信念について

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信念について

わたしの尊敬する人間に、宮台真司という男がいる。口が悪すぎて暴漢に襲われ殺されかけたのだが、それでも尚、口が悪い。このブレなさ、強い信念。憧れてしまう。 ここでは彼の文言というより、人間のもつ信念について記したい。 わたしは自分という人間の矮小さ、意気地のなさをよく認識しているので、いざというとき、例えば、子供が車に轢かれそうなときとかに、身を挺して守れるかどうか、甚だ疑問を感じている。 その「いざ」を待っているような、待っていないような、心許ない感じである。 わたしは自分の命に価値をまったく見出していないが、自死を選ぶようなたいした度胸がないため、そういう「いざ」を若いときから、待ち望んでいるはずなのに、待ち望んでいないのである。 つまり私の信念とは、わたしの命に価値はなく、わたしの命は誰かのために支払うリソースに過ぎない。ということである。 その「いざ」がいつか面前で起きて、誰かを助けることができたら、わたしはようやくわたしを認めることができて、わたしの命もたいした命であることを認めることができる。死んだら死んだでそれは本望で、じゃあ生きたら生きたで、わたしはその後の人生を胸を張って生きることができるので、良いではないか、と若い頃から思っている。にも関わらず、痛いのはとことん嫌いだから、想像すればするほど身がすくむ思いである。その「いざ」を面前に、足がすくんでぴくりとも動けなかったその後の人生をわたしはどう生きればいいのだろうか。そんな臆病で信念のない人間をわたしはぜったいに認めることができず、自分という人間の矮小さを呪いながら、毎晩、死にたくない死にたくない、明日も生きたいと泣きながら眠りにつくのだろうか。これは悲惨な人生だ。 なので、私の面前で、事故や事件は起きないでほしい。 こういう考え方になってしまったのは、20代半ばくらいのとき、小説「塩狩峠」を読んでしまったせいである。主人公はキリスト教信者で、帰りを待つ妻がいるのに、暴走した列車を止めるために、自分の身体を車輪だかなにかにはさんで列車を止めて乗客を救うという、ほんとうに胸糞悪い小説だった。今でも大嫌いな小説である。
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