第一章 霧の町ミストムーア

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*  ミストムーアでの暮らしは、まさに平穏そのものだった。  毎朝鳥の声で目を覚まし、ひとり静かに朝食を食べ、庭を散歩したり、本を読んだりしながらのんびり一日を過ごす。  遠巻きに眺めてくるばかりで愛想の悪いメイドたちも、今のシンシアに言わせれば却って静かで好ましいほどだ。 (さて。きりの良いところまで読み終えたし、眠気覚ましに外へ出ようかな)  読み途中の本に栞を挟み、シンシアは軽くのびをする。それから上着も羽織らないまま、ふらりと庭へ足を向けた。  美しく整えられた庭だ。道には枯草のひとつもなく、つつじの低木が軒を作り、薔薇のアーチがところどころに設けられている。初夏にもなれば様々な花があちこちを彩るだろう。 (誰が手入れしているのだろう。庭師はいなかったはずだけど……)  なんて、膨らみ始めた花の蕾を指先で軽く持ち上げていると、 「定期的に王都から庭師を呼び寄せているのですよ」  と、急に背後から男の声がかかり、シンシアは肩を跳ねさせた。  歳の頃は三十代に入ったばかりと言ったところか。艶のある黒髪を後ろへ流し、形の良い燕尾服に身を包んだ長身の男が、余裕たっぷりの色気ある笑みを浮かべて立っている。  いったいいつ来たのだろう、足音など聞こえなかったのに。戸惑うシンシアを見下ろし、男は微笑ましそうに目を細めた。 「ふふ、驚かせてしまったようで申し訳ございません。私はパーシヴァル。当城の執事長でございます」 「執事長……」 「仕事は主にミストムーアの領地管理と財政全般。ここ数日は仕事の都合で町を離れておりました。ご挨拶が遅れたこと、誠に申し訳ございません。……我が主人、シンシア様」  言いながらパーシヴァルはその場に膝をつき、シンシアの左手を取ると、緊張できゅっと縮まる指先にそっと唇を近づける。  さすがに直接触れることはなく、キスをする真似をしただけだが、それでもこの馴れた態度はシンシアを警戒させるには十分だった。  強く口をつぐんだシンシアの姿を、パーシヴァルはいったいどのように解釈したのだろう。彼はニッと、満足そうに両の口角を持ち上げてから、 「こうした挨拶はお嫌いでしたか?」  と軽薄そうな笑みを浮かべる。 「嫌いというわけではないの。ただ、少し驚いただけ」 「そうでしたか。嫌われてしまったのではないかとヒヤヒヤしましたよ」 「ロマンチストなのね。まるで貴族の殿方みたい」 「魅力的な男の条件といえば、ロマンチストかミステリアスであることです。あいにく私は嘘のつけない正直な男だったので、前者の道を選ぶしかなかったのですよ」  はやく話が終わらないかな。シンシアは辟易してきた。  このパーシヴァルという男、財務の一式を取り仕切っているのだからさぞ優秀なのだろうが、くどくど長い言い回しといい、大袈裟な仕草や態度といい、シンシアがずっと苦手にしてきた貴族の男たちにそっくりだ。  ミストムーアならこういう輩と話さずに済むと思っていたのに、なかなか上手くいかないものだ。内心ため息をつくシンシアを無視して、パーシヴァルは腰に下げていた小さな日傘を取り出す。 「ところで、これからお散歩ですか? シンシア様の日陰となる名誉を頂けると嬉しいのですが」
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