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 古いオルガンが奏でる讃美歌……それは史子にとって懐かしい音色でもある。  彼女の母・須藤玉代は若い頃、小学校の音楽教師をしていた。  退職後も実家近くの公民館に置かれている足踏みオルガンを、隣人からリクエストされる度、軽やかに弾いていた。  それは、今思えば、幼い史子が演歌以外に慣れ親しんだ唯一の音楽だと言えるだろう。 「ホラ、あんたも踊りなさいよ!」  興がのると、最後はピアソラのアルゼンチンタンゴを軽妙に奏で、公民館を即席のダンスホールに変えた。  小学生だった史子も、覚えたばかりの演歌の振り付けを披露。  雨、雨、降れ振れ、もっと降れぇ……。  町内の爺さん、婆さん達から失笑混じりの喝采を受けたものだが、多分、あの演奏はもう二度と聞けない。  半年前から、玉代は急に物覚えが悪くなった。  日々の出来事が殆ど記憶に残らず、過去の話を反復する。十五年前、胃ガンで早逝した父の事を今も生きていると思い込み、幸せだった頃の思い出を延々と語り続ける。  初期の認知症だろうか?  それにしても進行が早過ぎる。  まだ69才で、実家へ戻った昨年の大晦日、紅白を見ながら一緒に除夜の鐘を聞いた頃は憎ったらしいほど口が回る、町内最強の毒舌婆さんだったのに……。  痴呆と思える症状が露呈した玉代の虚ろな瞳が脳裏に浮かんでは消え、喪失感が胸を刺す鋭い痛みになって、史子の顔を歪ませた。 「さぁ、あなた方お二人、天にまします我らが父へ、誓いの誠を示すべき時が参りました」  キリンの神父が客席へおどけた調子で語りかけ、我に返った史子はステージ中央を睨みつける。  パンダとウサギは、マスクだけ残し、体を覆うキグルミをヒラリと脱ぎさった。  現れたのは黒い上下のタキシードと、ヒラヒラのフリルがついた純白のフォーマル・ドレスである。  お~エグっ。  よくもまぁ、こんなモン、キグルミの下に押し込んで演奏していたもんだわ。  一事が万事、やり過ぎ感満載の過剰演出を目の当たりにし、史子は少なからず引いていた。  それとも、ここまでして隠蔽しなければならない「何か」が、このイベントの裏に潜んでいるのだろうか?  史子は『ザ・中の人』についてネットで調べた時、奇妙な動画を投稿サイトで目にしている。  ライブの実写映像が途中から血塗られた雰囲気で赤く染まっていく不気味な代物だ。  「GO TO HELL!」のテロップ大写しで終わる内容は何かの犯行予告にさえ思えた。  匿名と大差無い「NOBODY」名義で投稿された動画は、史子が見た翌日にはサイトから削除され、パンクロッカーならでの物騒なプロモーションとファンは捉えているらしい。  確かに、あの敏腕アライグマならやりかねないけれど、本当にそれだけなのか?  嫌な予感がする。  ライブハウスの地下階段を降りる前に感じた不吉な胸騒ぎが、史子のはち切れそうなブラウスの内側で膨れ上がっていく。 「今日の良き日、暖かいファンの皆様のお立会いを得、永遠の愛を誓い合った夫婦は、元の親しき友へ戻ります。宜しいですか、夫・木谷徹也君」  ハイ、と元気良く答え、パンダがキリン神父の前に立った。 「妻・木谷亜理紗さん、今のお気持ちに迷いはありませんね?」  ハイ、と小さく答え、ウサギもパンダの隣に並ぶ。  二人と神父が自然に祭壇を挟み、向いあう形になった。  祭壇はベニヤ板で作られた小道具さながらの粗末な代物だが、赤い布で覆われた台座の上に大きな金槌が二本置かれており、それがやたらと目につく。 「誓いの儀式を執り行います」  カメが弾く厳かなオルガンの調べにのり、パンダとウサギは同時に左手の薬指から指輪を外した。  そっと台座に置く。  目を凝らし、ステージを凝視する史子の頬に、次の瞬間、歓喜の笑みが浮かんだ。  若い二人の持ち物にしては古臭い作りの代物で、小さなダイヤを散らした真珠のプラチナリング……間違いない。  あれは母の指輪だ。  父との思い出に溢れる母の宝物だ。 「これより、愛を誓った結婚指輪を聖なる金槌で打ち砕き、二人の別れの証と致します。もし、異議ある者がこの場にいるなら、今すぐ申し出て下さい」  キリンの神父が場内を見回す。  史子は戸惑った。  ライブの終了を待つ暇など無い。  事の起こりから説明するには複雑過ぎる事情だし、盛り上がったファンのハイ・テンションからして、まともに聞いてもらえるだろうか?  場内を包み込む水を打った様な静けさが、史子の戸惑いを一層強めていく。  どうしよう?  いくか!?  ええぃっ、ここまで来て、今、行かないでどうする!!
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