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契約結婚……
私は、つかみかけたパンを皿に戻し、考えた。
なるほど、その手があったか。
結婚しているからと役を降ろされることはないが、金さえ出せば女優を買えると勘違いしている輩を避けるには、良さそうだ。
「いいですけど……」
「いいのか!?」
なんでヴィロルフがびっくりしてるんだろう。自分から言い出したくせに。
はい、とうなずくと、狼みたいな目がほんの少し、細くなった。
「よかった……」 呟く声が、耳をくすぐる。
「けど、それって、ヴィロルフ様に」 言いかけたところで、形のいい指先に唇を押さえられた。
「様は禁止」
「えーと…… じゃあ、なんとお呼びすれば?」
「好きにすればいい。さっきまでローフと呼んでたんだから、それでも」
「いまや畏れおおくて無理です。わたくし、身分と力量でナチュラルに人を差別してしまう小者です」
「…… 徐々に慣れてもらうしか、ないか……」
なんなんですか、その切なそうなタメイキ。
「―― で、話を戻しますけど。その契約結婚、ヴィロルフ様のメリットは、あるんですか?」
「ある」
ヴィロルフによれば、彼はいま、王家から末姫との婚約をプッシュされまくっているらしい。
だがヴィロルフには、彼女と結婚する気はない。逃れるために、ほかの女性と結婚したことにしたかった、というわけだそうだ。
「人間そっくりな魔導人形を開発して、そいつに贋の戸籍を作ろうか、とも考えたんだが……」
「都合よく、私がいたんですね」
「…………」
しばらく絶句したあと、ぼそぼそと 「その、都合がいいという以上に、なんというか」 と、低音の呟きが聞こえてきた。
「なんというか?」
「う」
「う?」
「て」
「て?」
一字だけでは、わかりません。
―― けどまぁ、話としては、悪くない。
「いいですよ、実際、私も助かりますし」
「ほんとうか!」
瞬間、ヴィロルフの顔に、ぱっと日の光が射したように感じた。
そんな表情するなんて、反則だ…… もしかしてヴィロルフは、私との結婚がすごく嬉しいんじゃないかって、勘違いしてしまいそうになる。
「では、善は急げ。さっさと契約を交わそう」
「はい、わかりました」
「契約結婚だからな。婚姻届のほかに、契約書にもサインがいる。ここ、ここ、ここだ。それから、ここ…… 内容、読み上げなくていいか?」
「ざっとは見ましたので大丈夫です」
こう答えたことを、私はあとで、めちゃくちゃ後悔することになるのだが……
このときは、契約結婚って割かしルール細かいな、と思っただけだった。
私、ヴィロルフの順で契約書にサインし終わると、紙が淡く光りだした。契約魔法だ。
契約魔法は、専用の書類に契約者全員がサインした段階で、自動的にかかるもの。破るとそれなりのペナルティーがある。結婚に関することは大体、一項目につき寿命1年分。浮気はまじに命がけだ。
ちなみに、いま私がサインした契約書類では、浮気は寿命100年分になっていた。
「結婚指輪は、また一緒に作りに行こう。結婚式も、もちろん 「あ、すみません。それいらないです」
「なぜだ」
がびーん。
そんな音がしそうな感じの、ショックを受けた表情…… 懐かしいな。
昔に孤児院で、ホットミルクを作ってくれようとして、砂糖と塩を間違えたとき…… ローフ兄さんは、こんな顔をしていたんだ。
この俺が間違えるなんて、って感じだったのかな、あれは。
「…… やっぱり、ローフ兄さんなんですね」
「あたりまえだろう」
照れ隠しに、わざと不機嫌な顔をするのも。
私の髪をすくいあげて、くるくると回すのも。
大好きだったんだ、私は。
「ロルフ」
『ローフ』 は舌足らずな幼児語だから、大人になったいまなら、こっち ――
思いきって呼んでみたら、不機嫌な表情は、あっというまに崩れた。
「どうしました、お嬢様」
おどけたようなヴィロルフの口調に、思わず笑ってしまう。
そうそう、孤児院では、よく、こんな遊びもしたんだよね。お嬢様に憧れていた女の子は、多かったから。
ヴィロルフは、ほかの女の子のときには絶対しなかったけど、私がお嬢様役をするときは、執事役になってくれてたんだっけ……
「私、ロルフとの結婚、けっこう嬉しいかも…… 契約でも、ロルフだから、よかった」
「そう言ってもらえると、ほっとするよ」
ヴィロルフが私の手をとって、甲にそっと唇をつける。やわらかい感触と少し熱を帯びた体温がくすぐったくて、私はまた、笑ってしまった。
契約なんだから、お互いに愛はないはず ―― でも、そっちのほうが、ちょうどいい。そんな気が、する。
私は普段、歌うことでいっぱいで、男の人にかまっている暇なんて、ないわけだし…… 契約だと割りきってもらえるなら、むしろそっちのほうがラクで有難いかもしれない。
―― と、そのときは思っていた私だったけれど。
とんでもない、誤解だった。
それが明らかになったのは、このあと、私が歌劇場に出勤するために身支度を始めてからである ――
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