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「そろそろ始まるぞ」
ぼそりと、ガイウスが呟く。その呟きを合図にしたように、突然歓声が上がった。
彼らの視線の先を見れば、赤いドレスを身にまとった肉感的な美女がゆっくりと歩いてきているのが目に入る。
艶やかな笑顔を浮かべた彼女は、カウンターの横の少しだけ高くなったスペースまでやって来るとそこでゆっくりとお辞儀をした。
「じゃあ、始めるわね。まずは『楽しい我が家』から」
そんなに大きな声を出したわけでもないのに、ややハスキーな彼女の声はざわつく店の隅までよく通る。
しん、と一瞬店内が静まり返った。
その瞬間を見逃さず、目立たぬところに待機していた伴奏者が弦楽器を鳴らしはじめる。
居酒屋の雑音が鳴り響く中で、彼女のコンサートは唐突に始まった。
――それは、セレーネの知るどんな歌とも違うものであった。
教会で歌う荘厳な讃美歌でも、母が聴かせてくれた穏やかな愛情に満ちた子守唄でもない。
それは生きる喜びを歌う歌であった。日々の大変さを乗り越える勇気の歌であった。抑えきれぬ恋の熱情の歌であった。
どれもこれも生々しい感情に満ちていて、聴いている者の心を突き動かしていく。
そして、歌に対する反応もまた、さまざまであった。
手拍子を叩いて盛り上がる者、知っている曲を一緒に口ずさむ者、歌に耳を傾けながら食事を楽しむ者、歌を一切気にせずおしゃべりに興じる者――その反応まで含めて彼女の歌は店の雰囲気によく合っていて、至って自然でそして自由であった。
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