第一章 霧の町ミストムーア

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「そういうわけじゃないの。ただ、楽しいなって思っただけ」 「そうですか、安心いたしました。うるさく感じられたなら、遠慮なく仰ってくださいね」 「うるさいなんて、そんなことない。むしろ素敵な声だと思う。穏やかで、優しくて、少し低いところが心地良い。早口じゃないから聞き取りやすいし、話の内容も面白いし……」  この城で暮らす使用人たちは、皆あまりシンシアと関わろうとしてこない。新たにやってきた年若い主人がいったいどの程度のものなのか、値踏みするような眼差しで遠くから眺めてくるばかりだ。  もちろん雇われ人ではあるので相応の働きは見せるものの、人と人との繋がり、親しみ、絆のようなあたたかなものを、この城の生活の中で感じることはほとんどなかった。  その点セオラスだけは、最初からシンシアに好意的だった。ここで働くどのメイドよりもシンシアの傍近くに仕え、事あるごとに声をかけたり、こうして世話を焼いたりする。小難しい本の話に付き合ってくれるのも彼だけだ。  人を避けるよう王都を離れた身で勝手なことだとは思うが、シンシアは正直なところ、セオラスの存在にはかなり救われていたのだ。少なくとも、困ったときにうっかり名前を出してしまう程度には。 「ミストムーアは魅力的な場所だけど、一番素敵なのは貴方かもしれないね」  それは本当になんの気なしに、ぽろっと口からこぼれ出た言葉だった。  だが、言った途端にはっと気づいて、シンシアは弾かれたように顔を上げる。そしてセオラスの紅潮した頬、見開かれた瞳に気づいた瞬間、彼女の頬もまた彼に負けない鮮やかな朱に染め上がった。 「ええと……これは、その、」 「は、はい。……」  二人の間に沈黙が舞い降りる。遠くで名もなき渡り鳥が二羽、囁くような声で鳴いている。  ふいにどこかから風が吹き抜け、白い日傘を激しく揺らした。大きく翻る傘の柄を急いで両手で握り直す、その際セオラスの左足が一歩大きくシンシアへ近づく。  自然、されるがまま縮まった距離に、身構える間もなく彼の顔を見上げ、シンシアは言葉を忘れたようにただ息を呑んだ。  間近に見えるセオラスの面立ちが、紅潮はそのまま、しかし真剣に、力強く引き締まっていたからだ。 「……初めてシンシア様をお迎えしたとき、本当に驚きました。この世にはこんなに美しい、天使のような方がいるのかと」 「そ、そんな」 「その時の気持ちは……今でも変わっていません。むしろ貴女のことを知るたびに、私の想いは日増しに強く、激しくなっていくくらいです」  そこで一旦言葉を切り、セオラスはふわりと、溶けるように笑った。 「ミストムーアの新たな主が、シンシア様でよかった」  どき、と。  胸が熱くなるのがわかる。心臓の鼓動が早鐘を打ち、みるみるうちに体温が上がる。  セオラスの整った顔が――透き通るような金色の瞳が、ただまっすぐに自分を見つめる、それだけ全身が震えて。  その瞳から逃れたいような、見つめていて欲しいような……相反する二つの感情が胸の内をせめぎ合い、シンシアは吸った息の吐き方すらわからなくなる。  そのときだった。 「おやおや。まるで王都の恋愛劇でも見ているようだ」  からかうような明るい声に、先に反応したのはセオラスだった。彼はさっきまでの熱のこもった眼差しが嘘のように、瞳を鋭く尖らせて声のした方をねめつける。 「執事長……」 「お楽しみのところを申し訳ないね、セオラス。しかしこちらの件については、我が主人に早めにお伝えせねばならんと思ってね」  パーシヴァルは遠慮なくシンシアの方へ歩み寄ると、ベストの胸元から一枚の白い封筒を取り出した。 「シンシア様へ、王都から――ご両親からお手紙です」
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