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(ああ――)
最悪。一番お気に入りの帽子だったのに。
だがここまで距離が離れたら、どんなに頑張って走り続けてもきっと手は届かないだろう。
シンシアは疲労のままその場で足を止めると、ただただぬかるみへ吸い込まれていく帽子を呆然と見送った。
けれどそのとき、ふいに後ろから一陣の突風が吹き抜けた。風はシンシアのすぐ隣を音を立てて走り抜け、唖然とする間もないままにまっすぐ帽子へと距離を縮める。
大地を蹴る力強さ。そしてそのまま、彼は落ちゆく帽子へ手を伸ばすと、
バシャン!
と、自らの左足を水たまりに思い切り突っ込み、泥水を跳ねさせながら振り返った。
「セーフ!」
シンシアはただ、呆然と――夢でも見ているかのように彼を見る。
あまりにも爽やかなセオラスの笑顔。彼の綺麗なスラックスの左足は泥に汚れ、靴も靴下も茶色い泥水がこびりついている。
だがセオラスはそんなことなど少しも気にする様子はなく、いつもどおりの足取りでシンシアの元まで戻ってくると、
「間に合いましたよ、シンシア様」
と言い、真っ白な帽子を差し出した。
シンシアはまだ唖然としてセオラスを見上げていたが、やがてはっと我に返り、おずおずと帽子を受け取る。
「あ……ありがとう」
「いえ」
セオラスはにこと微笑み、それからようやく思い出したように、左足を軽く持ち上げ恥ずかしそうに苦笑した。
「さすがにこのままではいられないので、一度戻って着替えてきますね。お茶の用意はその後になってしまうので、お待たせしてしまうかもしれませんが」
「あっ、ええ。大丈夫」
「ありがとうございます。では、失礼します」
セオラスは小さく頭を下げ、再び城の中へと戻っていく。風になびく濃紺の髪、小さくなっていくその背中。
こんなところで立ち止まったまま見送る必要なんてないのに、ぎゅっと帽子を握りしめたまま、その背中から目を離せない。
シンシアの頭の中では、セオラスの笑顔が狂ったようにリフレインしていた。
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