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「今日は、月曜日か」
不意に葡萄畑の持ち主の人が呟くのが聞こえた。
「違いますよ、今日は水曜日です」
思わず答えてしまう。答えてしまってから思う。どうしよう、今まで空気みたいでいたのに、自己主張してしまったら追い出されてしまわないかな。
「あー、じゃあ雨の日の方か」
雨の日の方。この曲には違う方もあるのかな。好奇心を抑え切れずに、僕は質問をした。
「この曲、何て言うんですか。お母さんが歌ってたんです」
「カーペンターズの『雨の日と月曜日は』」
『雨の日と月曜日は』……続く言葉は何だろう。考えている間に、葡萄畑の持ち主の人は仕事に戻っていった。咎められなかったことに、少しほっとする。
僕はスマートフォンを開いて『雨の日と月曜日は』の歌詞を知らべる。英語は分からないから和訳を調べたら、続く言葉は『気が滅入る』『憂鬱』。ゆううつ。そう、憂鬱かもしれない。雨が降る度、僕は僕の名前の由来を考えてしまう。学校に行かなきゃいけない日は、僕の名前が間違っていると言った子のことを思い出してしまう。
大人の人も『雨の日と月曜日は』苦手なのかな。お母さんはどうして雨の日が好きだって言いながら、この曲をずっと歌っていたんだろう。
僕はゆっくりとスクロールして、歌詞の意味を飲み込もうとした。するとひとつの文章に行き当たった。
『何も間違っていないのに居場所がないような気がする』
僕ははっとした。これが今の気持ちなんじゃないかな。居場所がないような気持ちだけど、でも、僕は、何も間違っていないんじゃないかな。間違っていないのに間違っているような気になっているだけなんじゃないかな。それが、ゆううつの正体なんじゃないかな。
お母さんも、ゆううつな気持ちを抱えていたからこの曲を歌っていたのかな。
意味を噛み締めながら歌詞の続きを読んでいく。
『やって来ては消えていくこの気持ちを、言わなくても私たちは分かる』
『おかしいわよね、結局いつも貴方のことを考えてる』
『おかしいわよね、私にできることと言えば愛してくれる貴方の元へ駆けていくだけ』
何となくお母さんが雨の日が好きなのが分かるような気がした。お母さんはお父さんのことを信じていて、お父さんといるだけでゆううつな気分が吹き飛ぶような気持ちだったんじゃないかな。だけどお父さんがいなくなって、走っていくことができなくなったから、歌わなくなっちゃったんじゃないかな。
僕は無性にお母さんに会いたくなった。走っていって、大丈夫だよ、愛してるよって言いたくなった。決してお父さんの代わりにはなれないとしても。
僕はランドセルと手提げ袋と水筒を持って立ち上がった。草むらをガサガサと掻き分けて出入り口へと向かう。
「忘れ物」
ふと後ろから声を掛けられて、僕は跳ね上がる。葡萄畑の持ち主の人が僕の傘を差し出した。掛けてあったのをすっかり忘れてしまっていた。僕はうやうやしく両手を差し出す。こうして面と向き合うのは、初めてかもしれない。
「ありがとうございます。……あの、僕ここにいてもいいですか」
「好きにしたらいい」
「本当に? 迷惑じゃないですか?」
「別に。静かだし、汚さないし。雨宿りにはちょうどいいだろう」
「えたいもしれない子供なのに?」
そう言うと葡萄畑の持ち主の人はフッと笑った。
「得体なら知ってる。うちの娘の同級生。名前の由来を発表する授業が嫌で休んでる」
肩がビクッと跳ねた。葡萄畑の持ち主の人が僕のことを知っていたのもそうだけど、今日休んだ理由まで知っていることに心底驚いたからだ。
「どうしてそれを」
震える声で問い掛ける。どうして。誰にも言ってないのに。お母さんにもプリントを渡していないのに。
「うちの娘も休んでるから」
葡萄畑の持ち主の人は頭を掻きながら答えた。
「俺には学がない。名前は嫁が気に入った響きで決めた。漢字は姓名診断で縁起のいい画数で、見映えがいい字にした。そしたら名前は気に入っているけど、発表するための意味がないから学校に行かないだと」
僕が僕のことに精一杯だったから気づかなかっただけで、クラスにも同じように、名前の由来を発表することをゆううつに思っている子がいたんだ。
葡萄畑の持ち主の人は斜めに刺さった柱に寄り掛かって言った。
「名前に込められているのは意味じゃなく祈りだ。自分が気に入っていればそれでいい。そうじゃないか?」
自分が気に入っていればそれでいい。
それは僕のゆううつを吹き飛ばすような響きだった。
僕は葡萄畑の持ち主の人の言葉に力一杯頷いて、走り出した。
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