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「意外とテーブル・マナーはいいね」 「昔に教わったことがあるんです。孤児院でですが」 「だが、言葉遣いは、いまいちだ。これから僕が、いい教師をつけてあげよう」 「はあ……」 「ルトリューム通りに家を借りてあげるから、すぐに引っ越すといいよ。明日にでも、要るものだけまとめて出ておいで」 「明日はまだ、公演が……」 「じゃあ執事に言って、手配させよう。あなたは公演が終わったら、身ひとつで新しい家に帰ればいい」 「ですが……」 「気にしなくていい。ドレスも手回り品も、すべて新調させるよ。急だと思うだろうが、貧乏くささが身にしみてしまってからでは、遅いからね」  な に を い ま さ ら 。  上機嫌にしゃべり続けるザルベルト。なにも言い返せず、私は手元の皿を見つめた。  真ん中に、柔らかそうなステーキが、薔薇色の断面を肉汁で輝かせつつ鎮座している。  ステーキだけじゃない。アミューズから前菜、スープ、魚料理にいたるまで、これまで食べたことのない高級な料理ばかり。  でも、気分のせいか、全然おいしく感じられない。練習でクタクタに疲れてかじる黒パンと干しリンゴのほうが、よほどマシだ。 「今晩は、最上級の部屋をとってあるからね。そこで過ごすといいよ」  ザルベルトは、ポケットから部屋の鍵を引っ張り出し、口づけして見せびらかす。  ―― ザルベルトにとっては、当然なんだろう。  そしておそらくは、ほかの多くのひとたちにとっては、当然以上の幸運。  ザルベルトは私に、幸運に酔いしれ、素直に身を(ゆだ)ねる貧しい歌姫の役を、ご所望なのだ。     がまん、しなければ。  子ネズミ(練習生)たちの教師とプリマドンナ。どっちがいい、と聞かれたら、私は絶対に、後者を選んでしまう人間なのだから ―― 「はい。ありがとう、ございます……」  私は震える膝のうえでそっと手を握りしめ、なんとか声を絞り出した。  部屋に入ると、すぐに抱きしめられた。  することなどわかっているだろう、と言わんばかり。  疲れのせいか、重だるくなってきた身体に力をこめて、私は男の腕から逃げようとする。 「…… すみません、初めてなんです」 「本当に!? それは嬉しいな」  ははっ、とザルベルトが浮わついた笑い声をあげた。 「大丈夫だよ、心配ない。すぐに薬も効いてくるからね…… 続きはそれから、にしようか」 「……薬?」 「気づかなかった? ワインに入れさせたんだけど」 「なんの、薬ですか……」 「なに、こわいものじゃない。ちょっとした魔法薬だよ。緊張を解いて、自分の心に素直になれるような、ね」  思いっきり、こわいものだよ、それは! 「ほら、僕はあなたをずっと見ていたわけだけど、あなたは僕と初対面だろう? 緊張するのも無理はないからね。薬を使ってあげたんだ」  せめて許可をとれ、許可を! いや聞かれたら絶対、許可しないけどな!  ごてごてと指輪で飾られた手が、私の頬をなでる。 「大丈夫…… 忘れられない夜に、してあげるからね」  ぱりん。  私のなかで、なにかが壊れる音がした。  わかったわ。  私、こいつ、きらいだ。  ―― 歌劇場はもう、私を金を生む鵞鳥(がちょう)と認識している。  いま、ザルベルトの機嫌を損ねたとしても、明日、明後日あたりまでは公演に影響ないはずだ。  妨害しようにも、準備する時間がないからである。せいぜいが、劇場のまわりで私の悪口を言い立てる人間を雇うくらいのものだろう。 ―― やってやろうじゃないの。  私は身をひるがえして男から距離をとると、姿勢を正して微笑みかけた。重だるさは、いまは感じない。 「では、薬が効くまでのあいだ、歌わせてくださいな」 「ははっ、いいね。僕だけの歌姫に、なってくれるのかい?」 「ええ。ザルベルトさまだけの 『死霊の女王(ウィリスクィーン)』 に ――」  深く息を吸うと、私は静かに歌い出す。  ―― 青のドレスは目を欺くもの、脱ぎ捨てましょう    黄昏のヴェールは心を隠すもの、脱ぎ捨てましょう    そうして夜は、真実の姿をさらす…… ああ    今こそ、我らの時間    天にかがやくのは狂気    地にたゆたうのは嘆き    我らの叫びは風になり 世界をかけめぐる ああ!   生命ある者たちよ、口を閉ざせ、目を閉ざせ   畏れ入って這いつくばれ   さもなくば、死を…… ああ!    『死霊の女王(ウィリスクィーン)』 の、戯曲序盤のアリア 『夜は真実の姿をさらす』 。  『ああ!』 は風の音。  同じメロディーを螺旋のようにたどりながら、低音から高音へ息継ぎなく駆け上がる…… わたしはそれが、目の前の男にどういう影響を及ぼすのか()()()()()。  そして、()()()()()()()。  歌につられるように、男がよろよろと膝を折り、ひれ伏す…… だが、もう、遅い。  わたしは、おまえを見つけてしまっている。  ―― おや、こんなところに、生者(おもちゃ)がある。    さあ、わたしのかわいい死霊たち。    好きに遊んでやるといい。    転がすかい? 吊るすかい? 振り回すかい? 引き裂くかい?  ―― ねえ、おまえ。助けてやろうか?  男の髪をつかみ、顔をひきずりあげて目を合わす。  ガクガクと、壊れた人形のように男がうなずく。  わたしは笑い声(コロラトゥーラ)をあげた。  ―― では、わたしの配下に、なるのだな。  ―― ほら、そこから飛び降りよ!  窓の外を差し示す。  男は、ふらふらと窓に寄っていく。  窓が開く。  男が、窓枠に足をかける。身を乗り出す。  ふっと、男の姿が消える。    誰かの、驚いたような叫び声。  ―― そして私は、意識を失った。
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