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控え室の椅子に、私はぼんやりと腰をおろしていた。
舞台がはけたあとも、まだ 『死霊の女王』 が、私のなかに残っている ―― 私自身であっては決して味わうことのない、激しすぎる憎悪と怒り。
炎のような感情は、むしろ生き生きとして、目を離さずにはいられない魅力があった。
彼女は 『悪』 なのではない。そう感じた。
死者にとっては、死んでも晴らせぬ無念を晴らし、魂を浄化する救い主 ――
そういうふうに演じたつもりだが、ちゃんとお客様に伝わっただろうか。
スタンディングオベーションをもらったことよりも、劇場のあちこちから上がった 「ブラーヴィ!」 の掛け声よりも、そちらのほうが気になってしまう。
トントン、と扉がノックされた。
返事を待たず、扉が開く。入ってきたのは、3人の男。監督と、支配人。それからもう1人、きれいな金髪碧眼に紫色のスーツを着た、いかにも貴公子然とした人だった。
「やあ、ディーヴァ!」 「素晴らしかったよ! 新しい星だ!」
支配人と監督の、調子の良いほめ言葉。ほっと全身から力が抜ける。
私の 『死霊の女王』 は、どうやら成功だったようだ。
彼らは機嫌よく、しゃべり続けた。
「明日か明後日には、大入り満員になるね。間違いない」
「まったく、君を見落としていたのは損失だったよ、ノーラ。反省するとも。このとおり!」
「僕の言ったとおりだったでしょう? ノーラ嬢は逸材だと」
なめらかだが少しねばつく感じのする声。紫のスーツの男が、得意げに胸を張った。その肩に、監督が手を置く。
「ノーラ、紹介しよう。このかたが、君の主役を買ってくださった、ブライトシュタット公爵令息…… リヒタルフ・ザルベルト様だよ」
私は一瞬、ことばを失った。
そういうことだったのか……
かろうじて、カーテシーをとる。
「そう緊張しなくていい。ラクにしたまえ、僕のプリマドンナ」
ザルベルトは私の手を強引に持ち上げ、音を立ててキスした。ぞっ…… 背筋がこわばる。
「あなたのその、神秘的な黒髪と黒い瞳。年齢を感じさせない、少女のような容姿。いつか舞台の中央で、観たいと思っていたんだ…… だが先日たまたま、このままではもう、引退だと聞いてね。なんとか金を工面して、客席を買い占めてあげたんだよ。こんなに歌えたなんて、嬉しい誤算だね」
「まったくです、ザルベルト様」
支配人がほくほく顔で揉み手をする。
「ノーラの年齢は公表せず、ミステリアスな歌姫として売り出しましょう。大丈夫、人気は出ますよ」
「ですな」 と、監督がうなずく。
「『死霊の女王』 が歌えるなら、たいていの歌はできる。それに最近は東洋ブームですからな。素で東洋の娘を演じられるのは美味しい」
「流行作家に、ノーラのための戯曲を書かせればどうでしょう。可憐で神秘的な東洋娘で」
「それは素晴らしい。その際には、僕もぜひ、支援させていただきましょう」
ザルベルトが、にこやかにうなずく。
がっちりと握手を交わす3人の男…… 本来なら私は、喜び、感謝すべきなのだろう。
彼らのおかげで、ずっと憧れながら、なにをしても届かないのだと諦めてもいた場所に、立つことができたのだから。
けれど、さっきから感じるのは嫌悪ばかり。
―― この人たちは本当に、私の 『死霊の女王』 を観てくれたのだろうか?
私の歌に、少しでも心動かされてくれたのだろうか?
この人たちの頭のなかにあるのは、私を使ってなにができるか、ただ、それだけではないのだろうか?
私はふと、孤児院にいたころを思い出した。
―― 私の 『おやすみなさい』 の歌で、眠ってくれていた小さな子どもたち。
簡単で単純な曲しか知らなかったけれど、あのころがいちばん、歌うことが楽しかったかも……
そういえば、私の歌で、年上のお兄さんお姉さんまで、寝てしまっていたっけ。
そう、たしか 『こころにひびくんだよ』 って言ってくれたんだ。灰色の瞳のお兄さんが、すごく優しくしてくれて…… 髪を編んだり飲み物を作ってくれたり…… なにより嬉しかったのが、歌をきいてもらうときで……
「ところで」
私の想い出は、舌なめずりをするような、ねばっこい声に遮られた。
「ノーラ嬢を食事に誘っても、かまいませんか?」
「「もちろんですとも、ザルベルト様」」
支配人と監督が、目配せをして声を揃える。
「ノーラ。君はまったく、幸運だよ」
「ザルベルト様に、しっかり感謝申し上げるんだよ」
歌劇女優が、貴族のパトロンを持ち、その愛人になる。
たしかにそれは、ごくありふれた、極めて幸運な栄達コース。
ほとんどの子ネズミたちとその親が、憧れ、望む道。
だけど、その道では。
私はただの私でしかなく、その先に見えるものなどわかりきっていて、私のこころは震えない ――
それでも、この場で。
うなずくよりほかの選択は、私には残されていなかった。
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