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美味しい肉を食べたあとの充足感に類似するものは何かと問われれば、俺は一卵性双生児の兄・遠藤日向とのセックスだと答える。
「あったかいね」
日向とのセックスは他人とのそれとは違う快楽で、麻薬のように中毒性の高い不思議なものだ。
「ん……内臓を出しすぎないでくれよ? 戻すの大変なんだから」
「んー、もぐもぐされるの、すきじゃん」
皮膚の下にある、ねばつく薄い粘膜を破ってあふれ出てくる内臓を引き出す。甘噛みされ触られる感覚があるのか、いい反応をしてくれるから楽しい。
「ぁっ」
「今日は背骨までね、触ってみたいと思ってるんだけど」
腰がビクリと跳ねる。
ゆっくりと内臓を出して体液と血液でどろどろになるベッドも、薄い腹のどこに入っているんだろうと思う長さの腸も、温かくて柔らかくて、愛しい。
「ん、今日は肺じゃ……」
「だって、肺を揉んだら大変だったし、その前に胃を揉んだら吐いたでしょ。体力使うのは控えようかと思って」
喘げずに胃液のようなものを垂れながす日向の尻にはアナルプラグが刺さっていて、ひくひくと感じている姿がかわいい。
「夕也、ねぇ、はやくちょうだいよっ」
生理的な涙も甘くて美味しい。どこを噛んでも舐めても美味しいのはなんでだろう。
「まるでケーキみたい」
「ゅうや、ねぇ、はゃく」
本気で泣き出す前に内臓を少し戻して、アナルプラグの代わりに自分の猛ったモノを奥まで挿し込む。それだけで達した日向の白濁を指に取り、見せつけるように舐めれば赤いところがないのではないかと思うほど真っ赤になった日向が見れる。
「ぃじわる、しないでっ」
腹に力が入らないため、大きな声を出そうとすると内臓がはみ出て、血を吐く。苺ソースがかかったショートケーキのような白い肌を噛み千切りたい衝動を感じ、空腹を紛らわせるように腰を動かす。日向の腹はセックスの時、夕也の指に沿って白い肌を拓き、治す不思議な身体だが、食べられた傷を一晩で治すほどの力はない。
「ごっ、おっ」
呼吸ができているか怪しい音が日向の喉から聞こえる。腸を揉みながらピストンすると単に絶頂するよりも気持ちがいいと言っていた。柔らかく夕也の猛りを包み込む肉壁も、うねるように絡みついてくる。
ここまで解れればあとは奥の奥に猛りを押しつけるようにすると、日向の腰が本能のまま動いて絶頂に向かうだけだ。
「いゃ、だっ。腰、勝手にゆれる」
恥ずかしさと、気持ち良さで理性が焼き切れていく日向を見ていると、喘ぐ喉を食い千切り、心臓から直接甘くて赤い血液を啜りたいという夕也の本能が頭をもたげてくる。
「なんで、いいじゃん。日向は腰を自分で揺らしながらイクの好きだろ」
なるべく優しく、ひくつく振動とシンクロするように内臓を壊さないように腹の中をまさぐれば日向は絶頂したまま気絶してしまうが、夕也はその瞬間が好きだ。
――あぁ、おいしそうだな。
いつからだったか、夕也は味覚を失っていた。味覚障害と診断された。でもたまに〝味〟を感じるときがある。不思議なものだが、今のところどうにか問題なく生活はできている。
この世界では、性別以外に区別されるものがある。
殺人鬼予備軍と言われる、フォーク。
フォークにとって至高の味がする、ケーキ。
それ以外の、ノーマル。
とある研究機関はフォークやケーキと呼ばれる存在を〝スピーシーズ〟と名付けた。
世界各国で出現が確認されてから研究を進めているが、研究サンプルが少ない現状では未だ謎の多い存在だ。
朝日を感じるには小さい窓から、日が差し込む。
夕也の部屋には小さな明り窓ひとつしかないが、そこがとても気に入っている。
独り暮らしを始める際に夕也は、なるべく外から部屋が見えないような窓の少ない部屋を選んだ。ベランダに出る窓以外、人が出入りできる大きさの窓はない。
「……あー、よく寝た」
日向と絡み合ったあとの汚れは、ほぼない。ビニールシートの上で遊べば、吐き出した吐血や体液だろうと片付けるのは楽だし早い。
乾きかけの名残りをザッと拭いて、仕上げに除菌スプレーをバスタオルで塗り広げれば、あとはたたんでクローゼットに仕舞い込めばいい。日向の傷も簡単に手当てすれば、情事後もすぐにふかふかの布団で寝られる。
朝起きると片付いていることの方が多く、そういう時は朝食の作り置きがしてあるからありがたい。
「今日のもおいしそうだな。日向も食べていけばいいのに」
夕方から夜だけ部屋に来る日向は逆に窓の大きい部屋を借りていると言う。同じマンションだが、気付けばいるから部屋を訪ねたことはまだない。
選んだ部屋の印象は真逆。まるで自分たちを写しているようで、面白い。
「……ま、お互い自由でいいけどね」
夕飯と朝食は部屋に来たときに日向が作り、来ない日は有り合わせで適当に作ったスープでも味が判らないながらもおいしいと思うことにしている。
――不思議と日向が作る食事はいつも味がする。
◆◇◆
「おはよ、今日もイケメンじゃん」
「はよ、お前もな」
大学の同じ学科に所属している、田処識は、流行ファッションを着こなすイケメンだが、女運が悪い。
「聞いてくれよぉ。この間付き合った彼女さ、二股だったんだぜ。ひどくない?」
「お前、その前は彼女が五股してただろ」
「それは前の前、前回は不倫の片棒担がされかけた。まじで嫌なんだけど。俺そんなに軽そうかな」
「……硬派ではない、かな」
恋人がいない間は、夕也とセフレ関係な時点でお察しだ。ただ、彼女ができたらその人一筋になる。残念ながら彼女側に問題があり関係が破綻する運命なのだろう。
「イケメンだけど、普通じゃない女の人しか寄って来ないのは不幸だと思う」
「お前の人を見る目のなさだろ」
「ひどーい。見た目じゃなくて中身で勝負してんのに!」
「いやいや」
見た目ではないと言うのなら、学年で上位に入る美形と噂されている夕也をセフレにはしないと思うし、男を相手に選んでいる時点で色物のような気がする。
「てか、次遊ぶ十五日さ、俺、少し遅くなるけど平気? おにーさん、来るんでしょ」
「ん、あぁ平気。お前来る日はなぜか来ないんだよな。別になんも言ってないんだど」
「へー、そうなんだ。じゃあ遅くなるけど行くわ」
「おーまたな」
「……彼女にも同じくらいのことをやればいいんじゃないか?」
不精だから連絡取りたくないと言うわりには顔を見かければ声をかけてくるし、食事に誘われることもある。それで満足できない女心が不思議だ。
「まぁ、いいか」
今日の講義は終わったし、日向から美味しいお肉が手に入ったと連絡がきた。帰り道にあるワインショップで少し奮発して美味しいワインも買っていこう。自分は味なんてどうでもいいが、日向には判るのだから、美味しいものがいい。
いいワインが手に入り、おまけで貰ったチーズも上物らしい。
「ただいま」
「おかえり」
朗らかに笑って出迎えてくれる日向。
変わらない日常。
うん、今日もいい日だ。
「ねぇねぇ、田処くんさ。遠藤くんと仲いいよね」
「ん? 夕也と仲良しだよ」
女の子たちは皆、特に個性のないファッションをしていると田処は思う。インフルエンサーに倣い、雑誌からそのまま出てきたような、同じテイストの服、メイク、ヘアスタイルとなれば顔で認識するのが難しい。声まで同じではないからまだ判別できる。
「そう、ゆうやくん。彼女とかいるのか知ってる?」
「え、ちょっと。マホ、遠藤くん狙い? やめときなって言ってるじゃん」
「シイナは黙ってて。私は田処くんに聞いてるんだから」
マホと呼ばれた子の言葉に被せるように忠告したシイナに彼女が言い返すのを眺めながら、意図があったとしても、他人の言葉を遮って話すのは好きじゃないなと思う。
「……んと、まほちゃん? 夕也に彼女いるかって聞かれるとわかんないな……」
セフレ解消の約束としてお互い彼女ができたらそこまで。としているが、夕也からその話を切り出されたことはないから多分いないのだろうけど、確定情報ではないし伝えないでおくことにする。
「双子のおにーさんがしょっちゅう遊びに来るから、家に人呼ばないって聞いたことある」
「もう、シイナの話は噂でしょ? ありうるかもしれないけど、他人のこと噂だけで判断したくないの」
「まぁ、そうだけどさ。その噂のおにーさん、同じ大学に通ってるらしいけど、誰も見かけたことないんだよね。本当に双子の兄さんがいるのかも怪しいし、やめときなってことよ」
「……え、そうなの?」
たしかに見かけない。学部が違えばそんなものかと思っていたけれど、どうやらそういうことだけでもないらしい。
「アタシら、文系だけど、遠藤くん理系でしょ? だいたい学校内での行動範囲は別だけど、見かけたことないよ。遠藤くん似のイケメンなんて」
「そうなんだ」
今までの話を聞く限り、夕也が嘘をついている可能性はないと思う。しかし実際のところ田処も話を聞くだけで兄には会ったことはない。
「てか、二人とも俺もイケメンだけど、どう?」
「どうって、お友達ならいいけど彼氏ではない」
「格好いいとは思うけど、ごめんなさい」
「イケメンなのは認めてくれてあんがとさん。いい子いたら紹介してよ、合コンしよ。約束ね」
「約束しないけど、いたらね」
彼女がすぐに欲しいわけでもない。ほどよく仲良くしたい女子によく使うリップサービスだ。
普通の女の人から付き合いたい男として選ばれないのは、こういうところなのかもなぁと思う。
――この世界には、性別以外にも区別されるものがある。なんて、考えられないほど穏やかな日常だ。
田処は夕也の家には月二回ほど行く。今夜は前々から約束していた十五日の夜。
「そういや、夕也って彼女作らないの? 俺とばっかより女の子とも楽しみなよ」
「あー、女の子めんどくさいから」
キッチンからいい匂いがする。味覚障害で味がほぼ判らないという夕也の手料理は美味しい。兄のレシピを参考にしているらしいが、それにしても上手く作るものだと感心する。
「あ、それマジなんだ。いや、今日さ大学で女の子たちにおにーさん以外家に上げないらしいって聞いて。俺入っちゃてんなーって思ったんだよね」
「へぇ、噂? どこ発信だろ。新歓の飲み会連れて行かれたときに喋ったかなぁ」
まぁいいけど。と気にしていない様子の夕也がワインを出して田処がグラスを準備する。
「なんかさ、チーズ貰ったんだけど食べてないから今日開けよ。お前好きだよね」
「チーズ? 好き好き。うっわ、まじか。これめっちゃ高いやつじゃん。貰ったってまじで?」
「そうなんだ? 昨日ワインショップでワイン買ったときに貰った」
「まじかー。神じゃん、その店」
人を寄せ付けないような表情をしていても、整った顔は他人受けがいい代表! みたいな顔をしている夕也だからだろうか。なんとなく人タラシなんだよなと思いながら会話を続ける。
「ワインと相性いいんだよね。これ」
「そうらしいな。ショップの人も言ってた」
味が判らない夕也からすればどうでもいいのだろう。
「さ、飯食おうぜ」
テーブルには、ビーフシチューと白米、サラダ、パン、手羽先をレモン麹で漬け、塩コショウをまぶしてグリルで焼いたものがズラリと並ぶ。大学生とはいえ男の胃袋はいくらでも入るからいつも大皿だ。
「いっただきます!」
「はい、いただきます。兄さんは俺の隣に移動してくれな」
〝兄さん〟と呼ばれたのはブラウンのテディベア。
大人の膝にのせても存在感のあるサイズで、いつもダイニングテーブルの椅子に座っている。ちょうど顔がテーブルの上に見えるから、酔っているときに生首かと勘違いして未だに驚いてしまうのは内緒だ。
兄の日向が昔から好きだから。という理由でそう呼んでいるらしい。大学生になっても好きなのかは知らないが、夕也がとても大切にしているのは判る。
「兄さんベア、相変わらず黒い斑点リボンなんだな」
「うん、これ気に入ってるから」
「そっか」
田処にはそのリボンの柄が飛び散った血痕が乾いたものに見えて少し怖いが、他人の大切な物にどうこういう趣味はないので黙っている。
「お兄さん、えーと、日向さんもこの家来たら、そのぬいぐるみ触るの?」
「なんで?」
「……っと、お気に入りだからリビングにあるのかなって、思って」
今まで話していて感じたことのない強い拒絶をはらんだ声に驚いた。
「そっか、僕の前ではあんまり触らないけど、どうなんだろうね」
曖昧に話をする夕也に合わせて話を終わらせた。
ずっと疑問に思っている。なぜ兄が気に入っているテディベアが、どうして弟の部屋で大切にされているのか。ただそれ以上に気味が悪く、まるで遺品のようだと思う自分がいる。
もうひとつ、セックス中にも違和感がある。すでに何回か繰り返されている行為。
田処の絶頂少し前に、そっと指で鳩尾あたりから膀胱の上くらいを指でそっと撫でおろす。挿入している夕也の猛りの位置を確認するわけでもなく、ただそっと指で撫でて少し残念そうな顔をするのだ。
「……なに、かあるの? その指の動き」
微かにくすぐったいだけで、快楽に直結するような動きではない。しかも何か残念に思うことがあったのだろうか。
「いや、なんでもない。やっぱりあかないよなと思って」
そのときは、なんのことか判らず行為を続けたが、田処の中でなんとなく引っ掛かっていた。腹を〝あける〟とはどういう意味なのか怖くて聞けないままでいる。
「身体の相性やら性格とか色々いいんだけどなぁ」
辺りが静まりかえった午前三時、独り言がお供の帰り道。基本的に一夜を共にすることはない。
相手のスピーシーズが何かを聞くのは無粋だ。本人が味覚障害だと言っている。それだけでフォークだと決め付けられるわけでもない。
「……俺はノーマルだと思うけど、突然なったりするらしいし。気を付けなきゃな」
幼かった田処たちにはあまり関係ない話だが、フォークの味覚障害を治すと謳ったサプリメントが発売されたことがあった。しかし副作用に重大な問題があったため販売は即中止となった。
そのサプリメントに絡んだ殺人事件が起こり、確認されているだけでも二件、関与が確認された。しかし詳しい件数は不明のままだ。メディアで取り上げられてすぐに情報規制が入り、事件の報道と共にサプリメントについての情報はなくなった。
「今は都市伝説レベルの話だけど、まぁまぁ怖いよな。当時出回っていたサプリの中にはケーキをさらに美味しく、ノーマルも食べれるくらいの味にできるなんて怪しい副作用の物があったなんてさ……」
まだまだ暗い道で立ち止まり、スマホを起動する。誰かに襲われるかもしれないなんて思ってはいないが、親からも学校からも言われて育つ身に染み付いた自衛のひとつ。
「味がしないなんて、しんどそうだな……」
五感のひとつを失った世界で生きる絶望がどれ程か判らない。自分ではせいぜい想像するだけで、それでも辛いだろうと察しは付く。スピーシーズ関係なく生きていけるように、公的機関から認可された薬が処方されるといいなと田処は願っている。
◆◇◆
「おはよう、日向。今日もいい天気だね」
夕也以外誰もいないリビングで、愛しそうにテディベアを撫でる夕也は幸せそうに微笑んだ。
――日常と非日常は曖昧な境界線の上で成り立っている。
最後に会ったのは十五日。
必修じゃなくても講義を休んだことのない夕也の姿を、一週間以上は見ていない気がする。
「ねぇ、最近遠藤くん来てなくない?」
「あ、それね。思った。ねー、田処くんなんか知らない?」
「んー、俺もよく判んないんだよね。最後に会った日は普通だったし、LOINしても返事ないんだよ」
自称・遠藤夕也を推す会の女子メンバーが田処に確認するレベルということは、本当にまったく大学に来ていないのだろう。
「仲良しじゃないの?」
「仲はいいけど、男同士だし。互いにそこまで干渉しないけど……今回はちょっと連絡取れないの怖いよなぁ」
さすがに兄が近くに住んでいるから大丈夫だろうと思っていたが、LOINの返事すらないのは気になる。
「そうそう。独り暮らしなんでしょ?」
「うちらは遠藤くんの家知らないけど、田処くん仲良しなら家くらい知ってるっしょ。これでなんか食べれそうな物買って家に突撃して」
「あ、私からも! 風邪とか気持ち悪い系の体調不良だとゼリーとか、スポドリとかがいいけど遠藤くんの好みでよろしく」
シャツの胸ポケットに突っ込まれた千円札二枚を残して彼女たちはそそくさと次の講義に向かった。まだ行くとも返事をしていないのに、考えていることは同じだ。
「まぁ、行くんですけどね」
夕也の家から近いドラッグストアで体調が悪くても食べられそうなレトルトのお粥や解熱剤、飲むゼリーなどを買って、普段なら毎月一日と十五日にしか行かない夕也の部屋の前に立つ。
「……なんか緊張するな」
一応セフレとしてのルールはあるが、今回は例外として受け止めてもらいたい。
深呼吸をして呼び鈴を鳴らすが出てこない。
何度か呼び鈴を鳴らしてみるが、出てくる気配がなく、中で倒れているのではないか? と若干パニックになりかけたところでドアが開いた。
「あ、夕也? 風邪でも……っ」
ひいた? まで、言葉にならなかった。
「なに、その顔色。病院行ったの? 自分の顔、鏡で見た?」
あまりにも顔色が悪い。蒼白としていて、立っているのがやっとのようだ。
田処はひとまず共に部屋へ入って夕也をソファーに座らせ、スポーツドリンクを手渡したが、夕也が緩く頭を横に振る。
「どした? つかお兄さんは? いつも来てくれるんでしょ」
拒絶を示す仕草はどんどん強くなり、そのまま頭が取れそうなほど強く振っていく夕也の異常な状態に田処は呆然と立ち尽くした。
「ぃない」
「え?」
「気付いたら、兄さんぃなくて」
消えそうな声でぽつりぽつりと夕也が話しだす。
「お前が来た翌日、兄さんが来なくて。珍しいなって思ってたら、その次の日も来なくて。なんとなく不安になって兄さんの部屋に行ったら、知らない人が出てきて……っ兄さん、どこ行ったんだろう、なんで俺の目の前から居なくなったのかも、なにもかも判らなくて不安で……色々探したけど居なくて」
泣き腫らした目からさらに涙が出てくる。そこまで日向に依存していたのかと驚く。それ以上に緊急事態だということは判った。
「は、お前に何も言わずに引っ越ししたってこと? 日向さんの部屋どこだよ」
「真上、この部屋の上の階」
「おっけ、とりあえず俺も確認してみるからこのまま待ってろ」
ベッドルームから持ってきた薄手のブランケットを夕也に被せて落ち着かせるために、もう一度スポーツドリンクのペットボトルを手渡し飲むように伝えた。
普段立ち入らない階は同じ建物でも少し緊張する。
呼び鈴を鳴らすと男性の声がしてドアが開いた。
「はーい、はいはい。ちょっと待ってね。どちらさま?」
知らない男。
話に聞いていた遠藤日向は、夕也と同じ顔で印象が正反対という情報しかないが、それでもこの人は他人だと判った。目の前にいる男は年上で、きれいな顔をしている。なんとなく、中性的な印象を受ける顔立ちだ。
「あの、いきなりすみません。下に住んでる友人の身内の方が住んでいると伺っていたんですが……」
「私の身内は県外にしかいないし……、もしかして、先週来た子のお友達? あの子大丈夫だった? うちに来て、兄さんじゃないって言ってそのまま顔色悪くなってたから気になってて」
貧血とか起こしそうな顔色だったけど、そのまま帰っちゃったから声かけれなかったのよね。と女性的な言葉遣いで話す男・知花夏葉は教えてくれた。
「ちょっと、体調悪くしてたみたいで、ご迷惑おかけしました。ちなみに、遠藤って名字、この階でご存知ないですか?」
「んー、ごめんなさいね。このマンションに越してから結構経つけど、記憶にないわ。でも、ほら最近は物騒だからご挨拶もしない方多いし、もしかしたらどこかの階にはいらっしゃるかもしれないわね」
「そうですか、いえ。ありがとうございます」
オネェ口調だがサッパリとした印象の人だ。
「あの、長く住まわれてるってどれくらいですか?」
「……今年で十年くらいにはなるわ」
「そうですか、色々とありがとうございました」
夕也が引っ越してきたのは大学に入る前。同じくらいのときに兄の日向も引っ越したと聞いているが、そうなると計算が合わない。
「どういうことだよ」
田処はぼやきながら夕也の部屋へ戻る途中、会った管理人にも話を聞く。遠藤という名字は、夕也以外住んでいないと言われた。夕也が嘘をつく必要はないし、嘘ならばなぜそんな嘘をつかなければいけないのかが判らず、頭を抱えることとなった。
ひとまず夕也の部屋に戻ろうと踵を返す。
一人残して来たのも気になるが、それ以上に田処だけでは対処しきれないため、家族に連絡をした方がいい気がしてきたからだ。
「夕也、戻ったけど体調どう……?」
玄関に入るとリビングの方から声がする。
誰だ、日向か? と思いながらリビングのドアを開けてみても、夕也以外いない。
「夕也? 誰かいるのか?」
「あ、田処。日向がさ、変なところにいたんだ。なんか、かくれんぼしてる感じらしくてさ。やっと見つけたんだよね」
ソファーに座っている黒い斑点柄のリボンを首に巻いたテディベアと夕也。リビング以外に人がいる気配はない。
「あ、そうそう。日向、あそこに立ってるのが、田処。そうだよ、よく遊びに来てるやつね」
嬉しそうに、楽しそうに、安堵した表情と恋人を見るような視線でテディベアを見つめる夕也に怖気が全身を走った。
「日向は俺と違って人当たりいいから、田処ともすぐ仲良くなれるよ」
目の前にいる夕也は誰と話をしているのか判らない。田処は鳥肌がとまらず、リビングに一歩入った位置から動けなくなった。
「……田処?」
「あ、見つかって、よかったな……お兄さん」
「うん、ごめんな。驚かせて。お粥とかありがと」
「ううん、大丈夫。あの、落ち着いたらさ、学校来いよ。じゃ、またなんかあったら連絡してくれ」
言いきってすぐに部屋を出た田処は、早歩きでエレベーターへ向かったが、考え直して非常階段から小走りでくだり、気が付けば全力疾走で自宅を目指している。
先程感じた怖気が侵食して心臓にたどり着く前に、一刻も早く夕也の家から離れたかった。
兄が好きなテディベアを兄と呼び、兄として扱う光景は常軌を逸していた。
◆◇◆
季節がひとつ終わった頃。
田処は教授から連絡を受け、警察と話すことになっていた。教授は同席しないらしく、来賓室に刑事と一緒に通された。
なんでも、親御さんから連絡が入ったという。定期連絡が途絶えたから気になって家に行ったら居なくなっていたそうだ。
「……遠藤が失踪、ですか」
詳しい話を聞いても情報が頭に入らない。
最後に会ったのが自分だという可能性が高いと、話を聞きに来た刑事二人にそう言われた。
「遠藤とはお互い家に行ったりして遊ぶ仲でした。最後に会った日は、一週間くらい遠藤が大学を休んでて、連絡がとれないからってアイツのファンクラブみたいな女子たちからのカンパも貰っちゃったから、レトルトとか買って、家に行きました」
「そうですか、では最後に会った日の遠藤くんの様子を教えてください」
あの日、あったことはいやでも鮮明に思い出せる。
できるだけ簡潔に話をしようと思うが、喉元で声が絡まるような感覚がして、お茶を飲んだ。
「……あの日、俺は大学の講義を終えて昼過ぎに遠藤の家に着きました。何度も呼び鈴を鳴らしても出てこなくて、管理人さんを呼ぼうか迷ったくらいでやっと出てきたんです。顔面が蒼白で、目は泣き続けてたのかとても腫れてて、何かあったんだとは思いました。理由を聞いたら、アイツのお兄さん……日向さんがいなくなったと。それでひどく錯乱していて」
「待ってください。遠藤さんは、お兄さんがいなくなったと言ったんですか?」
今までメモをとっていた刑事が怪訝そうな顔をする。
「はい。ただ、そのお兄さんが住んでいるはずの部屋には別の人、知花さんという方が住んでいて……」
あの日最後に見た異様な光景を話した方がいいのか田処は迷う。
「……お話、知花さんに聞きに行ったんですか」
今まで黙って田処の表情などを見ていた刑事が穏やかに問う。
「はい、俺は日向さんのことは夕也から話を聞くだけでしたから。会ってみたかったんです。一卵性双生児で顔は一緒なのに社交性があって正反対な人間だって。結局会えなかったんですけど」
「そうですか、それで最後にお会いした夕也さんの様子をもう少し詳しく教えていただいてもよろしいですか?」
まだ話していないことがあるだろう。と視線が云う。
少なからず話すことを躊躇していたのは事実だが、隠せる気がしない。できれば、この記憶を忘れてしまいたいのに、現実はそう甘くないようだ。
「……俺が知花さんの家から戻ったとき、夕也はお兄さんが大切にしていた黒い斑点柄のリボンをしたブラウンのテディベアを日向と呼んで、まるで生きている人間相手のように話し掛けていました。それから、しばらくしてLOINに、休学することにしたから、と連絡があったんで、あの日からは会っていません」
「そうですか。貴重なお話、ありがとうございました」
メモをとっていた刑事が安心させるように笑い、田処を観察していた刑事は会釈をした。
「あの、遠藤にお兄さんっていたんですか」
夕也とセフレ関係になってからずっと気に掛かっていたことだ。
「……えぇ、いましたよ」
「では、また何かあったらお話を伺うことになると思います。ありがとうございました」
被せるように挨拶をして帰って行く。終始探るような鋭い二対の視線の中話をするのは肝が冷えた。二度と会わないように願いたい。
「夕也、失踪したのか」
兄についてはよく話を聞いていたが、親については聞いたことがなかったけれど、捜索願を出してくれるくらいの関係が続いていたのなら、まだよかったのだと思うことにした。
――極上の肉を食べたあとの充足感に匹敵するものはなんだろうかと問われれば、俺は一卵性双生児の兄・日向とのセックスだと答えるかな。と言われたのはいつだったか。
近親相姦なんて言葉よりも、男同士でのセックスがそんなに気持ちがいいのか気になり、そこからセフレの関係になったと記憶している。
まさかこんな未来があるなんて思いもしなかった。
「……実際、アイツに兄は、いたのか」
自分の聞き方のせいか、そのままの意味か。
夕也の兄・遠藤日向は生きていないのではないかという、推測が現実味を帯びて来た。
「あなたが、田処識さん?」
大学に行く道すがら、品のいい女性に声を掛けられた。
「え、はい。そうですけど」
「あぁ、よかった。少しお話させてくださらない?」
穏やかな声とは裏腹に、拒否権はない口調で問われる。
「……これから講義あるんで、その後でもよければ」
「そうよね、気づかなくてごめんなさい。じゃあ、終わったらこのカフェに来ていただけるかしら」
名前を知られていることよりも、女性の顔が夕也にそっくりで、断ることはできなかった。
大学から少し歩く。
裏路地に入って路地を曲がるとビル街の中に、ぽつんとアンティーク調のカフェがある。渡されたメモと店名を見比べ、田処は遠藤夫人が待つカフェへと入った。
「お待たせしました」
「いいえ、ごめんなさいね。いきなり押し掛けて。このお店の場所すぐにお判りになった?」
「メモに地図が描いてあったので、判りやすかったです。こんなところに素敵なカフェがあるなんて初めて知りました」
本日のオススメのアイスコーヒーを頼み、田処は居ずまいを正した。
「……緊張なさらないで。私は遠藤夕美、あの子の母です。あなたに伺いたいことがあって、このお店に出向いていただいたの」
「お顔がそっくりですぐに判りました。改めまして、田処識です。夕也くんのことですよね」
夕美は一瞬目を見張って、微笑んだ。そんな仕草も似ている。
「そうよ。あなたが最後に会った人で、あの子の家にも入ったことがあると警察の方から伺ったら、いてもたってもいられなくて。あの子はどんな子でした?」
「……どんなって、兄思いで、味覚障害なのに美味しい料理が作れて、気遣いできるのに人見知りなのか友達少ない印象で、お兄さんが好きだっていうテディベアを大切にしていました」
さすがにセフレで身体の相性がいいなんて言えないので黙るが、よく似た顔で見られると落ち着かない。
「兄が、いると。あなたに言ったの。そう、あの子の中にはまだ日向は生きていたのね」
一瞬会話が途切れる。
カフェのマスターがアイスコーヒーをサーブしてくれた。
「……あの、失礼ですが、もしかしてですけど、日向さんて亡くなってますか」
「えぇ、そうよ」
花がほころぶように微笑んだ夕美が肯定する。
「本当はお話するべきではないんでしょうけど、あなたはたぶん私よりもあの子を知っているからお話聞いて貰えるかしら」
穏やかに話し始めたのは思っていたよりも重い内容だった。
「あのね、実は食べられちゃったの。ずいぶん昔のことよ。あの子、ご飯が美味しくないってゴネる日が続いていて、病院に連れて行ったりもしたのだけど、一時的な味覚障害かもって言われたの。それからしばらくして、日向の背中に〝紋印〟のような痣を見つけてしまってショックだったわ。自分の子供たちが、殺し殺される関係かもしれないのだもの。でも自分の子供よ。精一杯愛情を注いで、精一杯育てた」
〝紋印〟とは、フォークがケーキを自分のモノだと主張するためのマーキングであり、その形は個人を識別できるのではないかと言われているほど千差万別。特別な拘束力などはないが、マーキングされているケーキは他のフォークから狙われにくくなるらしい。
本当かどうかは判らない。
夢の話をしているような気軽さで話す夕美は、田処が相槌も打てずにいることに気付いていないのかそのまま話を進める。
「精一杯、育てたけど、小学生になってすぐくらいに、あの子が血だらけでリビングに座っていたことがあってね。とても驚いたわ。喧嘩ひとつしたことなんてないのになんで血だらけなのかしらと思って抱き上げたら、日向の首を齧っていたの」
胸の前で丸いなにかを持つジェスチャーをする。それはきっと日向の頭なのだろう。
「……双子の兄を、食い殺したってことですか」
「そうなの、子供だからかしらね……日向というご馳走を目の前にしたら、堪えきれなかったのかしら。それとも、あの子がいつか人を殺めてしまうかもと怖くなった時、私が心から愛せなくなってしまったのを理解したのかもしれない。あの子をただひたすらに愛していたのは日向だけだったもの。そういう運命だとは判っていたけれど、やっぱり驚いてしまって主人にも迷惑を掛けたわ。でも、そう。まだあの子の中には日向は生きていたのね。殺した記憶がないなら、そうなのかしら」
夕美は、氷が溶けて薄くなったアイスティーを一口飲んで、また微笑んだ。
「最後に会ったとき、あの子はどんな風にしていたのか教えてくださる?」
田処は鳥肌のたった腕を擦りたいのをこらえ、氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーで乾いた唇を濡らし、警察にも伝えた内容を簡潔に伝えた。
「……あの、夕也のこと心配ですか?」
田処の問いに夕美はキョトンとして、またくすりと笑う。
「そうね。あの子は人殺しだもの。また誰かを殺すんじゃないかって思ったら心配よ」
あぁ、狂っている。この人はもう壊れているんだな、と田処は思った。
会話の中で、夕也の名前を一度も呼ばない。警察が動くということは事件性があるはずなのに、穏やかに笑っている。
親が子に注ぐ愛情とは別の、もっと忌んだ感情を持っている気がして背筋が冷えた。
「田処さん、ありがとう。あの子の近くに居てくれて。私と話をしてくれて。これでもう思い残すことはないわ」
晴れやかな表情の夕美は、深くお辞儀をして帰って行った。
大学では、夕也が失踪したという噂が流れ始めている。事実とはいえ、ニュースにもなっていないのに一体どこからの噂だろうか。
居心地の悪い空気と、静かにしていれば噂も消えるだろうと思うことにして田処は黙っている。
「……でさ、最近さ、#匙って投稿多くない?」
「あ、それね。最近流行なんかな」
大学構内ですれ違う女子の会話が耳に入った。
「そうそう、救うものだっけ? 自殺願望者募ってるみたいで嫌だな」
「あっは、判る。でもさ、救われるんなら話してみたいかもとか思っちゃうよね」
「それな。愚痴は大事だしね」
「ほんとそれ。メンタルヤバイ人多いしね」
◆◇◆
きっと切っ掛けはすごく簡単で、そこら辺に落ちている小石に躓いたくらいの気軽さだ。
「……日向、日向」
田処が帰ったことも判らない。
錯乱した夕也には兄が自分のベッドルームに隠れていただけで、生きていたという事実だけで胸がいっぱいになり、田処が用意してくれたゼリーを食べさせようとしている。
「ねぇ、日向。なんで笑ってるの? ずっと食べてないんだからなにか食べなきゃダメでしょ? ねぇ、日向。なんで声聞かせてくれないの? ひなた、ねぇ……なんで人形みたいに笑ったままなの……ひなた……」
泣き崩れる夕也に微笑むだけの日向は瞬きをしていない。
「……わかった、日向じゃないんだ。ねぇ、誰なの! 日向はどこにいるの!? 日向を、兄さんを返してよ!」
子供が癇癪を起こしたように泣きわめきながら、軽すぎる兄の身体をソファーから床に叩き付けた。
「……っ、え、にぃさん、え?」
叩きつけた先には、兄が大切にしていたテディベア。先ほどまで居た日向は姿を消してしまったことに混乱する。
「にぃ、さん? え、日向、ひなた?」
大切に大切にしていたテディベアが床に落ちていたショックと、日向が再び消えたショックで夕也はパニックになりながらもテディベアを抱き上げた瞬間、軽い音がした。
「……なにか、落ちた?」
大粒の涙を溢れさせながら、足元を確認する。白い何かが落ちている。
濃厚な甘い香りがして、本能的に食べたいと思った。
「……これ、骨と爪だ」
小さい骨と、三日月の形をした爪。
長細いものと、丸っこいものと、蝶々のような、大人のサイズではない、細くて真っ白な骨。
大切にしていたテディベアの腹からこぼれ落ちた骨と爪が甘い香りを放っている。
黒い斑点柄のリボンが解け、縫い合わせた腹部の生地が出てきたらしい。
血まみれの幼い日向と、血だらけの自分。
甘くて、濃厚で、これ以上美味しいものは他にはないと思った記憶がフラッシュバックして来る。情報量が多く頭が割れそうに痛く、何も食べていないため胃液が逆流した。
「ひなた、が、しんでる……? おれが、ぁ、食べた……ぁぁぁあああああああああああ!!」
甘くて優しい兄が死んでいたことを受け入れきれず、大切に大切に骨を拾いあげてテディベアの中に戻す。
今まで一緒にいた兄はなんだったのか、死んでいたという記憶が本物なのか混乱したまま、夕也は呆然と立ち尽くした。
それからどれほど時間が経った頃か。
夕也は泣き疲れて気絶したように寝てしまったらしい。
遠くから聞こえていた呼び鈴が段々と近くなり、現実に引き戻された。
「っ! え、だれ、にぃさん?」
現実と妄想が入り乱れて心身共にボロボロの夕也は、テディベアを抱いたままドアを開けた。
「ハァイ、夕也くん。一週間ちょっとぶりかしら」
知らない男が立っている。
いや、知っている、目の前に立つ男は日向の家に住んでいた男だ。
「なんで、あんたが」
「あら、せっかくのお迎えよ。お兄さんのところに連れて行ってあげる」
「ほんとう?」
「えぇ、本当。だって、救うものなんですから」
性別を感じさせない微笑みは、遠い昔、まだ兄が生きていたころの母の笑顔に似ていた。
◆◇◆
「ねぇ、知ってる? #匙っていれると、救いが来るんだって」
「本当まじ最近流行りだよね、失踪者も増えてるらしいじゃん」
「みたいね。救いなんかないのにね」
「言えてる。まぁ、気軽に救われたいと思うのもいいかもね。とりあえず単位欲しい」
「わかる。それな」
学生たちの間で広がる噂と、消える噂。
田処が息をついて生活できるようになったころ、学生食堂でいつもついているニュース番組から速報が流れた。
――速報です。速報をお伝えします。✕月✕日から消息不明だった遠藤夕也さんと思われるご遺体が、本日未明◯県の山中で発見されたとのことです。詳細につきましては――。
やっとできた呼吸は、また苦しくなった。
【了】
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