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第一章 霧の町ミストムーア
車輪が土を踏みしめる音が、不自然なほど重く聞こえる。
初夏だというのにやけに肌寒い。家から持ってきたショールを広げ、膝をそっと覆いながら、シンシアは胸の奥で今日何度目かのため息を飲み込む。
馬車の固い座席に揺られ、どれほどの時が経っただろう。王都の賑やかな喧騒が遠い昔のように感じる。かといって、避暑地特有の清々しい空気や、爽やかな小鳥のさえずりが聞こえてくるわけでもない。
感じるのは湿気を孕んだ重苦しい森の空気と、自分の吐息がやたら大きく聞こえるほどの静寂だけだ。
(でも大丈夫。きっとうまくいく)
シンシアは目を細め、閉じ切った窓の向こうを眺める。
(ここならもう、誰もいない。お父様も、お母様も、ミアも……アルフレッド様も)
静寂。そう、静寂。
これを求めて、この地に来ることをシンシアは選んだはずだ。煩わしい人の目や、口さがない噂話、陰謀、暗躍、下心、邪念、そして裏切りと嘲笑。
心を縛る数多の重荷から解き放たれたいと思ったから、シンシアは家族を捨てて一人になることを選んだ。
王都から遠く離れた、縁もゆかりもない町だからこそ、傷ついたこの心を癒してくれると思ったのだ。
馬車の座席がぐらぐら揺れる。ぬかるみの中を進んでいるようだ。さすがに腰が痛くなってきて、シンシアは居心地悪そうに座席に深く座り直す。
と、馬車が停まった。御者はシンシアへは声もかけず、ぎっ、ぎっ、と踏み板を軋ませて馬車から降りて行ったらしい。
どうせその場限りの借り馬車である。御者の質も期待してはいない。シンシアは気を取り直し、ドレスと揃いでこしらえた白い帽子を目深にかぶると、自ら進んで手を伸ばし、馬車の扉を押し開けた。
――そこに広がる、霧の世界。
まっすぐに伸びた杉の木々の、合間に立ち込める細かなかすみ。ほんの少し顔を上げただけで肌が粟立つほど冷たいのに、その冷気が不思議と心地よく胸の中まで浸透していく。
足元に無数に広がる、あの小さな花はなんだろう。薄い紫色の花がびっしりと敷き詰められていて、森の寒さに震えるみたく濡れた頭を垂れている。
そしてその霧の中に佇む、小さくぼろぼろの城――ああ、でも、美しい白壁といい、濃緑色の屋根の洒落た作りといい、多少年季は入っているものの上品で落ち着きある佇まいだ。
(美しい場所。まるで絵画みたい)
空は想像と変わらず重苦しい曇天だというのに、さきほどまでの陰鬱な空気は嘘のように消えてしまったようだ。
王都の華やかさとはまるで違う、濡れた森の醸し出す柔らかな沈黙に圧倒されながら、シンシアは呆然と口を開けたまま震える足を馬車の外へ出す……すると。
「お手をどうぞ」
急に傍から声が聞こえて、はっ、とシンシアは息を呑んだ。
馬車のすぐ傍に年若い青年が立ち、白手袋の右手を差し出している。夕闇に似た濃紺の髪に、切れ長の金色の瞳。黒の燕尾服に包まれた細身の身体に長い足。
思わず目を見張ってしまうほど彫刻じみた美貌だが、不思議と冷たさを感じないのは、彼がシンシアをまっすぐ見つめ、微笑んでいるからだろうか。
もう一度、促すように軽く小首をかしげられ、我に返ったシンシアは平静を装い青年の手を取る。そしてそのまま馬車を降りると、「ありがとう」と礼を述べ、その優しい目線から逃れるように再び城を見上げた。
馬車の音を聞きつけたのか、城からぞろぞろと人が出てくる。年老いた使用人に中年のメイドたち、厩番らしい少年が一人。
王都の実家と比べれば、召使の数は多くないし、ウィットに富んだ会話も、高尚なやり取りも期待できないだろう。
でも。
「華の王都から遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」
左手を胸に当て、青年が深く頭を下げる。
その頭が、ゆっくりと上がる。……今度は彼とまっすぐに目を合わせ、シンシアは妙に晴れやかな、力強い気持ちで微笑んだ。
「どうぞよろしく、ミストムーアの皆さん。私はシンシア。――今日から私が、貴方たちの主です」
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