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律と一楓 1
振動が心地よく、うとうとしていたら、隣に座る友人に肩を揺さぶられた。
「おい、律。もうすぐ着くぞ。そろそろ起きろ。あーあ、校外学習なんて、だりいよな。俺も寝とけばよかったわ」
ぼんやりした頭で友人の声を拾った律は、だよなと、取り敢えずの返事をしてまた瞼を閉じてしまった。
中学二年恒例の野外活動に向かうバスの中、後部座席を仲間達と陣取った律は、東京を飛び出し、関西までの旅行に興奮して夕べ中々寝付けず、寝不足のまま出発したものだから、今、眠くて眠くて仕方がない。
また寝そうになっていたら、今度は鼻を摘まれた。苦しくなって一応を開けたけれど、脳はまだ睡眠中だ。
「なあ、律。自由行動で何する? あ、土産先に買うか。なあ、おい。聞いてんのか。ほら、寝んなよ」
わかってるってと、欠伸と共に怠惰なセリフを吐いた。もう、ずっとバスに乗ったまま寝たいたい。なのに、はしゃぐ友人達の声は、それを許さなかった。
「京都なんて寺ばっかで面白くも何ともないもん、なぁ律」
友人に同意を求められ、「だなぁ」と言ってまた欠伸をした。
観念しておきるとするかと、ようやく心に決め、両腕を上に伸ばして思いっきり伸びをした。
「なあ、次バス降りたら、なんか食わないか?」
新幹線にバスと、乗り物続きで体が鈍る友人からの誘惑に、「アイスとか?」と、願望を口にした。京都まで来て、アイスはないだろうと言う声半分、いいねーの称賛を半分浴びた。冷たいものでも食べれば、目が覚めるだろうと安直なことを考えての返事だった。
平素と異なる生活環境で見聞を広め、自然や文化などに触れる——と、担任が言った本来の目的は忘れ、緩んだ気持ちでいると、バスは目的地へと到着した。
「ここどこ?」「何があんの?」「食いもん屋ないじゃん」
神社仏閣に関心のない声が順路を辿ると、律も先頭に倣えとばかりに、ダラダラと進んだ。
「ここは三十三間堂っていうんだよ」
のんべんだらりと進む学ランの中、ひときわ透る声が律のすぐ後ろから聞こえた。
「もうすぐ千体の観音様が見えるよ」
再び耳を刺激する、透明感のある声の主が気になり、律は歩む速度を緩め、肩越しに後ろを振り返ってみた。そこには初めて見るあどけない顔があった。
硝子玉のように煌めく丸い目に、ふんわりした笑顔は女子よりも愛らしく見え、小柄な体に自分と同じ学ランは少し似合ってない。 癖っ毛なのか、所々半円を描く髪に、色素の薄い肌が陶器で出来たフランス人形を想像させた。
「ほら、見て見て」
声の主が律に近付くと、隣の友人に目を輝かせて夢中で話をしている。
もっと間近で見たいと思った律は、彼に背を向ける形でそっと身を寄せた。
「あ、ごめん数間違った。千体と一だった」
彼の言葉でさっきまで眼中になかった観音像へ目を向けて、息を呑んだ。
慈悲深い顔がずらりとこちらを見下ろす光景は圧巻で、口を半開きにしていると、心地よい声が耳をくすぐってくる。
「ほら、それぞれ手に持っているのも違うし、顔も違うんだよ」
説明通りなのかと確認すると、「ほんとだ」と、つい口にしてしまった。その声が大きかったのか、彼の視線が律を捉え、見つめてくる眸に喉がゴクリと鳴った。
華奢な躯体に、柔らかそうな髪が襟元で跳ねている。
彼の相好に目を奪われていると、硝子玉と目が合った。丸い眸が弧を描き、花蜜の香りが漂うように微笑まれた。
彼が歩くと律も後を追い、歩みが止まると歩みを止める。吸い寄せられるように付いて行くと、いつの間にか出口に辿り着いていた。
押し寄せる観光客の隙間から見た彼は瞼を閉じ、観音像に手を合わせている。
蝋燭の火が厳かに揺れ、彼の白い頬が金色に輝いて見えた。
「一楓ー、行くぞ」
友人に呼ばれ、彼の瞼がゆっくり開かれると、そこに律が映り込んだ。
睫毛を瞬かせると、蝶が飛び立つように軽やかに去って行ってしまった。
奥ゆかしい仕草は律の心臓をかき乱し、心拍数まで上昇していた。
「あ、いたいた。律、お前どこ行ってた。迷子か」
探しに来てくれた友人に、いつもならふざけて返せるのに、今は何も口にしたくない。 律の心は揺らめく焔の前に置き去りになったままだった。
イブキ……。覚えたばかりの名前を頭の中で呟いた。
通って来た道を振り返ると、観音像に手を合わせる横顔がまだそこにあるように思え、律は残像を目に焼き付けると、賑やかなバスへと乗り込んだ。
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