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野生子は水原を従え、試着室に向かった。先ほどまで開いていたはずのカーテンが、今は閉め切られている。
「お客さま、どうなさいました? わたくし、店長でございますが」
声をかけても返事がない。水原に向き直り、小声で問いただした。
「何があったの、どんなお客さまだった?」
「うーん、それがよくわからなくて」
そんなはずないだろ、と睨みつける。水原は首をすくめた。
「挨拶に反応しないから、声をかけられたくないんだと思ったんですよー。そしたら、これ試着しますって中に入っちゃって。あっ、着ていた服は黒でした」
売上に気を取られてはいたものの、確かに視界の端で黒い人影が動いていたような気がする。どうやら何かあったらしい。野生子は再び前を向いた。
「お客さま、カーテンを開けてもよろしいでしょうか。……開けますね? 失礼します」
内側のフックに引っかけたタッセルを手探りで外す。少しだけ開いた隙間に顔を突っ込み、中を探ろうとして野生子は動きを止めた。ため息をつき、カーテンを全開にする。
「あれっ」
水原が声を上げる。試着室は無人だった。
「もしかして帰っちゃった?」
「だとしたら、あなた不注意すぎるでしょ」
スペースを広く取った試着台の中央に、黒いワンピースが落ちている。タグ付きなので、これを試着するつもりだったのだろう。野生子はワンピースを拾い上げた。事務的なしぐさで匂いを嗅いだかと思うと、鼻にしわを寄せて顔を離した。
「なんてこと。瘴気が発生している……」
厳しい表情で試着台に上る。周囲を見まわし、大きな姿見の前に立った。
「ここかしらね」
指先を鏡面の中央に軽く当て、野生子は口内で何ごとかをとなえた。すると磨きこまれた鏡面が、波紋のように揺らぎはじめる。興味津々でのぞき込んでいた水原が歓声を上げた。
「すっご、さすが魔女ですね! 動画撮ってもいいですか?」
「お黙りなさい」
ところで先ほどから瘴気だの魔女だのと言っているが、ファッション業界には珍しいことではない。ご存じのとおり、魑魅魍魎のうごめく世界なのだ。
ぐにゃぐにゃになった鏡は指先を中心に渦を巻き、ついには試着室の壁に大きな横穴をあけた。
「なんですか、これ」
「迷宮よ。こんなところに作った覚えはないのだけれど……。どうやらお客さまの抱えていたネガティブな感情が、店内に溜まっていた『陰』の気と反応して呼び込んでしまったらしい」
野生子は腕を組んだ。『陰』の気が溜まったのは自分が売上台帳を見ていたせいではないかとも思ったが、それについては黙っていた。
「とにかく、お客さまを探さないと」
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