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「いったい、どんな手をつかったのかしら」
「そんなの、枕しか、ないじゃない?」
「お偉いさんたちを、たらしこんだんでしょうよ」
「あの貧弱な、からだで?」
練習場の更衣室。
ひそひそ聞こえよがしな声に、プークスクスクス、と笑いが混じる。
「あたし聞いたわよ。なんでも、彼女のファンとかいう変わり者が、大金はたいて役を買ったらしいわ」
「うそ。あのひとに、そんなファンが、つくわけないじゃない?」
「だって、金の力以外に、なにが考えられるのよ?」
「もうあとのない、崖っぷちの売れ残り年増だもんねえ」
また、笑い声 ――
私は黙って、練習用の靴に入っていたガラス片をゴミ箱に捨てた。とんとんと靴の底を叩き、中身をきれいに落とす。
あとのない、崖っぷちの売れ残り年増…… ほんとうのことだ。歌劇場では18歳を過ぎるともう、年寄り扱いなんだから。失礼な話だけど。
だからこそ、引退前に華を飾ってやろうと…… 私の実力と努力を監督が認めてくれて、そうしたのだと…… 私は、信じている。だって 『死霊の女王』 は誰にでも歌えるわけでは、ないのだから。
なんといわれようと、かまわない。
与えられたときが遅すぎようと、チャンスはチャンスだ。
しっかりとゴミを落とした靴をはき、紐をしめて私は立ち上がり、祈る。
―― どうか、神様。
悔しいとか、腹立たしいとか、負かしてやりたいとか、認められたいとか……
そんな、つまらない気持ちを引きずったまま、私が歌うことが、ありませんように。
どんな気持ちだって、人としては当然だし、それを抱くのが悪いわけじゃない。
けど、私は思うのだ。
舞台はあらゆる感情と想いをのせていながら、それよりも、もっとずっと尊いものだと。
神様なんか信じるには、私の人生はそこそこハードだった。
それでも、舞台に立つこのときだけは、神様の存在を感じずにはいられない。神様に、祈らずにはいられない。
芸術は、どんな方法であったって、結局は人間が人間を超越したものに近づく手段なのだ ――
息をしっかり整えると、私は最初の音を出した。
※※※※※
この国で大人気の歌劇 『大魔法使いヴィロルフ・ニーマンの遍歴』 ―― 史上最強といわれる実在の大魔法使いの、冒険譚である。『死霊の女王』 は、そこで出てくる敵役だ。
だが、歌劇ではこちらが主役扱いになる。
歌劇での主役はあくまで、最高音を歌う者なのだ。『死霊の女王』 は、そのなかでも代表格。
低いアルトの音から歌いだして人の出せる最高音まで駆けあがり、そこから最高音域で声を玉のように転がす、コロラトゥーラが続く。
うかつに手を出すと、間違いなく喉を痛めるだけで終わってしまう。歌いあげるだけで難しく、美しさや演技までくわえて完璧にこなすのは、さらに難しい、奇跡の歌 ―― 作曲家はたぶんドSだな。
それでも私は、完璧を目指す。
初日。
ちらほらと空席の目立つ客席は、歌いだしたとたんに気にならなくなった。
―― 地底から響く角笛で、あまねく死者を呼び起こそう。
羨望よ、嫉妬よ、怒りよ。
傷ついた心があげる、悲しき叫びよ。
いかに時が経とうと薄れることのない、恨みよ。
―― 決して眠ることのない、死者どもよ。
わたしはそなたらの仲間、わたしはそなたらを統べる者。
いまこそ、集え、声をあげよ。
狂気を、解き放て。
目の前の敵。大魔法使いヴィロルフを
叩き伏せ、蹴散らせ、切り刻め、粉砕せよ
あとには塵ひとつ、残らない……
殺せ、殺せ、殺せ、殺せ ……
低い声は体腔をひろげて、ゆったりと大地を包むように響かせる。
高い声は、体幹を支えに頭蓋のうしろに投げる。舞台の反響板にきっちり当てれば、透明で豊かな音になって客席に帰る。
彼方から射す、日の光のように。
コロラトゥーラは腹筋のコントロールだ。一瞬でも狂えば、音が重くなる。逆に、力を無駄にいれると、音が切れて飛んでいく。1ミリの緩みも許されない。
集中。
それだけが、お客様を物語の世界に案内する鍵となる。
歌うとき、私はいつも広大な道の真ん中で必死に足を運ぶ小さな蟻だ。
道はどこまでも続く。はるかな高みへ ――
そこにたどり着いたとき、なにが見えるんだろう。
歌うとき、私の胸はいつも震えている。
まだ見たことのない景色への、期待と憧れで。
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