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 放課後。いつものようにわたし達は図書館で閉館時間まで勉強をしてから家に帰った。といっても、真面目な知奈はまだしも、わたしはすぐに飽きちゃって、スマートフォンを弄ったり、ぼうっと寝そうになってただけなんだけど。 「じゃあ、また明日」 「うん。また明日ね」  知奈の家の前でわたしたちは別れる。名残惜しそうに玄関の中へと消えていく彼女を見送って、わたしも家路につこうとした。  その時、 「――……っ!」  何かを床に叩きつけたのか、ぶん殴ったのか、とにかく凄い音に続いて、知奈の悲鳴が耳に突き刺さった。  瞬間、わたしは知奈の身に危険が迫ったんだと不安になった。だって、彼女の家に不幸が詰まってるのは、嫌というほど聞かされていたから。  玄関に駆け寄りドアノブを力いっぱい引くと、すんなりとドアは開いた。鍵はかかっていなかった。  家に入り、靴を脱ぎ捨てて、音を頼りに知奈を探す。  勝手に家に上がり込んでいる無礼だとか、暴力を振るう本当じゃない父親への危機感だとかは微塵も持っていなかった。全て、知奈を心配する一心で塗りつぶされていた。  ドアの開け放たれていた部屋に入る。 「知奈!」  リビングらしき部屋に、服が乱れて、体中にある無数の青紫の痛々しい痣が露わになって倒れている知奈。そして、彼女に馬乗りになって髪を掴んでいる小太りの中年の男。知奈を虐待する、本当じゃない父親が居た。  男はヨレヨレで黄ばんだ染みのついたシャツに短パン。髪はボサボサで伸びていて目元も隠れがち。自分だったら他人の目に晒せないくらいみっともない格好だった。 「杏香ちゃん?!」  知奈が驚きと困惑が混じった声でわたしの名前を呼ぶ。  男はわたしを認識すると、掴んでいた知奈の髪を離してのっそりと立ち上がる。立ち上がった男はわたしよりも頭一つ分以上大きくて、高圧的な目で見下ろしてくる。その威圧感にわたしはたじろいでしまう。 「誰だ?」  のっそりと近づいてきた男が、喉が枯れたようなくぐもった声を出す。耳に入るだけで嫌悪感を示してしまうような、嫌な声だった。アルコールと腐敗物が混ざったような、鼻を摘みたくなる臭いが辺りに広がった。  初めて向けられた大人からの明確な敵意に、知奈を助けるんだ、と勇んでいた心がどこかに吹き飛んでしまった。  後ろに下がろうとした足が縺れて、フローリングにお尻を強か打ち付けた。それでも、痛みなんて感じる余裕もなく、未だ手足をバタつかせて逃げようとする。 「ダメっ」  近づこうとした男の足に、知奈が飛びかかるようにに抱きついた。すると、男はバランスを崩したらしく、どおんと大きな音を立てて前のめりに倒れた。うごおと怪獣の鳴き声みたいなうめき声を上げた。 「このっクソっ」  仰向けになってジタバタと暴れながら、男は足に縋り付いた知奈を蹴って引き剥がそうとする。その度、知奈は短い悲鳴を漏らした。  何が、起こっているの?  暴れる汚い男とボロボロになっていく友達。わたしは日常とは思えないその暴力で充満した光景が現実に思えなくて、震えながら見ているしか出来なかった。 「杏香ちゃんっ」  叫ぶ知奈の声で、わたしははっと我に返る。息をしていなかったことに気づいて、慌てて大きく呼吸した。 「そ、そこの、包丁っ、机の上っ、それで、こいつを、刺し、て、殺してっ」  蹴られているせいで途切れ途切れに知奈は叫ぶ。  働かない頭で、オロオロとあたりを見回すと。確かに机の上に包丁が置かれていた。無造作に置かれた包丁を握る。家でお母さんが使っていうのとは違い、新品みたいにピカピカだった。  どうしてこんなところに包丁が? とは一瞬過ったけど、すぐにその思考はかき消された。  わ、わたしが刺すの? で、でも、そんなことしたら、大人の人でも、痛い、よね? 「た、助け、て、杏香、ちゃん……」  わたしが躊躇している間も知奈は蹴られていて、その一言を最後に力尽きたのか手を離してしまった。  忌々しそうに荒く息を吐きながら、のっそりと男が立ち上がろうとする。  きっと、次はわたしだ。わたしが知奈と同じように殴られて、ボロボロにされて。二人とも、こ、殺されちゃう。  恐怖を感じた瞬間、わたしは立ち上がろうとしている男の背中に飛びかかり、その背中に包丁を刺した。  うぐ、うごっ、と男が呻く。怖くて怖くて仕方がないから、わたしは何も考えずに包丁を何度も突き刺した。腕を止めたら、わたしが殺されてしまうから。  最初こそ身を捩らせていたけど、何度も刺しているうちに男は動かなくなった。それでも、しばらくの間、もしかしたらまた動き出すかもしれないと怖くて、わたしは包丁を握る手を止めることが出来なかった。 「杏香ちゃん。もう良いよ。そいつ、死んだから」  止めてくれたのは知奈の声だった。知奈は人が死んだっていうのに、とても穏やかな笑みをたたえて見下ろしていた。鼻や口から出ている血を服の袖で拭った。 「さあ、着替えてから逃げよう」  神経が毛羽立ったまま頭がぼんやりとしていたわたしは、知奈に言われるがままシャワーで返り血を流して、渡された真っ黒のパーカーに着替えた。その間に、知奈自身も着替えていた。 「今からわたしたち二人であいつの死体を隠すなんて出来ない。だから、一緒に逃げるの。良いよね?」 「う、うん」  やけに冷静な知奈の言葉に、わたしは頷く。いつもわたしの影に隠れていた知奈が、今は手を引いて先を歩いてくれている。  頼もしい背中。  それから、わたし達はコンビニのATMで全財産を引き出して、駅に向かった。  でも、時間が経つにつれて、碌でもない人間だったとはいえ人を殺した罪悪感がむくむくと膨れ上がってきて、耐えきれなくなったわたし達は、自分たちの罪を清算するために、どちらともなく海へと歩みを進めていた。  そうして、今に至る。
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