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 目をつぶって、と言われてまぶたを閉じ、あ、いまちょっと宙に浮いたのかな? と思った一瞬後には、もう……  熱烈に、唇を奪われていた。  やだ、気持ちいい……  するっと歯の間を割って入った舌が、口蓋をなでるたび、背筋にぞくぞくと快感が走る。  契約結婚なのに、これは、やりすぎでは…… と思わないでもないけれど……  私から突き放すことなんて、とてもできない。  だって、彼に求められるのを、嬉しいと感じてしまっているから…… 「なんだっ! この男は! ノーラ嬢、あなたという女は……! 僕というパトロンがいるのに……!」  途中から、やたらとうるさい叫び声がすぐ隣からあがるようになったが、ヴィロルフはまだ離してくれない。  たっぷり数十秒後。やっと顔が離れる ―― と同時に、紫の影が猛然とヴィロルフにつかみかかっていった。 「ちょっと、キミぃっ! 僕のノーラ嬢と、どういう関係だ!」 「ああ、おまえが、我が()()()()のパトロンか…… たしか、ブライトシュタット公爵家のボンクラ息子、ザルベルトだったな。昨日は我が()()()()()()()()()()をずいぶん楽しんでくれたようで」  ヴィロルフ、他人には、まじで上からだな……  ザルベルトよりヴィロルフのほうが頭ひとつぶん、背が高い。なのに偉そうにアゴをあげるから、より強調される見下(みくだ)し目線。  これはされたら、ムカつくわ……  ザルベルトの顔がいろんな色にかわって、最後は赤紫になった。スーツといいグラデーションだ。 「つつつつ、妻だとっ……!?」 「そうだ。俺は、ノーラの最愛の夫にして…… と名乗らずとも、当然、俺の名くらいは聞いたことがあるだろう?」 「知らないな! キミのことなどっ!」 「ほう…… これでも?」  とたんに、ザルベルトの身体が空中に持ち上がった。そのまま、見えない巨人に襟首をつかまれているように、ずるずると引きずりあげられていく。 「離せっ! 離せっ!」  じたばたと暴れるザルベルトの目の前には、歌劇場の正面を飾る大看板 ―― 『大魔法使いヴィロルフ・ニーマンの遍歴(へんれき)』 ―― 「俺の名を知らぬのなら、いま覚えておくのが身のためだ」  見えない巨人の手に、ぽいっと放り出されて尻もちをついたザルベルト。  バネが跳ねるみたいに起き上がると、 「タダですむとは思うなよ!」 などと、いかにも三下ザコっぽいセリフを吐きながら逃げていった。  ヴィロルフは、なにごともなかったように、ほつれた私の髪をなおして微笑む。 「では、行ってらっしゃいませ、お嬢様…… 一番いい席から、見守っております」 「ありがとう…… あの、せめて外では、執事ムーヴやめませんか?」 「俺に死ねとおっしゃるので?」 「ごめんなさい、もう言いません」 「ありがたき幸せに存じます」  ヴィロルフはもう一度、私の額にキスを贈って見送ってくれた。  逃げたザルベルトは、とりあえず支配人に文句を言ったらしい。  控え室に入ると、支配人と監督とザルベルトが、待ち構えていた。 「こんなタイミングで急に結婚するとは、なんてことだ!」 「主演女優(プリマドンナ)の自覚がないのかね、君は」 「仕事にプライベートは関係ないと思いますが……」 「口ごたえをするな! 君は、ザルベルト様が役を買ってくれなければ、デビューすることもなく朽ち果てる身だったんだぞ! わかっているのか!」 「まったく、上になんの相談もなく、やらかしてくれたものだ!」  交互に責めてくる、支配人と監督。  その様子を、ザルベルトはニヤニヤしながら眺めている。  と、急に。  控え室の照明が落ちた。怒気をはらんだ声が、ひびく。 「俺の最愛の妻を、こうも責めてくれるとは…… まだ、お仕置きが足りなかったようだな」 「ロルフ?」  暗闇のなか、ヴィロルフの体温が私を抱きしめる。 「こんなこともあろうかと、俺の痕跡を残しておいて良かった…… 今後は、ノーラの居る場所なら、どこでも駆けつけられる」 「もしかして、さっきのキス……?」  返事のかわりに、また唇をむさぼられた。  しばらくしてヴィロルフが去り、再び灯りが戻ったとき。 「ごめんなさい……」 「うううっ、うっ、うううう……」 「ごめんなさい、もうしません……」  ザルベルト、監督、支配人の3人は、床に膝をついてひれ伏し、空中に向かって、すすり泣きまじりの謝罪を繰り返していた。  いったいヴィロルフ、なにをしたんだ ――  あとで教えてくれたところによると。  ヴィロルフは、それぞれにとって、いちばん怖い人の幻影を呼び出して説教させたらしい。 「どうも、ザルベルトは母親で、監督は奥さん、支配人はウン十年前に今の奥さんの色香に騙されて婚約破棄した、某令嬢であるらしいんだが」  うん、人生、いろいろ。  ―― その後は、とくに何も言われることなく、公演の日々が過ぎていった。  そして私の人気は日を追うごとに高まっていった。なんと、最終日のチケットはどこでも手に入らず、裏では10倍の値段で取引されている、という噂まで出回るようになっている。  半年後には私のために書き下ろした歌劇も上演できるよう、交渉も始まったそうだ。  なにもかも、順風満帆 ―― と、言いたいところだけど。  そう、うまくはいかないのが、現実というもの。    ちょっとした、けれど私にとっては重大な事件が起こったのは、公演最終日の翌日のことだった。
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