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ミストムーアでの暮らしは、まさに平穏そのものだった。
毎朝鳥の声で目を覚まし、ひとり静かに朝食を食べ、庭を散歩したり、本を読んだりしながらのんびり一日を過ごす。
遠巻きに眺めてくるばかりで愛想の悪いメイドたちも、今のシンシアに言わせれば却って静かで好ましいほどだ。
(さて。きりの良いところまで読み終えたし、眠気覚ましに外へ出ようかな)
読み途中の本に栞を挟み、シンシアは軽くのびをする。それから上着も羽織らないまま、ふらりと庭へ足を向けた。
美しく整えられた庭だ。道には枯草のひとつもなく、つつじの低木が軒を作り、薔薇のアーチがところどころに設けられている。初夏にもなれば様々な花があちこちを彩るだろう。
(誰が手入れしているのだろう。庭師はいなかったはずだけど……)
なんて、膨らみ始めた花の蕾を指先で軽く持ち上げていると、
「定期的に王都から庭師を呼び寄せているのですよ」
と、急に背後から男の声がかかり、シンシアは肩を跳ねさせた。
歳の頃は三十代に入ったばかりと言ったところか。艶のある黒髪を後ろへ流し、形の良い燕尾服に身を包んだ長身の男が、余裕たっぷりの色気ある笑みを浮かべて立っている。
いったいいつ来たのだろう、足音など聞こえなかったのに。戸惑うシンシアを見下ろし、男は微笑ましそうに目を細めた。
「ふふ、驚かせてしまったようで申し訳ございません。私はパーシヴァル。当城の執事長でございます」
「執事長……」
「仕事は主にミストムーアの領地管理と財政全般。ここ数日は仕事の都合で町を離れておりました。ご挨拶が遅れたこと、誠に申し訳ございません。……我が主人、シンシア様」
言いながらパーシヴァルはその場に膝をつき、シンシアの左手を取ると、緊張できゅっと縮まる指先にそっと唇を近づける。
さすがに直接触れることはなく、キスをする真似をしただけだが、それでもこの馴れた態度はシンシアを警戒させるには十分だった。
強く口をつぐんだシンシアの姿を、パーシヴァルはいったいどのように解釈したのだろう。彼はニッと、満足そうに両の口角を持ち上げてから、
「こうした挨拶はお嫌いでしたか?」
と軽薄そうな笑みを浮かべる。
「嫌いというわけではないの。ただ、少し驚いただけ」
「そうでしたか。嫌われてしまったのではないかとヒヤヒヤしましたよ」
「ロマンチストなのね。まるで貴族の殿方みたい」
「魅力的な男の条件といえば、ロマンチストかミステリアスであることです。あいにく私は嘘のつけない正直な男だったので、前者の道を選ぶしかなかったのですよ」
はやく話が終わらないかな。シンシアは辟易してきた。
このパーシヴァルという男、財務の一式を取り仕切っているのだからさぞ優秀なのだろうが、くどくど長い言い回しといい、大袈裟な仕草や態度といい、シンシアがずっと苦手にしてきた貴族の男たちにそっくりだ。
ミストムーアならこういう輩と話さずに済むと思っていたのに、なかなか上手くいかないものだ。内心ため息をつくシンシアを無視して、パーシヴァルは腰に下げていた小さな日傘を取り出す。
「ところで、これからお散歩ですか? シンシア様の日陰となる名誉を頂けると嬉しいのですが」
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