私は国王陛下との関係を持たない、お飾りの王妃ということなのですね」
「そうだ。お前などが俺に愛されるとでも思っていたのか? もしそうなら烏滸がましいにも程があるな」
彼が聖女を溺愛しているのは知っていたので驚きはしない。しかし一応王族なので、いくら愛のない結婚とはいえ、子作りは必須である。……普通の思考回路を持っているなら、という但し書きはつくが。
おそらく私は孕めない体だという設定で聖女を側妃として娶り、子を儲けるつもりなのだ。
そして私のことは面倒ごとを押し付ける道具として使い潰す計画に違いない。
もし気の強い令嬢であれば、全力で抗議していただろう。
気が小さかったとしても、「そんな……」などという絶望の声の一つでも上げるはず。
だが私は、ただ静かに頷いただけだった。
「承知いたしました」と言って。
だって、私にとってこの白い結婚は屈辱でも何でもなく、何も問題のないことだったから。
「なんだ、その薄い反応は。俺を馬鹿にしているのか?」
「いいじゃないの、別に。どうせ負け惜しみで強がってるだけだと思うし、ぐだぐだ駄々をこねられるよりはよっぽどマシでしょ?」
「……そういうことか。マヤは頭がいいな。可愛い奴め。じゃあ俺たちは存分に楽しむとするか」
少し不満げながらも、聖女の言葉一つでどうでも良くなったらしい国王陛下は、彼女を伴って部屋を出ていった。
残された私は一人、初夜のための寝着のままゴロンとベッドに横たわり、目を閉じる。
瞼の裏に愛しいあの御方の姿が浮かび、思わず笑顔になった。
私が王妃になるべく王家へ嫁ぐことになったのは、政略的な思惑によるものだ。
国王陛下は寵愛する聖女マヤとの婚姻を強く望んだ。しかし聖女は、元々この世界の人間ではないし、異世界においては平民だったので、正妃にすることは叶わなかったのだ。
もしもきちんとした功績があったり、聖女としての最低限の教育を真面目に受けていたりすれば状況は変わっていただろう。しかし彼女はそうではなかった。
いずれ来たるこの国の危機を救わなければならないというお告げがあり、神から聖女の杖を賜ったとかで、異世界から召喚されることになった聖女マヤ。
聖女の魔法は国に溢れる魔物を滅し、杖を天に掲げて神に祈りを捧げることでより力を高めることができるという。しかし聖女がその力を発揮し、勤勉に働いているかといえば真逆で、聖女の身分に甘んじて次々に男たち――しかも金持ちの美形ばかりを誘惑し始めたという。
男爵令息、伯爵令息、若手の騎士や大商会の息子と乗り換えていき、最後は国王陛下にまで辿り着いたらしい。
小柄で顔立ちが愛らしく、尚且つ男受けする豊満な体を持っていたので、それを思い切り活用したのだろう。貴族令嬢とはかけ離れた行動も魅力的に映ったのかも知れない。
しかし国王の心を掴んだところで、王族の結婚には利害が絡む。
重鎮たちが頭を悩ませた結果、聖女を愛人とする代わりにきちんとした教養のある貴族令嬢を正妃に据えるという形で落ち着いたのだろう。
そして指名を受けたのは――否、選ばれるべくして選ばれたのは、ファミッツ伯爵家の娘である私だったというわけだ。
「しばらくは、静かに過ごしましょうか」
本来は国王陛下が果たすべき公務に関する書類をまとめながら、私は呟いた。
近頃の彼は全て仕事を私に任せきりで、聖女と熱心に愛を育んでいる。しかし私はそのことに対してなんら不満はない。
白い結婚だというのであれば愛人といちゃつくなりなんなり好きにすればいい。
限りある甘い日々を許さないほど非情な女ではないつもりだから。
お飾りの正妃となってから半年ほど。
国王陛下は数日に一度城の廊下で出くわすくらいなもので、私の部屋――本来は夫婦の寝室である場所へ顔を出すことはなく、挨拶さえも交わしていない。
もちろん、全くもって何の問題もないのだけれど。
聖女が言いふらしているのだろう、私の悪行とやらが城の中を常に駆け巡っている。
例えば国庫の金を勝手に使っているだとか、国王陛下の最愛である聖女を私が虐げているだとか、そんなのだ。
最初は聖女に対して否定的だった使用人たちも、その話を信じて私を敵視するようになった。
最近では専属侍女が私の前に現れることもなく、自分で身なりを整えざるを得ないほどだ。
「どう? 悔しいでしょ? あたしはめちゃくちゃ愛されてるっていうのに、自分はぼっちの悪女扱いだもんねぇ」
ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべながら話しかけてくる聖女。
時折こうして聖女はわざわざ私の部屋を訪れ、嗤いに来る。
彼女は未だ国王陛下の愛人のままだ。社交場においてはその称号はなんら意味をなさない。
けれども、この城では彼女が女主人同然だった。
ゴテゴテで趣味の悪いピンクのドレスを纏い、偉そうにしている彼女の姿が私の目にはいっそ哀れに映るが、そのことにきっと聖女自身は気づいていない。
「なんとか言ったらどうなの、負け組女。強がっちゃって、かーわいい。この杖で浄化してあげよっか?」
冗談めかしながら聖女が懐から杖を取り出し、私の額にコツンと当てた。
びり、と全身に凄まじい電撃が走って、視界に火花が散った。危ない、座っていたから良かったが、立っていたら地面に崩れ落ちるところだった。
もしもこの痛みをあの御方が受けたらと思うとゾッとする。しかし私は何事もないかのように微笑んだ。
「私が悪しき者とでも? ご冗談を」
「冗談なわけないでしょ、このクソ女。待ってろ、そのうちこの城から追い出してやるから」
聖女は本気で私を追い出せると思っているのだろう。そして国王陛下が彼女の味方である限り、それは可能なのだろう。
――しかし、最後に笑うのはどちらでしょうね。
彼女は知らない。近辺に出没する魔物の数が多くなって来ているということを。
彼女は知らない。国王陛下との子を産み、正妃になるという野望どころか、側妃になることすら叶わないことを。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
あたしは聖女だ。
元々はただの女子中学生だったけれど、今から三年前、この世界に召喚されたことで、聖女とかいう特別な存在になった。
おそらくここはラノベか少女漫画のどちらかの中の世界。
剣と魔法、それから王族や貴族が当たり前にいて、聖女までいるのだから間違いない。過保護でなんでも支配しようとする毒親やクソみたいな同級生たちに囲まれて生きる元の世界より何倍も素敵な場所だった。
ただ問題はどんなストーリーなのかわからないことだけれど、聖女といえば王子様と結婚して幸せになるのがお決まりみたいなもの。
魔物退治とかいるかどうかもわからない神に祈るとか、そんなのはどうでもいい。せっかくの特別な青春、謳歌しなくちゃいけないと思った。
最初はなかなか難しくて庶民に毛の生えたような男たちしか釣れなかったものの、あたしは美人というか可愛い系のスタイルをしているので、それを最大限活かしていくことにした。
「あたし、異世界に来てとっても不安なの……。仲良くしてくれると嬉しいな」
「いつも頼りにしてるよ。ありがとね」
「強くてかっこよくて、憧れるなぁ」
そんな甘言を吐くだけで、みんなあたしの虜。
男を落としていくのはなんだか乙女ゲームみたいな感じで結構楽しかった。ワンパターンさも含めてゲームそのもので、楽勝過ぎる。
そして一年以上かけてようやく王子様――じゃなくて、超絶イケメンな王様のユルゲンの恋人になるまで上り詰めた。
出会った当時で二十三、今となっては二十五歳だからかなり年上だけど、そんなの関係なかった。イケメンはイケメンだ。それに王族ならわざわざあたしが老後の介護をする必要もないから、この上ない超優良物件でもある。
これでお妃様になれる。そのはずだったのに、色々面倒ごとがあってうまくいかない。挙げ句の果て、別の女が妃になることになったと聞かされた時はうっかりブチギレそうになった。
でも、愛されてるのはあたし。
それならユルゲンに強く訴えればあの女のことは排除してくれるんじゃないかと思ってお願いをしてみたら、なんと「俺が愛するのは君だけだ。あの女とは白い結婚をするつもりだから安心しろ」なんて言ってくれた。
せっかくものにした男に浮気されるのは気に入らないから、それなら安心だ。
相手の女はそこそこの美人だったけれど、あたしにぞっこんのユルゲンは見向きもしなかった。ざまぁ見ろ。
あとはユルゲンとの赤ちゃんをさっさと作って、あの女を蹴落として、あたしが王妃になるだけ。
この世界には魔物はいるけどドラゴンだとか邪神だとかいう存在は聞いたことがないので、きっとそれでハッピーエンドを迎えられるはず。そう、思っていた。
思っていたのに――。
「あれ?」
ある朝、目を覚ましてすぐにあたしは異変に気がついた。
杖がない。聖女の証だからと常に肌身離さず持っていたはずの杖が、見当たらないのだ。
「どこ……?」
隣で裸のまま眠っているユルゲンの存在も忘れて、枕元を探る。
しかしどこにもない。
まさか、誰かに盗られたとか?
でもおかしい。そんなことはあり得ない。だって外には護衛が立っているのだ。
確かめるため、適当にパジャマを羽織って外へ飛び出した。
そして――。
不自然なほどにスヤスヤと眠りこけている護衛騎士三人を見て、あたしは目を見開いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「聖女の杖を盗んだのはあんたでしょ!?!?」
夜更かししていたせいで昼になってもまだ眠っていたら、聖女の耳障りなキィキィ声とバシッと頬を平手打ちされた痛みで叩き起こされた。
目を開けると、そこには醜く歪んだ聖女の顔がある。彼女は黒髪を振り乱し、顔を赤黒く染めて怒り狂っていた。
「……何のことでしょう?」
「とぼけるな! あんたが杖を盗んだんだ!! あたしを陥れようとしたんだろ!!!」
乱暴に胸ぐらを掴まれ、体を思い切り揺すられる。
しかし私は少しも動揺していなかった。だってもう、彼女の手に聖女の杖はないのだから。
「これから、侵略が始まります」
「はぁ? 何言って……」
「魔国からの侵略です。この国は魔国に敗する。それは決定事項です」
ああ、思わず口角が吊り上がってしまう。
聖女は私を不気味なものを見るような目で睨んだ。
きっと彼女は私が何を言っているかわからないのだろう。
わからなくていい。だって――。
「ワォォォォ――!!!」
「ウゥゥゥッッ!」
「ガアァァ――ッ!」
遠くから無数の魔物の声が聞こえてきた。
ああ、ようやくお出ましだ。一体どれほどぶりだろう。私はやっと、あの御方と再会することができる。
「ま、待って。あんた、一体何したの!」
「ですから言ったでしょう、侵略が始まると。ああ、ご安心くださいね。あなたの大事な国王陛下も、それ以外のたくさんの夜のお友達だった方々にも、傷一つつけないはずですから」
聖女は私の胸ぐらから手を離すと、大慌てで部屋を飛び出して行った。
どこかの誰かに助けを求めにいくつもりなのだろう。国王陛下か、はたまた懇意にしている騎士か。けれど誰に頼ったところで侵略は止められない。
たった一人、私を除いては。
魔物の声がどんどん迫り、城がバタバタと騒がしくなってくる。
いよいよあの御方のお出ましだろう。私はベッドから身を起こし、あの御方――魔王ブラドー様に見ていただくために用意していた美しいドレスを身に纏った。
「シュテフィ、会いたかった」
私に向かってにっこりと柔らかな笑顔を見せたのは、美しい白髪に、鮮やかな血の色の瞳をした青年だった。
彼は大型の魔物に跨ったまま、窓ガラスを破って私の部屋へと直撃してきた。
ちなみにこの部屋は城の三階部分に位置しているので、常人にはできない所業である。
勇ましくてかっこいい、私の憧れだ。
「私もお会いしとうございました、ブラドー様」
彼こそがぺトリー王国の遙か北方に広がる魔国の王。
魔物を従え、ぺトリー王国を侵略した人物に他ならない。
「全て計画通りに運んだらしいな」
「はい。聖女の杖はここに」
これを奪ったのはつい昨晩のこと。睡眠薬を盛って護衛騎士を眠らせ、聖女たちが寝入っている隙にこっそりと盗み出すだけの簡単な作業だった。
ただ、国王陛下と聖女を油断させた方がやりやすいのと、私が嫁いですぐでは私が犯人だと真っ先に疑われてしまうので、半年待たざるを得なかっただけの話だ。
足で踏んづけて破壊し、真っ二つになった杖だったものをブラドー様に差し出す。
ブラドー様はそれを満足げに眺めた後、両手に炎を生じさせて、一瞬にしてそれを消し炭にした。
「よくやった。それでこそ、ワタシのシュテフィだ。長い間辛い思いをさせてすまなかった」
そう言いながら、私の体を優しく抱いてくださるブラドー様。
それだけで夢心地になってしまう。
「いいえ、ブラドー様のためなら何でもいたします。好きでもない相手のお飾りの妃になることだって、厭いません」
「それはワタシへの恩義の気持ちからくるものかい?」
「ご冗談を。私があなた様をお慕いしているからに決まっておりますでしょう?」
私が王妃になるべく王家へ嫁ぐことになったのは、政略的な思惑によるものだ。――表向きには。
しかし本当のところは、どうしても王城に潜入し、そこで囲われている聖女と接触してその杖を折らなければならなかったからだった。
古代の神の手によって造られたとされる聖女の杖は、魔王であるブラドー様の唯一の天敵。
ブラドー様に魔の力の一部を分けていただいただけである私が、額に杖を突きつけられただけで激しい衝撃に襲われたのだ。純粋なる魔族のブラドー様があれを受けたらどうなるかはわからない。
それを排除するのが私の目的。
城に忍び込むだけなら使用人でも良かったが、私には王妃の座が必要だった。
王妃になれば家はさらに裕福になる。そう唆せば父は使えるものは使っていいから王妃になれと命じてきた。
ファミッツ伯爵家当主である父をその気にさせたらあとは簡単。財力を用いてあらゆる貴族と商業的な契約を結ぶなどして、短期間で信頼を高める。そして細密な根回しを行い、多くの貴族家に推薦されるという形で王家への嫁入りを確定させた。
と言っても、いくら計画のためとはいえブラドー様以外に身を捧げるのは断固拒否。
通常ならば王族に嫁ぐということはすなわち子作り必須である。なので国王陛下の側近に「お前を愛することはない」宣言をしたらいいと吹き込ませるように仕向けておいたのだ。
その結果は抜群で、こちらが発案したものなどと思いもせずに国王陛下は私に「お前を愛することはない」と言ったのである。
もう少しまともな王だったら……たとえ愛人がいたとしても子作りを求めてくるようなら貞操を守るために手を講じるつもりだったが、私の思い通りに動いてくれ過ぎて驚いた。
彼の愚かさを見るに、私が何もしなくても彼の治世は傾いていただろう。
――馬鹿でいてくれたおかげで、今こうしてブラドー様の腕の中にいることができるわけだけれど。
「ブラドー様、我がペトリー王国は魔国に降伏いたします。聖女マヤの命を代償とし、お許しくださいますか」
たとえお飾りだとしても、私は歴とした王妃。だからこんな茶番を打てる。王妃というものは本来、非常時には王の代行もできるくらいの権力を持つのだった。
聖女を抹殺し、ぺトリー王国を魔国の属国とすれば、ブラドー様の夢は叶うのだ。
私はかつて彼に救われた。
ファミッツ伯爵家の家庭事情は複雑で、表向きには私は生粋の貴族令嬢とされてるものの、実は妾腹の子だった。
それを理由に生家ファミッツ伯爵家では虐待同然のひどい扱いを受け、耐え切れなかった私は死を覚悟で放浪し――そこでブラドー様と出会ったのである。
行き場もなく、食べ物もなく、荒野で飢え死にしようとしている時だった。
『人の子よ、何をしている?』と私に声をかけてきたブラドー様は、食べ物をお恵みくださった挙句、魔王城へと連れて行ってくださって。
『行き場がないのなら、ワタシの仲間にならないかい?』
そんな提案までなさったのだ。
魔国は数百年前に人族に奪われたせいで国土が狭い。奪われた国土を支配し返すべく長年に渡って人の国への侵略が計画され、いよいよブラドー様の代で実行されることが決まった。
そのためには内部に人間がいた方が都合が良く、行き場のない子供は一番扱いやすい。
その旨を理解したのはしばらく後だけれど、私は生まれて初めて認めてもらえたような気がして喜んだのをよく覚えている。
首を縦に振った私は、ブラドー様と交流を持っていただくようになった。
その間ずっと魔王城にて滞在していたが、私の影武者として人の姿を模す魔物がファミッツ伯爵家に送られていたため誰も失踪に気づかなかったという。
それで数年間騙され続けていた伯爵家の人間の目は節穴でしかない。
と、それはともかく。
膝に乗せられたり、甘いお菓子を『あーん』し合ったり、一緒に出かけたりなどのまるで恋人同士のような戯れを繰り返した。
最初は種族が違うこともあって萎縮していたが、ブラドー様に恋心を抱くようになるまで、それほど時間はかからなかったと思う。
――この人に与えられたものを返したい、幸せにして差し上げたい。
私がブラドー様の駒なのだと彼自身の口から教えられてもなお、その思いは薄れることはなかった。
だって、本当にただの駒として使い捨てるならば秘したままでいいはずだ。
『本当はお優しいくせに、まるで悪人のようにおっしゃるのですね』
そう指摘すると、ブラドー様はわずかに頬を赤らめて、『別に優しいわけではない』と否定した。
『可愛いシュテフィを好きになってしまったから、利用するのが申し訳なくなったのだ』と。
まさか両想いだったなんて思ってもみなかったので仰天し、大歓喜すると共に、私はますますブラドー様に惚れた。
そして数年後、時は満ちる。
それまで影武者をしていた魔物と何食わぬ顔で入れ替わり、伯爵家に戻ることになった。
『シュテフィにしかできないことなんだ。ワタシの力を授けよう。どうか、無事にワタシの腕の中に帰ってきてほしい』
当然ながらブラドー様と離れたくはなかった。
けれど、ブラドー様に力を託され、無事を願われたから、些細な私情など簡単に投げ捨てて何もかもやってのけられたのである。
「ありがとう、シュテフィ」
「お礼を申し上げたいのはこちらです。――あなた様のお役に立てて、本当に嬉しいのですから」
まもなく魔物たちの手で聖女が捕らえられる頃だろう。
私は微笑み、ブラドー様の魔族特有の紫色の唇に口付けた。
最初から何もかもブラドー様と私の掌の上だった、その事実に気づいてももう遅い。
聖女の最期は笑ってしまうくらいに見苦しいものだった。
「嫌だ! やめてよ!! あたしは主人公なの。この世界の主人公なのよ。こんなことが許されていいと思ってる!? クソ、杖が、杖さえあれば!!」
「お願い、許して! あんたをいじめたこと、謝ってあげるからさぁ!」
「死にたくない……死にたくないよぉっ。助けてユルゲン。助けて、誰でもいいから……」
四肢を縛り上げられ、みっともなく泣き喚く聖女。
必死の命乞いを聞き入れることなく、そして無駄に苦しめることもなく、ブラドー様はスッと彼女の首を断った。
おそらくはあのどうしようもない聖女にとって、死こそが一番の救いだったと思う。死んだら魂だけでも彼女の故郷に帰れるかも知れないし。
本当にブラドー様はお優し過ぎる。
「何事だ!? 大丈夫か、マヤ!」
聖女の声を聞きつけたのだろう、大勢の兵を引き連れてきた国王陛下はその惨状を見て呆然と立ち尽くす。
さらには瞬時に突撃してきた兵たちも軽くねじ伏せられて、一瞬にして彼の味方はいなくなった。
まさに孤立無援の国王陛下。その姿に国王の威厳など微塵も見えない。
――ああ、なんて滑稽だこと。
「たいへん遅いお出ましでございましたね、国王陛下」
懐から扇を取り出し口元に宛てがいながら、肩を震わせくすくすと笑う。
ブラドー様は黙って私を抱き寄せていた。
「お前は……っ。お前、なぜ魔族と共にいる! まさかお前が!!」
「ええ、そのまさかでございます。しかもただの魔族ではございません。魔王、ブラドー様であらせられます」
「王妃の身でなんたる不貞を!」と叫び出す国王陛下だが、ますます意地の悪い笑いが止まらない。
「それは国王陛下も同じことでしょう。どうして伴侶の他に想い人がいるのがご自身のみだとお思いだったのですか?」
そんなに愚かだから、国を乗っ取られるのだ。
もう少し私の行動に注視していれば気づけたかも知れない。仮に気づけたとしても、その途端に私が聖女の杖をへし折っただけだけれど。
「聖女のことは残念でございましたが、彼女より魅力的で可愛らしい少女など、平民を探せばいくらでもいることでしょう。ただし、ブラドー様にご迷惑をかけない方をお選びください。次はブラドー様のお手を煩わせる以前に私が殺してしまいますからね」
「――っ」
「私はお飾りの王妃という立場に不満はございません。ですからこれからも続けて差し上げますよ。――ペトリー王国の王妃兼、魔王ブラドー様の寵妃を」
実は私はすでにブラドー様の妃になっている。ぺトリー王家に嫁ぐ前、彼に想いを告げられた瞬間に。
歓喜のあまり勢い余って「結婚してください」と言ったら、驚いて血の色の瞳を瞬かせながらも承諾してくださったのだ。魔国で盛大な結婚式を挙げてもいる。
本音を言ってしまえば、ブラドー様の寵妃であれば他の地位なんて何も要らない。
けれども私には務めがある。王妃の権力を振りかざし国王陛下を黙らせ、ブラドー様がなるべく平和的にぺトリー王国を支配する一助になるという務めが。
「仮初の夫として、そしてお飾りの国王として、末長くよろしくお願いいたしますね」
言葉の意味を理解したらしい国王陛下の表情が絶望に染まる。あれほど傲慢な男だ。自分がお飾りになることなど考えもしていなかったのだろう。
彼はもう文句の一つも漏らせないのか、音もなく膝から地面に崩れ落ちる。それきり立ち上がる素振りは見られなかった。
やっとこれで一段落着いたらしい。
しばらく国王陛下の無様さを笑い続けた私は、やがてブラドー様を振り向いた。
「お待たせして申し訳ありませんでした」
「待たせたなんてとんでもない。シュテフィの勇姿は見ていて楽しかった」
くつくつと喉を鳴らすブラドー様が、私の髪をそっと撫でながら、耳がとろけてしまいそうになる心地の良い声で囁く。
「シュテフィ、ご褒美をあげよう。何がいい?」
「……それなら。魔王城へのエスコートをお願いできますか、ブラドー様」
長らく触れ合えていなかったのだ。これくらいのわがままを言ってもいいだろう。
優しいブラドー様なら、どんな無茶振りでも聞き入れてくださるに違いないけれど。
「そんなことでいいのか」
「ブラドー様のお手に触れられるのですよ。充分過ぎるくらいのご褒美でございます」
「シュテフィは本当に愛いな。さすがはワタシの寵妃だ」
重ね合わされる互いの手。ブラドー様の肌は血が通っていないかのように白く美しい。
それに見惚れているうちに、ふわりと体が宙に浮いて、私たちはそのまま窓の外へと飛び出し――消えた。
魔族にだけ使える転移の魔術。私はこれを用いて、ぺトリー王国と魔国を一瞬で渡り、それぞれの妃を務めていく。
ぺトリー王国では女を取っ替え引っ替えして遊びにかまける愚王の代わりに国を動かす賢妃、魔国ではブラドー様に甘やかされる寵妃。その未来を想像して、思わず笑みが浮かんだ。
最初はぺトリー王国の民は受け入れないかも知れない。でもきっと大丈夫だ、ブラドー様のお優しさは、きっと下々まで伝わるはずだから。
両国の先行きはきっと明るい。
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