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止め処なく加速する円安の為、外国人の姿ばかり目立ったゴールデンウィークの狂騒が過ぎ、五月半ばの街角は漸く落ち着きを取り戻したようだ。
京浜東北線・赤羽駅の東口改札を出、徒歩でおよそ3、4分。
再開発に伴い、赤提灯の似合う繁華街からモダンアートの目立つストリートミュージアムへ華麗な転身を果した大通りを西へと進む。
頬を撫でる風が街路樹の葉を路上へ散らし、その彩りを味わいつつ、脇道へ逸れて、少し歩くと……。
昭和の香り漂う路地が、まだ生き残っている。
オンボロ雑居ビルの色褪せた壁面に、1980年代のオープンだと言う老舗ライブハウスの看板が見えた。
その手前に立ち、地下へ続く細い階段を見下ろして、須藤史子は小さく唾を呑み込む。
やだ、ここ、暗すぎ……。
地下への階段というより、街中にポッカリ開いた風穴のように感じられ、どうにも足が前に出ない。
イベントが行われている最中にしては、階段前の掲示板に何の告知も出ていなかった。
ただ時々、初夏らしい爽やかな装いの若者達に混ざり、刺青や突飛な髪型が目立つ輩も史子の横をすり抜け、地下の闇へ呑まれていく。
そのおどろおどろしい雰囲気たるや、子供番組に出て来る悪のアジトさながらで……。
うぅ、行きたくないよぉ!
通行人の目を気にする余裕も無い。
まん丸な体をはち切れそうなベージュのブラウスで包み、ぼやきにぼやく史子は当年37才。
女の厄年ド真ん中だ。
思い返せば33才の大厄も、ダメ男に捨てられるわ、でかい借金を背負いこむわで、文字通りサンザンな一年だった。
「お前はさぁ、根が臆病な癖に、火中の栗を見つけたら拾わないと気が済まないトコ、あるからねぇ」
借金の返済に行き詰まり、母の玉代に泣き付いた時、呆れ顔で言われた言葉が胸の奥で甦る。
あ~、こんなトコ、私には場違い……。
わかってるよ、母さん。重々わかっているけどさ、今日だけは後に引けないの、絶対!
気合を入れて踏み出したものの、古い木製の階段は一歩ごとに甲高く軋み、神経を逆撫でした。
一気に駆け下り、分厚いライブハウスの入口を開く。次の瞬間、途轍もない大音量が耳へ飛び込んで来た。
古い施設の割に防音設備のレベルが極めて高く、扉の内と外は大違いだ。パンク・ロックの轟く不協和音で、受付に座っている青年の声が聞こえない。
「あのぉ……」
「はい?」
「……お客さん、これ、付けて下さい」
「はぁ?」
すぐ側まで顔を寄せると、いかがわしそうに史子を見る青年の眼差しが癪に障った。
まぁ、わかっちゃいるけどねぇ、お若いの。あからさまに場違いという顔をされちゃ、オバサンなりに腹が立つのよ。
軽~く横目で睨んでやる。
すると話を長引かせたくない様子で青年は声を張り上げ、受付のデスクに積まれた紙のお面を史子へ差し出した。
「これ付けて! バンドのお約束なんス……知ってるでしょ、お客さん?」
史子は受付とホールを更に隔てる分厚いドアの窓から、中の様子を覗いてみた。
確かに客は一人残らず動物の面を付けている。
殆ど受付に用意された紙製だが、自前で凝ったラバーマスクを付けて来た客もいるようだ。
そして、ステージで演奏するミュージャンの四人組は、もっと奇抜な格好をしていた。
トラ、パンダ、ウサギにネコ……。
それぞれファンキーな装飾が施されたキグルミで全身を覆い、動きにくさも何のその、激しいパフォーマンスを繰り広げているのだ。
彼らのバンド名は『ザ・中の人』。
赤羽駅前の噴水広場で路上ライブをやっていた頃からキグルミをトレードマークにしており、公演中は観客にも顔を隠すお面をわたすのが恒例なのだと言う。
匿名性を高めて現実とライブ空間を切り離し、オーディエンスの想像力を解放するのが狙いだとか。
ややこしい理屈はどうあれ、彼らのライブ動画はネットじゃかなりのフォロワー数を稼いでいるらしい。
近くインディレーベルを卒業、メジャーデビューする、との噂もある。
史子は青年に入場料を払い、無造作に紙のお面を受取った。
子ブタの面だ。
む~、コヤツ……私の見た目で選んだな?
一層ムカつきつつ、取り替えろと言い張るのも馬鹿馬鹿しくて、史子はお面を被り、ホールへ足を踏み入れる。
一瞬、若さの熱気と汗の匂いが鼻についた。
その過剰なエネルギーを不快に感じてしまうのは、多分、史子が年を食ったせいなのだろう。
「金無い、夢無い、明日が無~い」
トラのキグルミを着たボーカルが単調な歌詞を繰り返し、女性らしきネコのドラマ―がビートを刻んで煽り立て、パンダのギター、ウサギのベースも呼応して、会場全体がヒートアップしていく。
史子の一番の趣味は一人カラオケで、八代亜紀のヒット曲がオハコである。音楽の趣味も演歌一筋。
パンクロックはおろか、最近のヒットチャートもロクに知らないから、ちょっとしたカルチャーショックを受けた。
なるほどねぇ、こりゃストレス解消になるかも?
ステージで高く飛び跳ねるトラを見上げ、史子は一人頷いた。
何よりシンプルな連呼が効果的だ。すぐ覚えられるフレーズには演歌のサビに近い趣きを感じる。
軽く口づさんでみると、何時の間にやら、史子の頭の奥底でパンク・ロックのビートは八代亜紀の哀感漂う曲調へ大胆に変換された。
「金無い、夢無い、明日が無~い」
雨、雨、降れ振れ、もっと降れぇ……。
「俺らの未来は何処にある~ぅ!」
私のイイ人、連れて来~い……。
リズムに乗り、フンフン頭を振って、右手を突き上げる踊りまで始めた時、いきなりステージの大音響が止まった。
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